お料理は卵から
飛鳥は彼女に、ざっと事情を説明する。
「まあ、それはそれは」
「部長のメンツは丸潰れにしちゃったし、ほかの部員の雰囲気もおかしいしさあ。今更のこのこ行きにくいよ」
「でも、ずっと幽霊部員ってわけにもいかないでしょう?」
「全体練習があるわけでなし、いいんでないの? 文化部だし」
「そういうものですか」
首をかしげるつばきに向かって、飛鳥はいいのいいのとうなずいた。すると、うきうきした様子の華が口を開く。
「では、朝にすることがないというわけですね?」
悪い予感がする。飛鳥はそろそろと、華の方を向いた。
「……そんなに長時間ってわけじゃないよ。毎日飲んでたら肝臓にもあれだし」
さりげなく断った飛鳥だったが、華はますます勢いづいて胸を張る。
「お酒はいいんです。この機会にお料理しませんか。材料費は追加でいただきますが、丁寧に教えますよ」
料理、と聞いて飛鳥は完全に逃げ腰になった。生まれてこの方まともに包丁を握ったことがない。
「やだよー、指切るよ」
「切る程度で大げさな。落とさなければどうということもないのにねえ」
「やめて」
鼓が横から怖い事を言う。飛鳥が彼女をにらんでいると、つばきがゆったりとした口調で言った。
「どうせ暇なのですから、教えていただいたらよろしいのに。おじゃまでなければわたくしも参加させてください」
よくやるよとつぶやく飛鳥の両腕を、鼓とみーちゃんが押さえ込んだ。
「そう言うなって。料理ができて損はないでしょ」
「おいしいもの、好きでしょ?」
「どうする?」
「どーするー」
どうするも何も、うんと言うまで離してもらえなさそうだ。飛鳥は迷った末に、首を縦に振った。ついでに材料費もしっかり取られた。ええい、こうなったらどうにでもなれ。
☆☆☆
「朝ですよー。朝ですよー」
さっそく次の日、腕まくりをした華にたたき起こされた。つばきはすっかり準備を整えて、後ろでにこにこしながら見ている。飛鳥は華にうながされるままに、顔と手を洗った。
やっと飛鳥の準備ができたところで、華が口を開く。
「飛鳥さん、普段どのくらい料理ってされます?」
「全然。まったく。ちっとも。さっぱり。からきし」
「……そんなことが」
両手で顔を覆う華に、飛鳥はきっぱりと言った。
「家に鍋がなかった時点で察してほしい」
「……わかりました。では、今日は定番中の定番からいきましょう。卵焼きです」
そう言うと、華はフライパンを二つ出してきた。一般的なフライパンは丸形だが、これは縦に長い形をしていた。
「変なフライパン」
「卵焼きはこういう鍋の方が巻きやすいですよ。私は具を入れてみますが、飛鳥さんはなにも加えずにやってみましょう」
小学生の時にやった調理実習みたいだなあ、と思いながら飛鳥はうなずいた。
「じゃ、卵を割りましょうか。一本分だと卵三個くらいですね」
そういいながら、華は器用に卵をボールの角にぶつけてひびをいれ、片手で割っていく。かっこいいな、と思った飛鳥はさっそくまねをしてみた。
砕ける。
右手の中で卵が崩れた。ぬめぬめとした柔らかい白身を、飛鳥は黙って握りしめる。華が淡々と声をかけてきた。
「……お上手ですよ?」
「……それは傷に塩塗ってる」
飛鳥は華に向かってうなだれてみせた。そして卵液から手作業で殻を取り除く。その間に、つばきがテーブルに近づいてきた。
「片手は慣れないと難しいでしょうか。他に割り方はありますか」
超がつくお嬢様であるつばきだが、要領はいい。飛鳥と同じ失敗をしないよう質問していた。
「では、卵の殻にひびを入れるところまでだけやってください。ボウルより広いところのほうがやりやすいですよ。飛鳥さんももう一回どうぞ」
華から卵を受け取る。本能のままに、飛鳥はテーブルの角に生卵をぶつけた。
ひびどころか、卵が陥没した。黄身がきれいな曲線を描きながら、床に飛び散る。
「……豪快ですね」
華の顔から赤みが消えていた。なんと言ったらいいのかわからない、という表情で立ち尽くしている。
「やりたくてやったんじゃないってば!!」
飛鳥はあたふたと床の卵を拭く。あきれ顔をしながら、鼓がティッシュを差し出してきた。
「……ほら、使いな」
「さんきゅー」
「華、このおじょーさんはほんとに一から十まで言わないとだめなやつだよ」
鼓に言われて、華が腕まくりをした。
「わかりました。まさかここでつまずくとは思ってませんでしたが、完遂させてみせます」
それから華は一気に話し出した。
「まず、そんなに上から打ち付けなくても卵は割れます。ちょっと肘を曲げるくらい、そこから軽くたたくくらいで。ひびが入ったら、そこに指を入れて……貫通させないでください。添えるだけ添えるだけ。力いらないですよ。ゆっくり殻を左右に引いて……ああ、早い」
卵六個割るだけのはずなのだが、やたら厨房に言葉が飛び交う。卵がかわいそうだねえ、とみーちゃんが悲しげにつぶやいたところで、ようやくすべて割り終わった。
「すごくがんばった気がする」
額の汗をぬぐい、再び椅子に座ろうとする飛鳥を華が押しとどめる。
「まだ何もできてませんよ。これから味付けですね。これは好みもありますが、砂糖と塩、ちょっと醤油くらいが一般的でしょうか。出汁を入れると巻きにくくなるので、今回は抜きましょう。つばきさん、砂糖とってください」
華に言われて、つばきはすぐに砂糖を取り出してきた。華に言われるがままの量をとって味付けをする。
同じようにして塩と醤油を加え、ようやくベースの卵液ができあがった。飛鳥とつばきは、フライパンに油をぬる。その間に華は、てきぱきと別の卵焼きの準備をしていた。
華が切っているものを見て、飛鳥は声をあげた。
「へー、卵焼きにうなぎねえ」
スーパーで売っているうなぎを、華は一口大に切っていく。
「う巻きとも言いますが。味が濃いものが入るとまたおいしいですよ」
卵の味付けも、砂糖と塩ではなくうなぎのたれを入れて完成した。フライパンが熱くなり、二種の卵液のボウルがそろったところで、華が大きくうなずいた。
「じゃ、焼きましょうか」
「おっけー」
待ちに待ったメインの行程に、飛鳥は気持ちが踊った。自分のボウルを持って、コンロへ向かう。
「あっ、待って」
華の声が聞こえてきた。しかし、さすがにもう焼くだけだ。彼女に手をかけさせることもない。
飛鳥は満を持して、卵液をフライパンに流し込んだ。しかし縁のギリギリまで粘っても、全部は入りきらない。飛鳥は腕組みをした。
「多いんだねえ」
そう言って華を振り返ると、なぜか彼女は両手で顔を覆っている。