502.(地球は廻ってるんだよ)
*
「うっわー」
玄関を開け、ともえは感嘆の声を上げた。「いい天気」
身体半分外に出し、とんとん、とつま先をタタキに当ててカカトをスニーカーに突っ込んだ。それからバッと扉を全開にした。
しゃがみ込んで靴ヒモを結んでいた手元がパッと明るくなった。ぼくは顔を上げ、ともえの開けた外を見みやる。
眩しい。
ぼくらの住むアパートの玄関前はちょうど茂る街路樹と同じ高さ。新緑の葉っぱと云う葉っぱが五月の日差しを弾いているみたいだった。
「早く行こうよ」
よいせっと、ともえはお気に入りの赤いトートバッグを肩に抱え直した。立ち上がったぼくは玄関の鍵を締めると、さっさと廊下を歩き出したともえの後を追った。
カンカン、と階段を並んで降りる。踊り場でくるりと廻る。
「すっかり夏ね」
「そうですね」
「五月って夏だよね?」
「そうですね」
「カツオが美味しい季節ですね」
「そうですね」
「お刺し身とかいいですね」
「そうですね」
「わたしのダンナさんは生返事しかしません」
「そうですね」
「もう」
ぷっとほっぺたを膨らませて、でもともえは楽しそうに笑った。「イヤなひと。質に入れちゃうよ?」
「そうですね」
応えながら、ぼくはたまらず吹き出した。
あまり気乗りしない、むしろ避けたい気持ちも、なんだか初夏の日差しに溶かされた気分になった。
*
先にベッドにもぐりこんでいたともえが、読みさしの文庫本から顔を上げて云った。「もし、わたしがいなくなったらどうする?」
唐突な質問に、ぎょっとした。それを察してか、ともえは慌てた様子でつけ足した。「もしもだよ、もしもの話」
ぼくは努めてゆっくりした所作で寝室の明かりを消した。サイドテーブルのライト、オレンジ色の薄明かりが、ともえの顔を半分、照らしていた。
「考えたくないよ」
「考えて」
横に寝ころんだぼくの胸を、ともえは文庫本で叩く。「例え話だから」
「……そんなこと、例え話でもいやだよ」
「逆に考えてよ」
「何を?」
「そんなことが起きないから、例え話になるんだよ」
ぼくは目を閉じた。「どうしていなくなったかを考える」
「それから?」
「それから……探す、かな」
「本当?」
「うん」
「探してくれるの?」
「もちろん探すよ」
「それでも見つからなかったら?」
「見つかるまで探す」
「本当?」
「本当」
「信じちゃうよ?」
「疑ってる?」
パチッと、ともえはサイドテーブルのライトを消した。
真っ暗になった寝室の中で、ともえは云った。「信じる」
その声音の中に、ともえの疑問の本質を感じた。ともえは、ぼくから去ることではなく、自分から去ることを考えていたのかも知れない。彼女は子供っぽくて冗談と悪戯が大好きで、とても図太く、そのくせ繊細で、聞き分けが良かったりわがままで身勝手だったり、自由気ままを望みながらそのクセさみしがり屋で、類型化し難く分類するには多分にはずれている。
「ともえはぼくがいなくなったらどうする?」
「困るよ」
「困ってくれるんだ」
「それに哀しいと思う」
「同じだよ」
「なにが?」
「ぼくはともえがいなくなるとか、そう云うことは考えたくない」
「え?」
「きみがいない世界だなんて、そんなことは起こって欲しくない」
暗がりでともえが嬉しそうに笑ったのが分かった。それからぼくに擦り寄って、ぴったりと身体をくっつくてけきた。
「ねえ」
「なに?」
「窓の外、明るいね」
カーテンの隙間からぼんやりとした光がこぼれている。「今宵は十五夜かな」
「満月?」
「さぁ」
「見れば分かるか」ともえは起き上がると、窓辺に立ってカーテンを勢い良く開けた。「わぁ……」
窓の外、明かりの点在するビルの隙間にぽっかりと月が浮いていた。
「きれい」
「そうだね」
ぼくも起き上がってともえの隣に立った。「とてもきれいだ」
青白い光を放つ、それはそれは見事な満月だった。
「お月さまにうさぎ、見える?」
「どうかな」
「じゃあ何に見える?」
「うーん、」ちょっと考えて。「ドクロっぽい……かな」
「ドクロ?」それから、あ、と気付いたように。「地球の骨がお月さまだ」
「ごめん」ぼくは苦笑した。「やっぱり違うと思う」
「じゃあなに?」
ぼくはともえに向き直った。「ともえはどう思う?」
すると、むぅとばかりに顎にうめぼし。ともえは暫く考え込み、不意に大発見とばかりに声を上げた。「パンケーキ!」
「うん?」
「パンケーキみたいじゃない?」瞳をキラキラとさせて。「どうかな?」
「そうだね」そんなともえに苦笑した。「パンケーキ。いいと思うよ」ちょっと色白いけれども。
「あーあ」ともえは切なげな声を上げた。「考えただけでお腹空いちゃう」
「いまは夜中です」
「バターとメープルシロップがあれば完璧」
「太りますよ」
「……痩せてる方が良い?」
「今のままでいいよ」
「ほんとに?」
ぼくはちょっと考えて。「もう少し太ったほうがいいかな」
「なにそれひどい」
「そう、かな」平均的だと思うけれども。
「がんばってるのに」維持するのに。
ちょっと誤解ある云い方だったかもしれない。「太っても痩せてもともえはともえだから。でも、太り過ぎもやせ過ぎも、問題になるほどならどうにかしよう……って、そんなつもりだったんだけど」
「でもダンナさんは自分の奥さんに太れと云いました」つん、と唇を突き出した。
「うん、まぁ」そう云われましても。「たぶん女の人は自分が思う理想の体重よりプラス五キロくらいが妥当なんだと思うんだけど」
「ひどい」
「そう、かな」
「そうだよ。五キロって」むちゃくちゃ。
「見解の相違かなぁ」
ぼすっとともえの肘がみぞおちに軽く入った。「ダンナさん、ひどい」
「だって、ともえはともえだし──」
また肘鉄を喰らった。「誤魔化そうとしても無駄です」
「弱りました」お腹をさすりさすり。「なんて云えば満足してくれるのかなぁ」
「えっ」考えナシのようだったらしく、ともえは眉を寄せ。暫くのあと、わざとらしい低い声音で云った。「どんな君でも好きさ」
だからぼくもそれに習って。「どんな君でも好きさ」
三度、肘鉄を喰らった。
「ぼくの奥さんは乱暴です」
くすくす笑いながらともえはぼくの身体にその身を預けてきた。ぼくは背から彼女を抱きしめた。ともえの髪からほのかにシャボンの匂いがした。
「ねぇ」
「なに?」
「どうしてお月さまって、同じ顔しか向けないのかな」
「さあ」
「どうして?」
「うーん、」
「教えてよ、ねぇ?」
困ったなぁ。「たぶん見つめ合っているんだよ」
「地球と月が? お互いに?」
「そう云う関係」
するとともえは、うむー、と考え込んだ。「地球は廻ってるんだよね?」
「地球には表裏がないんだ」
「うん?」
「けれども月は隠し事がある。でも地球はそれを知る必要がない、それでいいと思ってる……どうかな?」
「ちょっと気取ってるみたい」
「そうだね」
「でも嫌いじゃない」
「何点?」ぼくは訊いた。
「ダンナさん、ダンナさん」
身体を離し、向き合ったともえはぼくに屈むよう手招きした。それに従うと、ともえは肩に手を置いて伸び上がり、さっと頬を羽で撫でるようなキスをした。「たいへんよくできました」
「追加点が欲しいです」
ともえは身体を離し、「欲張りはいけません」
ふたりでくすくす笑いながら、開けたカーテンをそのままにしてベッドに戻った。
月明りの中でともえの身体を抱きしめた。
あたたかくてやわらかな、ともえの匂いがぼくを満たした。