後日談 新たな航路図と、変わらない契約
王都での叙爵に伴う狂乱のような祝賀会ラッシュから、数日が過ぎた。
俺、グラス・ド・オネスティー改め、グラス・ド・オネスティー卿は、王都の喧騒を離れ、愛船である魔導船の甲板で潮風に当たっていた。
場所は王都の専用波止場。夜空には満月が浮かび、静かな波音が響いている。
「ふぅ……。貴族に戻るってのも、楽じゃないな」
手には、高級なワイングラス。中身はサクラが「調子に乗るな」と淹れた麦茶だが、気分だけはハードボイルドだ。
一代限りの騎士爵とはいえ、貴族は貴族。挨拶回りだの、書類の手続きだの、マリー様やクレア主催のお茶会(という名の尋問会)だので、俺のスケジュールは崩壊寸前だった。
「あら、もう弱音ですか? これでは男爵家復興の道のりは、大陸横断よりも遠そうですね」
背後から、衣擦れの音と共に涼やかな声が降ってくる。
振り返れば、月光を浴びて輝く銀髪の従者、サクラが立っていた。
相変わらず、憎らしいほどに美しい。そして、俺の精気を吸って肌艶が良い。
「弱音じゃないさ。ちょっと休憩してただけだ。……ミーシャは?」
「遊び疲れて、船室で丸くなって寝ていますよ。寝言で『魚……もっと……』と言っていました。平和なものです」
「そっか」
俺は苦笑して、再び海へと視線を戻した。
隣にサクラが並ぶ。
以前なら、こうしていると「サボっていないで働け」と毒を吐かれたものだが、今の沈黙はどこか心地よかった。
「……旦那様」
「ん?」
「おめでとうございます。まずは第一歩、ですね」
サクラが、珍しく素直な言葉を口にした。
横目で見ると、彼女はどこか遠く――おそらくは、かつて曽祖父たちと駆け抜けた海を見ているようだった。
「ああ。これもお前のおかげだ。……正直、家を追い出された時はどうなるかと思ったけどな」
「本当に。あの時はただの『燃えないゴミ』かと思いましたが、今は『リサイクル可能な資源ゴミ』くらいには昇格しましたね」
「評価のハードルが低い!」
俺がツッコむと、サクラは喉の奥でクスクスと笑った。
そして、手すりに置かれた俺の手に、彼女の冷たくて滑らかな手が重ねられた。
「旦那様。あのチェストに入っていた航海日誌、解析が進みました」
「えっ、本当か?」
「はい。まだ断片的ですが……お父上、オネスティー男爵が目指していた座標の手がかりが見つかりそうです。隣国のさらに向こう、未開拓の海域に」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
親父の背中。あの大きな背中が、霧の向こうで手招きしている気がした。
危険な旅になるだろう。今までの「欲望の三角貿易」のような、安全な航海とはわけが違う。
クラーケン以上の化け物や、隣国のような厄介な敵が待っているかもしれない。
普通なら、ここで尻尾を巻いて逃げるところだ。
だが。
「……行くしかないよな」
「はい。行かなければ、私の燃費問題(魔素供給)の根本的な解決法も見つかりませんし、何より……」
サクラは俺の方を向き、悪戯っぽく、しかし妖艶に微笑んだ。
「旦那様には、私を最後まで使い潰すという『契約』があるのでしょう? 地獄の底だろうと、世界の果てだろうと、連れて行っていただきますよ」
その言葉に、俺は腹を括った。
ヘタレで、臆病で、逃げ足だけが取り柄の俺。
けれど、この最強の従者と、新しい家族、そして頼れる仲間たちがいるなら、きっとなんとかなる。
「ああ、わかったよ。……付き合ってくれよ、サクラ」
「ええ、喜んで。……あ、その前に」
サクラが俺の胸元に指を這わせる。
甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「明日の出航に備えて、燃料(魔素)が心もとありません。……たっぷりと、補給をお願いしますね? 騎士様♡」
俺の顔が引きつる。
冒険の前に、まずは今夜のベッドという戦場を生き残らなければならないらしい。
「お、お手柔らかに頼む……」
「善処します」
月が雲に隠れる。
俺たちの夜は、まだ始まったばかりだ。
成り上がり貴族、グラス・ド・オネスティー卿の冒険譚。
第二章の幕開けは、もう少し先になりそうだった。




