証言者をつなぐ糸
翌朝、仮設水路の脇に立てられた板には、夜通し働いた人々の名前が刻まれていた。
その板を見つめながら、リゼットは妙な胸騒ぎを覚えていた。水の流れは安定している。病院区へ向かう音も、以前より澄んでいた。それなのに、音の底に細い濁りが残っている。
「何か聞こえるのか」
隣でエドガーが尋ねた。
「水ではありません」
リゼットは板の端に触れた。
「この名前が、誰かにとって都合が悪いのです」
昨夜の修復は、商会が隠したかったことを住民全員の目にさらした。誰が壊し、誰が直したのか。どの部品が細工され、どの弁に金属片が挟まっていたのか。記録はもはや役所の棚だけに眠るものではない。
昼前、都市議会の書記が現れた。仮設水路の板を見た途端、顔をしかめる。
「許可なく公的な記録を掲示することは認められません。撤去してください」
「これは修復記録です」
リゼットは答えた。
「誰が許可したかではなく、何が起きたかを書いています」
「技師資格もない者が、記録の正当性を判断するのかね」
書記が鼻で笑った瞬間、エドガーが一歩前へ出た。
「彼女は都市監督官の委任を受けた仮技師だ。その記録は私の公印で保管する」
「監督官殿、王都からの指示を忘れたわけではないでしょうな」
書記は低い声で言った。
「騒ぎを広げれば、あなたの立場も危うくなります」
エドガーの表情が硬くなった。だが、彼は退かなかった。
「危ういのは立場ではない。水路だ」
書記が立ち去った後、リゼットはエドガーを見た。
「今の言葉、記録しておきます」
「好きにするといい」
「では、あなたの名前も板に追加しましょう」
「共同修復者としてか?」
「監督官としてではなく、弁室で水を止めた人として」
エドガーはわずかに笑った。しかし、その笑みはすぐに消えた。
「君の師匠に会う必要がある」
王都へ送った照会文への返事が届いたのは、その日の夕方だった。リゼットの師、マルタ・ヴェインが面会を求めている。ただし、工房長ギデオンの監視下にあり、自由に話せない可能性があるという。
リゼットは手紙を握りしめた。
マルタは、彼女が水の音を聞き分けることを初めて技術だと言ってくれた人だった。工房を追われた日にも、何も言わず目を伏せていた。あの沈黙の中に、恐怖があったのだとしたら。
二人は翌朝、都市外れの旅籠へ向かった。そこにはマルタが一人で座っていた。以前より背中が小さく見える。白髪の間から覗く目だけが、昔と同じ鋭さを残していた。
「リゼット」
「師匠」
抱きつこうとしたリゼットは、途中で足を止めた。マルタの手首に青い痣があった。
「工房長に?」
「違う。転んだだけだよ」
だが、リゼットには分かった。声の奥で、水が石に堰き止められたような音がしている。
エドガーが席を外そうとすると、マルタは首を振った。
「彼にも聞いてもらいたい。これは一人の職人の告白ではなく、命令が流れた経路の話だからね」
マルタは古びた帳面を取り出した。表紙には工房の印が押され、端が何度も擦られている。
「三年前、最初の改ざんを命じたのはギデオンだった。故障した部品を正常品として納め、記録には自然劣化と書けと言った」
「なぜ従ったのですか」
「娘の治療費を工房が払っていた。逆らえば支援を止めると脅された」
リゼットは唇を噛んだ。
「でも、ギデオンも誰かに命じられていた」
「そうだよ。彼の上には、部品商会の代表ローデリックがいた。水路の交換部品を商会からしか買えないようにし、故障が増えるほど利益が出る仕組みを作った」
マルタは帳面の一頁を開いた。そこには納入日、部品番号、受け取り人の印が並んでいる。
「そして最後に名前がある。議会財務委員、セルジュ・ハルヴェイ」
エドガーが息を呑んだ。
「議員が直接、工房へ?」
「議員は命令書を出した。都市の水路修繕費を削り、商会への支払いを優先する命令だ。ギデオンはそれを見せられ、従わなければ工房を閉めると言われた」
マルタは別の紙を差し出した。薄い羊皮紙の裏には、見覚えのある王都式の記号があった。
「この印は、王都の監査局が使うものではありません。偽造です」
エドガーは紙を受け取り、何度も印を確かめた。
「ハルヴェイは、王都の監査を装って命令を通したのか」
「正確には、監査官の名を借りたのさ。工房長に渡された書状には、都市を売却する計画の草案も添えられていた。水不足で住民が離れれば、商会が水路と土地を安く買い取れる」
部屋の中が静まり返った。
リゼットは帳面の文字を見つめた。工房長、商会、議員。これまで別々に見えていた不正が、一本の糸でつながっていく。故障した部品、改ざんされた記録、壊された仮設水路。そのすべてに、同じ命令の影があった。
「証言してくれますか」
リゼットは尋ねた。
「公の場で、工房長の名を?」
「はい。師匠が黙っていた理由も含めて」
マルタはしばらく窓の外を見た。遠くで、復旧した水路が低く鳴っている。
「怖いよ。けれど、もう黙っていても娘は戻らない。工房も、昔のままではない」
彼女は震える指で署名した。
「私は、命令の流れを話す。誰が最初に水を濁らせたのか、最後まで伝える」
エドガーは帳面を封筒に収め、公印を押した。
「これで証拠は一つになった」
「いいえ」
リゼットは首を振った。
「一つではありません。師匠の証言が、部品と記録をつないだんです」
外へ出ると、夕方の水路が街の方へ光を運んでいた。
リゼットはその音に耳を澄ませる。流れは細くても、途切れていない。誰か一人の力ではなく、証言と記録と人の手が重なって、初めてここまで届いた音だった。
「次は議会です」
エドガーが言った。
「そこで、すべてを明らかにする」
リゼットは頷いた。
「その前に、もう一人だけ話してもらわなくてはいけません」
「誰だ?」
「工房長ギデオンです。命令を受けた人ではなく、命令を流した人として」
水路の音が、暗くなり始めた街の下で長く響いた。糸はもう、切れなかった。




