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もう『直樹』のことばは綾野に伝わっている。
あの扇が持ち去られたこと、それはひょっとしたら今までは綾野に伝わっていなかったんじゃないか?
里岡夫婦は扇盗難の意味をわかっていた。それがどれほど致命的なミスだったのか知っていた。だから『直樹』を叱責し問いつめ、扇を秘密裏に回収しようとした。
だが、おそらく扇はまだ戻っていない。いや、むしろお由宇の手から当局へ、手ぐすね引いて待っていただろう京都府警へ流れただろう。
綾野の焦りは高野や朝倉家の動きが始まったからだけじゃない、『SENS』ルートの洗い出しが進み、ルートそのものの壊滅の可能性ばかりか、自分には絶対届くはずのない手が伸びてくる可能性がでてきたからだ。
「滝さん?」
「君はどこから入ってきた?」
離れのベランダから庭へ抜け、『直樹』の肩を抱きかかえるようにして尋ねる。
「あそこへどこをどう通って」
「あの、でも」
廊下を通ってきたし、入ってきたのは玄関から、でもこの庭が表に続いているかどうか。
「どうして? なぜ外へ?」
室内ではどこへ行こうとマイクがあるはず、そう思ったとたん、はっとして離れに入るまでに着替えさせられたシャツとズボンのポケットや合わせを探る。
そうだ、綾野のことだから部屋だけにマイクを仕込むはずがない、むしろ俺の服か何かに、さすがにカメラは無理でも、盗聴器ぐらいは。
「何してるの?」
「いや、ちょっと、その」
説明するわけにもいかずにあちこちひっくり返していると、
「ここですよ」
すい、と『直樹』の指先が伸びてシャツの襟の後から薄いプレートを引っ張り出してぎょっとする。
「これでしょう?」
「あ、ああ」
「ね?」
にこりと笑った『直樹』がそれを指先から滑り落とし、止める間もなくがき、と靴の踵で踏みにじった。
「な、『直樹』くん?」
「え…?」
瞬間、『直樹』は動きを止めた。まじまじと自分の指と俺とを見比べ、やがてゆっくり自分の足を見下ろす。
「……僕、……これ……壊しちゃいました…」
信じられないようなあやふやな声音、不安そうに眼を上げてきて、
「どうして…?」
「……行こう」
その肩をもう一度抱えて歩き出す。前方の小道の端に裏門らしいものが見えている、そこを目指してどんどん歩く。
「どうして…?」
『直樹』は困惑と不安を浮かべてぼんやりした顔で額を押さえた。
「どうして……壊しちゃったんだろう…」
「いいんだよ」
俺は震え出している肩を握る手に力を込めた。
盗聴器が壊されたのはすぐに伝わる。明らかな敵意も伝わっている。
綾野は追っ手を出すのにもう躊躇しない。できるだけ早く『直樹』をこの場所から離れさせなくてはならなかった。
「だって」
「いいんだ、あれは盗聴器だと思う」
「盗聴器…?」
「だから壊してもいい、いや、壊すしかなかったんだ」
「壊すしか、なかった…」
「ぐっ」
いきなり『直樹』が立ち止まって、俺は目一杯自分の足を自分で踏んだ。
「ったたた、おい、『直樹』くん!」
「どこへ、行くんです?」
「え」
「なぜ、こんなに急いでるんです?」
振り仰いできた瞳は、サングラスの向こうで怯えていた。
周一郎は、こんな風に怯えない。
冷然と人を見下す視線、それこそ自分が切り刻まれていっても、他人事のように冷静なはず、だからこれこそ周一郎ではありえない証拠、けれどその表情は肩を怪我して俺の部屋に転がり込んで来た時、俺を庇って撃たれた時の顔を思い出させた。
何も誰も信じられない、その世界に一人放り出された孤独と傷み。
「滝さんっ」
「大丈夫だ」
ぐい、と頭を掴んだ。引き寄せ、ごしごし、と荒っぽく撫でた。
「大丈夫だ」
「で、もっ」
盗聴器? なぜ滝さんはそんなものを付けてるんです? なぜ僕はそんなものを見つけられるんです? なぜ僕はそれに驚かないんです? なぜ僕はそれを当然みたいに壊しちゃうんです? なぜ僕は。なぜ僕は。
「っっっ」
がたがた震えながら、『直樹』は俺の服にしがみついた。
「教えてっ、くだ、さいっ……っ」
僕は、一体、誰、なんですか。
「なお…」
「家のアルバムに僕の写真は数枚しかなかった。卒業アルバムが小学校のも中学のも一冊もない。僕の服がみんな新しくて、僕の部屋は僕が使った覚えのないもので一杯で、僕の友人のメルアドも住所も電話番号も名前もどこにもない…っ」
滝さんっっ。
悲鳴のような叫びが堪えかねたようにしがみついてきた『直樹』から溢れる。
「助けてっ、助けてっ、助けて…っ!」
「なおき…っ」
「みんなが知ってる僕が、僕じゃない…っっ!!」
ああ。
「『直樹』くん!」
がくがく震えている体を抱き締める。
ああ。
ああ。
ほら、見ろ。
人一人の存在は、これほど揺らぎ無く強固にその基盤を世界に結びつけている。
たった一人で生きていく孤独から救ったつもりでいて、見ろ、同じ孤独、いやもっと酷い、その孤独の中で気づかない顔をして生きていけと命じられたような状態に追いやって。
「滝さん! 滝さん!」
壊れちゃうよ。
「『直樹』!」
だから、堪えかねて、耐えきれなくて、唯一自分の真実を知っているかもしれないと、『直樹』は俺を探しまわった、それがそれまで自分が居た世界を壊していくことだとしても。そしてようやく辿りついて、掴みかけた『何か』が今、目の前で指の間からすり抜けて。
「『直樹』!」
「違うっ」
「えっ」
「違う、違う、違う…っ」
身悶えていた『直樹』ががばりと顔を上げて、ずれたサングラスの向こうからびしょ濡れになった顔で呟く。
「僕は……さとおか、なおき、じゃない…」
「う」
「でも……じゃあ……僕は……だれなの…」
滝さん。
「教えてよ…」
「君は」
「……うん…」
「君は……」
ここで告げる真実は、きっとこの先こいつを追い詰める。
ここで教える名前は、きっとこの先こいつを苦しめる。
そして、ここで伝える意味は、こいつを再び一人にすることになるかもしれない。
それでも、それこそがこいつの真実であるならば。
大きく息を吸う。
神様。
サイコロ振ってる悪戯好きのあんたに、今だけお願いする。
こいつがこれ以上傷つくことがないように、どうか守ってやってくれ。
誰にも助けを求められなくて、一人でずたずたになっていくようなまねなんか繰り返さなくていいように、たとえば記憶が戻っても、俺には助けを求めていい(有効かどうかは別にして)、そう覚えててくれるよう、守ってやってくれ。
ゆっくり吐き出し、それから『直樹』を覗き込んで丁寧に教えた。
「君は、朝倉、周一郎だ」
「……僕、が」
『直樹』がゆっくりとことばを繰り返す。
「あさくら、しゅう、いちろう、」
僕が。
「あさくら」
周一郎。
瞳が潤んでほっとした顔になりかけた矢先、
「違う」
「!」
凍るような声が背中から響いた。




