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504.(それとこれとは話が別です)


   *


 校舎をぐるりと廻って、敷地のいっとう端にそれはある。建て替えたばかりの、武道館。

「わたしたち、もしかして不法侵入中?」

「なにを今更」

 ぼくは呆れた。「もしかしなくてもそうです」

「あー」ともえは変な声を上げた。「そっかー」

「そうです」

「パトカーって一度乗ってみたかったんだよね」

 慌てた。「ダメ。ダメ絶対」

「えー」とか云いながら、別段残念そうでもなく。「あれっ?」

 その視線の先にいる人物を理解して、ぼくはお腹の中にずんとした重みを感じた。

「おやおや」相手も、ぼくらに気がついて。「誰かと思ったらかわいい妹夫婦じゃない」

 休日出勤ごくろうごくろう、とかなんとか。

 所長と、主任だった。

 主任は、入社して僅か半年ばかりで会社が倒産し、途方に暮れていたぼくを拾ってくれたひとで、でも紹介先のボスが義姉だったことは知らなかった。面接で互いに面食らい、三者三様に苦笑したのだった。

「やっほー」にこやかにともえは所長に手を振った。

 これが困ることのひとつでもある。職場では所長は所長で、でも義姉であり。主任がいなければオフは義姉さんだけれども、主任がいるとなるとさすがにそう云うわけにもいかない。

 休日に、ふたりして出てきているとなると、やはり自分のミスがいかほどであるか思いしらされた。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 所長は隣に立つ、たいそう上背のある主任に顎しゃくってみせた。

「十勝くんに呼び出されたのよ」

 やっぱり。

 建て替えられたばかりの武道館の裏には五段の小さな階段がある。理由のない存在。どうしてこれが作られたのか、設計の段階で見逃され、許可の段階で見落とされ、施工の段階でも疑問を持たれなかった。引き渡しの段になってそれは突如、浮上した感じだった。何の前触れもなく。

 この仕事の全部を任されたわけではない。しかし、初めてぼくが中心となって任された案件であった。

 それがこのありさま。

 なのに所長は呑気に云った。「てっきり恋の告白とかされるんじゃないかと思ったんだけどなぁ」

「……そういう関係だったんですか? 所長と主任って」なんとなくは思ってはいたけど。

「いや、そんな」と、主任は居心地悪そうに顔を背けた。

 そんな主任に、くふっと所長は笑った。「ボクはずっと好きなんだけどね、この野暮天ボンクラ唐変木ったらちっともその気なくてね」

「お姉ちゃんって、すっごくひとすじなんだよ」

 ……この姉妹は。ちょっと主任に同情した。

 だからぼくは話を戻した。

「すいません」頭を下げた。「本当にご迷惑を──、」

「ちょっと待ちなさいよ」所長が口を挟んだ。「なに一人前に責任感じてんの」

「吉田、」

 くいっと、主任は所長のブラウスの袖を引っ張った。

「おっと」所長は合点がいったと云う風に「そうだね。私が云うと職場の叱責か家族のお説教か、境界が曖昧になるね、今日はお休みだし」にやっと義姉は笑った。「だから十勝くん」

「え……と、な」

「はい」

「その、な」

「早く云いなよ」所長が小突いた。

 主任は苦笑して。「責任ってのは、ひとりが背負うものじゃなくて、みんなで分け合うものだと……思うんだ」

「……はぁ」

 いや、違うかな、と主任はごちた。「確かに君にも責任はあるだろうけど、全部が君のものじゃない……し」

「あー、もう」所長は腕を組んで、ぷいっと投げるように云った。「これはこれ、それはそれ、気にすることと捕らわれることは違うんだってば」

 所長の言葉に、やっぱり主任は苦笑した。「……まぁそんなところで」

「……はぁ」

「それよりもね、もっとでっかい問題ができちゃったんだよ」

「はい?」

「喜べ、弟くん。君が勝手に自分で背負ってると勘違いしているそのミスを上塗りしてくれる素敵な懸念事項が生まれた」

「それって解決してないじゃん」ともえが云った。「でも良かったね、ダンナさん」

「そう、……かな?」

 むしろ不安が増大する。所長は何を云っているのだろう。

「まぁ気にするなってのも難しいだろうけど、もう開き直ろうか」にやにやと所長。「キミの場合はそのくらいで、ちょうどいい」

「善処します」

「よろしく頼むよ」主任もにっこり笑った。「起きたことは起きたこと。大切なのは善後策」

 このひとはどうしてこうも、いい笑顔ができるのだろう。

 そのときぼくは、所長もまたとても柔らかな笑みを浮かべ、どこか眩しそうな瞳で主任を見上げているのに気付いた。

 ああ、本当に義姉は主任のことが好きなんだ。

 それは普通の愛情表現よりももっともっと時間をかけて、じっくりと結晶されたもののように感じた。


   *


「ともえ、」

 ぼくの呼びかけに、「なに?」と顔を上げた。

「ひとのシャツに顔をうずめないで欲しいな」

「なんで?」

 ちょっと言葉に詰まった。「変だから」

「じゃあ変でいいよ」

「それは困る」

「どうして?」

「奥さんが変だと、ぼくも変と思われるから」

「変だと、嫌?」

「……お洗濯してください」

「答えてよ」じゃないと、また匂いかいじゃう。

「じゃ、ぼくも」

 ともえのブラウスを手にすると、ぼくは顔をうずめた。

「いい匂いでしょ」

「汗くさい」

「もうっ」ともえは手を振り上げて、ぺちっとぼくを叩いた。

「ともえは自分のブラウスの匂いをかがれてどう?」

「おあいこ」

「そういうことじゃなくて」

「ならどういうこと?」

「わかったよ」ぼくはブラウスを洗濯カゴに戻す。「ともえの勝ち」

 えへっと嬉しそうにともえは笑った。まるで子供だ。

「わたしはダンナさんのシャツの匂いが大好きです」

「あなたはダンナさんのシャツの中身に興味はないのでしょうか」

「中身はもっと好きです」

「ならシャツはいいですよね?」

「それとこれとは話が別です」

「お洗濯、しようよ……」

「もうちょっと」

 ともえは、ぼくのシャツにふがふがと鼻をうずめる。

 ぼくはその頭に手を乗せ、髪をくしゃくしゃにした。ともえが満足するまで、そうさせるしかないのだ。

 部屋の片づけをしていると、ほどなくして洗濯機の廻る音がした。

「ダンナさん、ダンナさん」

「今度はなに?」

 振り返ったらふわりとそれがかすめ飛んで、パチンと鼻先で弾けた。後にはシャボンの香りが残った。

「ほら」

 ぷーっと、ともえが手にした赤いストローを吹く。

 次々と虹色のシャボン玉が生まれていく。

「きれいだね」

 太陽の光を受けて、シャボン玉はきらめいた。

「きれいでしょ」

 ともえはにっこり笑った。

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