一話
「あの方に近寄らない方がいいわよ」
「だって、女狐ですものね!」
「うふふ」
「あはは」
クスクスと私を嘲笑する声が聞こえる。もう慣れてしまった嘲笑に怒りも悲しみも沸かない。教科書を握りしめながら私は嘲笑飛び交う廊下を抜け、教室に入る。
寿退学で空席の目立つ教室の視線が一斉に私に向く。その目には蔑み一色であった。
狐塚薫子は狐塚家の卑しい後妻の娘であり異母姉を虐げる悪女、女狐である。姉の流した噂は真実であるかのように薫子に纏わり付き、家でも女学校でも虐げられる日々だった。
******
薫子の一日は床に頭を擦り付け父の慶三と姉の桜子に朝食を食べる許可をもらうことから始まる。朝食といっても父や姉が食べるような豪華な食事ではない。
残飯の方が遥かにマシな粗末なものだ。姉の気まぐれで食事の許可が下りない時もある。
「朝食を頂いても宜しいでしょうか」
父と姉の配膳を終えた私は床に頭をつけ、そう懇願した。今日の姉は機嫌が良かった。
「お前がいたらせっかくの朝食が不味くなるじゃない。さっさと下がって」
そう言われて私は食堂を出る。そうして台所の隅で朝食を食べるのだ。私が父や姉と同じ食卓につくことは許されない。私は奴隷。使用人達もわたしを下に見ている。
私は女狐。
私は厄病神。
私がいると不幸になる。
そう姉は私を罵った。私は生きていてはいけない存在なのだと幼い頃から言われ続けた。こんな境遇の私に手を差し伸べてくれる人などいるはずが無い。
私の母は庶民階級の出だった。そんな母が子爵位を持つ華族、狐塚家に嫁げたのは奇跡に近かった。男の子を産むと期待された中私が生まれた。
私は望まれて生まれたわけではなかった。幸福の中誕生したわけではなかった。そして私を産んですぐ母は亡くなった。
外から来た異物が産んだ娘は狐塚家では異物でしかなく、使用人達も私を敵視した。台所の隅で食事とは言い難い朝食を取っていると急に背中に衝撃が走った。
背中に感じる質量は人の足であり、床に倒れ伏した私は手に持っていた芋の欠片が床に転がっているのを見て僅かながらの朝食が駄目になってしまったと知る。
擦りむいた膝がヒリヒリと痛むが、そんな痛みももう心の何処かではどうでもいいと思った。もう既に心も体も傷だらけ。今更傷が一つ二つ出来たところでどうでも良かった。
「すいません、居たんですね。気付きませんでした」
嘲笑を含む軽薄な謝罪の言葉に私は顔を上げる。そこには下女の姿があった。
「申し訳ありません」
私は逃げるように台所を出た。この家で私は奴隷。使用人より下の奴隷。姉の気まぐれによって食事を抜かれたり叩かれたりする。父は私を見ていない。使用人達は良くて無視をして悪ければ先程のように偶然を装って嫌がらせをする。
私は狐塚家のお嬢様ではない。
私は害虫。
私は死んだ方がいい存在。
私は死んだ方が喜ばれる存在。
私は生きていると蔑まれる存在。
ずっと私は奴隷のまま。希望なんて言葉は忘れた。長く続く暗い人生の中私はこの家に使役され、搾取され、虐げられて、蔑まれて。
(最後に笑ったのはいつだったかしら)
こんな暮らしでも昔は確かに笑えたはずだった。廊下のステンドグラス越しに顔が照らされる。少し吊り上がる口の端はヒクヒクと震え、多分酷い顔になっている。
ずっとこの生活は変わらないのだと…そう思っていた。
良くも悪くも転機となる事件が起こるまでは。
******
ゴオゴオと音を立てて激しく燃える炎、焼け落ちる屋敷を私はただ眺めていた。
「お父様ぁぁぁ!!」
隣では今にも炎に飛び込みそうになり使用人達から押さえつけられている姉の姿があった。そう、屋敷にはまだ父が残っている。
「誰か、お父様を助けなさいよ!お前、命に代えてでもお父様を救いなさい!!」
物凄い形相で姉は私を指差す。しかしこの炎の中生きていないのは確実だろう。
「申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません申し訳ありません」
私は地に頭を擦り付けて謝っていた。私は父を助けられない。姉の望むように今すぐ炎の中に飛び込み死にゆく勇気もない。
「私の言うことが聞けないの?早くお父様を助けなさい!!」
悲痛に叫ぶ声は炎の音にかき消された。この火は父が放ったものだ。新しい事業に手を出した父は莫大な借金を作った。姉の浪費も重なり死を選ぶことしか道がなかった。
十七歳の春、焼け落ちる屋敷を眺めながら着の身着のままに一文無しで放り出された私に残ったのは莫大な借金と奴隷からの解放だった。
父が死して姉から解放されても尚、私は狐塚家に縛られていた。姉は、はしたなくも自身の美貌で誑かした崇拝者の男性の家に転がり込み借金から逃げ、そのしわ寄せは全て私に向かった。
「薫子さん、こちら二番テーブルに」
「はい、畏まりました」
あの日、全て燃え借金だけが残った日から一ヶ月。女学校を中退し私はとある高級喫茶に女給として就職することが出来た。古い長屋で一人暮らしをし、借金を少しずつ返している。
「あら、やっぱり薫子さんだったのね!」
聴き慣れた声が耳に届き顔を上げる。二番テーブルのお客様は女学校時代の同級生だった。
薄桃の矢絣の着物に深紅の袴、腰につけられた紀章バンドを見るにやはり母校の生徒で間違いなかった。
「こちらで働いていたのねぇ。お家は没落し労働階級に転落…なんてお可哀想。でも、女狐の薫子さんはいい気味ですわね。うふふ」
氷水をかけられたかのようだった。体が固まる。女学校で一通り学んだが初めてのことだらけの生活、最近慣れてきて笑顔も練習している仕事。姉から解放され、多分生まれて初めて楽しい、幸福だと思うようになっていた。
だが、私は女狐で蔑まれることに変わりはない。何を浮かれていたのだろう。私は生きていてはいけない存在だったということをすっかり忘れていた。
「ごゆっくり…どうぞ」
声は震えていた。奴隷ではなくなって借金は背負ったけど運命は変えられると、あの永遠に続くような地獄から抜け出せたと…そう思っていたのに。ここは地獄の延長線上に変わりないことに気付かされた。
その日、私の世界は真っ暗になった。否、元から暗澹たる世界は変わってなどいなかった。ただ勘違いをしただけ。愚かにも幸福を願い醜く足掻いてしまっただけ。
「薫子さん、悪いが今日で辞めてもらえないだろうか。」
仕事終わりにオーナーに呼び出されビクビクと肩を震わせていた私に降りかかった言葉は絶望と言って良かった。
「な…何故でしょう。確かに仕事を始めた当初は不慣れで皿をよく割りましたが、今は慣れて…」
「いや、本当に君はよくやってくれている。しかし先程、店の常連でもある桐ヶ谷様から苦情が入って…その…」
オーナーは言葉を濁した。桐ヶ谷、確か今日店に来た元同級生の名前が桐ヶ谷だった。桐ヶ谷家にかかれば従業員の一人辞めさせることなど簡単だろう。
「そんな」
辞めさせられては借金が返せない。その日私はどうやって長屋まで帰ったのだろうか。覚えていない。しかし気づけば私は縄を天井からぶら下げようとしていた。
私は女狐。
私は生まれてはいけなかった存在。
私は死ぬべき存在。
なら、もう楽になってしまおう。私という存在は消えてしまった方がいいのだ。父も母もいる、何も怖くないと暗示をかけるが全身の震えは止まらなかった。
私は望まれずに生まれました。
人生を呪われました。
人生を蔑まれました。
人生を虐げられました。
私が生きると嫌がられ、悲しまれ、私が消えるだけで喜ばれるのでしょう。頭がガンガンと響く。心臓の音が煩い。水の中にいるかのように息苦しく動作は重い。
今に始まったことじゃない。物心ついた頃からずっと生き苦しかった。震えた腕はやっとの思いで縄から離れ床に座り込んだ。
視界が広がり、白黒の世界に色が戻ってきた。水が入ったように音が篭っていた耳も徐々に戻ってくる。体は震えたままだった。落ち着けば冷静に色々と見えてくる。その時初めて私は私宛に手紙が来ていることを知った。
縋るように手紙を開ける。無意識にもう少しだけでも生きる理由が欲しかったのかもしれない。
手紙は私の縁談の話だった。