Ⅶ 夜港の表裏
摂政となったパライオスではあるが、姉にブルトン王との婚姻関係ができてからはエーリウの執政として補佐してきたこともあり、役割としては大きく変わらないと考えていた。しかし、よく考えるとそうではない。姉の承認の下に行って来たことと、自分の名で行われることになるのとでは、全く違うのだ。
パライオスはそのことに思い至ると、今の自分に姉の死を悲しんでいる暇すらないことを自覚した。
オレネイアの葬儀、オルガの後継者承認、各部族への通達。これまで執政として担ってきた仕事に加え、女王にしか裁可できなかった案件まで、次々とパライオスの前へ積み上げられていく。女王公邸はあっても、政府という建物がないエーリウという国の在り方が問われていた。
「それで、フィンバロス殿は如何した?」
書類から顔を上げたパライオスの問いに、カチュアが珍しく頬を膨らませた。眉間に皺が寄り、折角の美人が台無しである。
「女王公邸へ着くなり、逃げました」
「……逃げた?」
「オルガに『また顔出しに来るぜ』とだけ言い残してね」
パライオスは額を押さえた。カチュアのイライラの原因であることが分かると、直ぐに退席させる。カチュアは顔を輝かせて、部屋を飛び出していった。
§
「待ちなさい!」
何処からともなく聞こえた声に、フィンバロスの肩が跳ねた。振り返らなくても分かる。
「……よ、よう、カチュア」
「よう、じゃないわよ! どこへ行くつもり?」
「ちょっと、そこまで……な」
こっそり周囲を窺うも姿は見えなかった。カチュアは溜息を吐き棄てて、睨みつける。ダンッ!と一際大きな音がして、屋根からカチュアが落ちて来た。
「どうせ床屋でしょう?」
フィンバロスは分かりやすいほど首を引っ込めた。目の前に麻の洋袴に覆われたカチュアの脚がある。
「ひ、人聞きの悪いこと言うもんじゃぁ、ないぞ?」
「違うの?」
台の上に乗り、フィンバロスの前を塞ぐように脚を出して、民家の壁に体重を掛けたカチュアが、頭の上から見下ろす。
「……まあ、床屋だけどよ」
パライオスの娘、カチュア・トンネイアは大きく溜息を吐いた。心底がっかりしたと言わんばかりに、耳を引っ張る。
「オレネイア様がお亡くなりになって、オルガ様はあんな状態なのよ。それなのに、あなたは女王公邸から逃げ出して床屋?」
「いっ、痛え! 耳が千切れる!」
「あんたが動かなきゃいいのよ」
カチュアが莫迦なの?と言わんばかりに耳を引っ張る。
「イテッ! 逃げたんじゃねぇよ」
「じゃあ、なんなのよ」
流石に気が引けたのか、耳から手を離すと、言ってみなさいよと、言わんばかりに促す。
「……ちょっと用事を思い出した」
「床屋に?」
「そうとも言う」
カチュアはフィンバロスの腕を掴んだ。
「ちょっ、待て!」
「話があります」
「ここでいいだろ」
「駄目です!」
周りに居た者は誰一人として間に入らない。夫婦喧嘩は犬も食わないという奴だ。カチュアがフィンバロスに恋しているのは、誰の目にも明らかで、フィンバロスも憎からず思っている——と見られている。誰もが「またか」という顔しかしない筈だ。
フィンバロスが連れて行かれたのは、二人がいつも使っている港の飯屋だ。そこは〈ダルバーン〉の海兵たちの根城でもある。当然、トンネイア一家の面々がいた。
「御頭! 遅えっすよ」
「お! 昼間っから女連れかよ、艦長!」
「カチュア様も一緒だぞ!」
二人を見てからかい始める。
「お前ら……」
そんなこと言ってるととばっちりを食うぞ……と思いながら、牽かれる仔牛のように大人しくする。
「ちょうどいいわ。あなたたちも聞きなさい!」
やはり巻き込んだ。トンネイア一家の面々にフィンバロスを見張らせながら、誰かが渡した蜂蜜酒を平らげると、フィンバロスにしていた説教が、いつしか海兵たちへの説教へと変わっていく。
カチュアの周りに木のジョッキがいくつも重ねられていく。
航海から戻るなり酒を飲むな、喧嘩をするな、床屋へ入り浸るな。次から次へと日頃の悪行が暴かれ、海兵たちは小さくなった。
「それと、この前——」
カチュアが海兵の一人を指差した。皆の視線がそちらへ向く。そして、再び振り返った時には——。
「あれ? 艦長がいねぇ」
「フィンバロス! 逃げんなぁ!」
そこには大人しく牽かれていたフィンバロスの姿はなかった。
§
盛り上がるカチュアに酒を渡したのはフィンバロスだ。カチュアの注意を逸らして、自分は場末の床屋に来ている。
「ふふっ、今日こそ泊まってく?」
長い髪を後ろ手に束ねた娘は笑って聞いた。冗談という感じではない。フィンバロスがそうしないからからかっているようだった。
「いや……これを届けに来ただけだ」
フィンバロスは懐から袋を取り出し、卓の上へ置いた。娘はずっしりとした重みのある袋を開ける。中には豆銀が入っていた。
「助かるけど、さ」
「黙って取っとけよ」
娘は少しだけ寂しそうに笑って、外を見た。窓の外に綺麗な青空が広がっている。フィンバロスも釣られてそちらを見れば、港のエーリウ・ソラスの喪章旗が目に入った。
かつて〈ダルバーン〉には、この娘との結婚を約束していた水夫がいた。しかし、二人が夫婦になる前に、その男は海で死んだ。嵐の中、帆を畳むためにメインマストに登った。帆を落としたまでは良かったが、弾けた静索の金具が頭に当たり、海に落ちてそれっきりだった。
「もう三年になるわ。艦長があの人の死を告げに来てから」
嵐のあと、フィンバロスは掃海作業を買って出て懸命に捜索した。しかし、体の一部すら見つからない。そうして三ヶ月もしてから、フィンバロスは訃報を携えてこの娘の家に行ったのだ。
一艘一家。同じ艦の船乗りは、皆が家族だ。弔慰金や扶助金はある。だが、婚姻前だった女は、まだその一家の中に居なかった。だから、知らせたのも、こうして見舞金を持って来続けるのも、フィンバロスが勝手にやっていることだ。
「いつまでこんなことをするつもり?」
「……知らねぇよ」
フィンバロスはそれだけ言って、床屋を出ていった。
§
その夜。
フィンバロスは港の外れにある場末の飲み屋で、一人酒を煽っていた。
「フィン坊、あんた、まぁた、カチュアから逃げてきたのかい?」
女将が呆れたように言う。
「逃げてねぇ」
「じゃあ、なんでこんな所で飲んだくれてるんだい」
フィンバロスは答えず、ジョッキに口を付けて干した。女将は空になったジョッキへ麦泡酒を注ぐ。
「いいのかい? このままだとカチュアに振られちまうよ」
「誰があんな口うるせぇ女」
「そういうことにしといてやるよ」
フィンバロスは顰めっ面をする。
「うっせぇ! 恰好悪くてホントのことなんざ言えるかってんだ」
後半は口籠りながら言ったにも関わらず、女将は地獄耳だ。
「ナマ言ってんじゃないよ。恰好つけてる内は、まだガキって言うんだよ。フィン坊」
「……うるせぇな」
女将には頭の上がらないフィンバロスだった。孤児だったフィンバロスをこの飯屋で雇い、飯を食わせてトンネイア家と養子縁組まで世話してくれた大恩人である。それは仕方のないことだった。
§
夜更けになっても、パライオスの机から書類は減っていなかった。明日になれば奏書は更に増えるというのに。
「お父様!」
勢いよく扉が開き、カチュアが入ってくる。ノックもせず、族長の娘らしい淑やかさは微塵も纏わず、大股で闊歩して。この娘はいつになったら海兵の恰好を辞めてくれるのかと、頭を抱えたくなる。
「フィンバロスがまた逃げたの!」
「……そうか」
「そうか、じゃない!」
娘の怒鳴り声を聞きながら、パライオスはようやく筆を置いた。私邸とはいえ、執務室である。妻亡きいま、一人娘のカチュアを跡取りとして婿を取るか、あとは、オルトに譲るか、分家の優秀な者を養子に取るか——と考えを巡らせていると、カチュアが机を両手で叩いた。
「ねぇ! 聞いてるの? お父様!」
「あぁ……聞いている」
賑やかだった姉がいなくなっても、ダーナターラの夜はいつもと変わらず騒がしかった。




