第十七話 柳生うる国タサリオンの草原
第十七話 柳生うる国タサリオンの草原
閃光に目が眩み、目を開いているのか閉じているのか判らない。
爆発音と、突風が吹きすさぶような轟音は、次第に収まり、耳鳴りのような甲高い微かな音に収束されてゆく。
爆発後の無重力の空間を漂うような感覚は、耳鳴りが収まるにつれて無くなり、天地が定まってゆく。
瞼越しの閃光で真っ白だった視界も暗闇に包まれてゆく。
いつの間にか浩平は静寂と闇とに包まれていた。
────この感覚には覚えがある。
浩平の目が暗闇に慣れてくる。
あたりを見回すと満天の星空。
いつの間にか船のベンチに座っている浩平。
体は機械仕掛けではない。
でも、実際の肉体でもない。
「また、ここに来てしまったのか。レムルの静かな海に……」
シタテルは浩平の腕の中。
瞳を閉じている。
眠っているのだろうか?
船の進む先、エレッセアの岸辺よりのあの呼び歌は聞こえない。
音は一切聞こえない。船は音の無い世界を進む。
この前の夢よりも速やかに、船は二人をエレッセアに運ぶ。
前回の船旅の時より夜空の星はその数を減じ、船の行く先は日の出の気配を孕んで薄明るくなっている。
浩平は確信した。
この船は程なくエレッセアの岸辺に着くだろう。
ついにシタテルは現実世界の全てを放棄したのだ。
悲しみがシタテルを深い海に沈めてしまい、彼女はもがく事も息をする事もやめて、底の底まで落ちてゆくつもりなのだ。
浩平との短い絆も彼女を留める事はできなかった。
…………。
いや、そうはならない。
そうはさせない。
ここは浩平とシタテルしかいない世界。
シタテルの選択はなされてしまった。
しかし、まだ浩平自身の選択が残されている。
───俺はまだ絶望していない。
ここに俺が確かに存在しているのならば、俺によって創造される世界もあるはずだ。
ふと気が付き、見渡せば、島影が見る見る近づいてくる。
空はどんどん明るさを増し、この穢れなき土地にもとうとう夜明けが訪れるのだ。
船はエレッセアの岸辺を望む内湾に入った。
浩平は気付いた。
頬に当たる風に。そしてほんの僅かではあるがこの船を揺らす波音に。
それは世界の理が覆される予兆のようなもの。
それは決して禍々しい変化ではない。
「シタテル、シタテル」
浩平は優しく声をかける。
「浩平さん……」
シタテルは呼びかけに応えるが、瞳は開かない。
「シタテル、目を開けてごらん」
「……。いいえ、浩平さん。私はもう目を開きたくはありません。私の目はあまりにも多くの悲しみを見てまいりました。私達は失敗し、数日後に地球人類は滅びてしまうでしょう。私が学校などに行って、平和な日々にうつつを抜かしている間に、蛇は戸口まで迫っていたのです……。この日のためにしていた準備も全て無駄になってしまった!」
閉じたままの瞳から涙がこぼれる。
「私たちレムル人は二重の記憶を持っています。個人としての思い出と、レムル人全体としての記憶。私が生命を手放したとき、私個人の記憶はレムル人全体の記憶『記憶樹』へと統合されるのです。浩平さん! 貴方はどうか逃れてください! 私を迎える船の席を、あなたにお譲りいたします。ああ、私はもう何も見たくはありません。私を送る船に私が乗ることは無いのです」
シタテルの涙は見る間に紅に染まっていき、血涙となってこめかみへ流れ落ちる。
「私はあなたと海を渡り、あなたも死の国にいざなおうとしていたのです。自分が逃げて行く道行きの道連れとして……。私は罪深い女でございます。私はレムル人の記憶と業をあまりにも多く受け継いでしまった。………、ですが、今こそ心が定まりました。私は一人で行こうと思います。あなたと一緒に行きたかった。だけど、あなたをあなたの大事な人達から奪うことも出来なかった。……どうか、このまま私を海に沈めてください。そして……、そしてあなたは、あなたの魂の帰る場所に赴いてください」
程なく船は遠浅の砂浜に静かに乗り上げた。
浩平は目を閉じたままのシタテルを抱き上げると、遠浅の瀬を歩き、優しい風と共に、さやさやと草が靡く、目の前に広がる草原へ向かった。
───俺は死んだのだろうか? 今が会長の言っていた最後の選択の時なのだろうか?
浩平は否と思う。
瞳を開かないシタテルにはまだ判らないのだ。
この土地の清浄な空気の中に、朝の訪れを祝うかのように喜びの気配が充満していることに。
岸から遠くない草原の小高い丘の上で、浩平はシタテルを下ろした。
見慣れぬ草花に混じり、小さく咲いているシロツメクサの花を発見し、そっと手折る。
朝日を浴びて輝くシタテルの金髪にその一輪を差す。
そして浩平は静かにシタテルの唇にそっと自分の唇を重ねる。
シタテルの温もりが唇を通して伝わってくる。
長い睫毛を伏せているシタテル。
そよそよと草原の風が頬を撫でる。
「シタテル! 着いたよ目を開けて!」
「浩…平…さん?」
シタテルはやっと目を開ける。
シタテルを覗き込む浩平の顔が間近にある。
浩平はまっすぐにシタテルを見つめている。
「………ここは?」
赤面し、浩平の視線から逃れようと視線を逸らすシタテル。
浩平はシタテルの問いに、言葉で答える代わりに辺りを見回すように身振りで促す。
風の音と揺れる草原のささやきが、まるで旋律のように響く。
浩平は笑顔でシタテルを抱き起こし、地面に立たせる。
「ここは……」
風で乱れた髪を手で整えなら、草原に立つシタテル。
草原の小高い丘の上の一本の柳の木の下にいる。
風が吹き抜けてゆく先、なだらかな草原の斜面を下った先は、何処までも続く草の海。
遥か彼方には山頂を雪冠で飾った大きな山脈が見える。
風上に目を転じれば、草原は幾許も無く終り、さざ波の打ち寄せる、幅のあまり無い砂浜が、リボンのよう伸びている。
近くの波打ち際には優雅な船が一艘投錨していた。
「……とうとうたどり着いたのですね。エレッセアの岸辺へ……」
うれしいのか哀しいのか判らない表情でシタテルは呟く。
「いや違う」
短く、きっぱりと浩平は答える。
「俺はこの地に新しい名前を名付けた。ここは『柳生うる国タサリオン』。ここで悲しみの世界は終わり、この先には、無限の数の、新しい違う世界が広がっている。君が、君の事を呼んでいると思っていた旋律は、この地に吹く優しい風がこの柳の木々を揺らす音だったんだ」
浩平は草原の向こうの山脈を見ながらそう言った。
「やっと判った。想像の力が創造の力になるという事が……」
いつになくはっきりとした、静かな希望に満ちた口調で浩平は熱心にシタテルに語りかける。
「その昔、故郷を失ったレムル人は、エレッセアを乞い求めていた。それは、病に倒れ苦しむ人が、死に恐怖しながらも、死を乞い求めているようなもの。彼らを残し、先に逝ってしまった人たちを、そこに留めておきたいと願う、レムル人の気持ちが作り出した、レムル人の心の中にある島だったんだ。……確かにここは、昔エレッセアと呼ばれた所。だけどそれは僕達が出会う遥か前のこと……」
「ご覧シタテル! 今は、ここには、もう誰もいないよ」
「みんなは、もう、とっくに、ここを過ぎ去り、あの遠くの山脈のさらに向こう、この世界の向こう側に旅立っていったんだよ!」
「新しい物語が彼らには待っている。君が人々を救えなかった時の残念な気持ちや、君が想いを交わした人々との思い出は、ここにはもう残っていないんだよ!!」
浩平は、シタテルの、レムル人が想像し、レムル人が創造した悲しみの世界を、生きる希望と、生き続けてほしい願いとを重ね合わせた世界に作り変えたのだ。
「浩平さん!」
両手で口を押さえ、必死に嗚咽を噛み殺すシタテル。
しかし、両の瞳からは止めどない涙が溢れ出し、頬を伝ってゆく。
「わたし…、本当は怖かったの……ここに来るのが。……でも、よかった。あなたとここに来る事ができて。今はそう思うの……ありがとう!ありがとう……」
とうとう堪えきれずシタテルは泣き崩れ、ただただ「ありがとう」を繰り返した。
「さあシタテル! 俺たちも行こう。あの山脈の向こうまで。俺たちにも待っているはずだ。新しい物語が」
浩平はシタテルに手を差し伸べる。その手に両手で必死でしがみ付くシタテル。
「歩きにくいよ。そんなにくっついたら。普通に手をつなごうよ」
照れながら浩平は言った。
「いいえ、責任とってもらいますから」
赤面し、しがみ付いたまま、自分の唇にそっと手を当ててシタテルは言う。
二人は草の海の中、遥か彼方に今は霞んで見える山脈を目指してゆっくり、ゆっくりと歩きだした。
世界を創造した二人は草の海を渡って行った。




