たかが卵焼き、されど卵焼き。
「え、どしたの」
飛鳥が戸惑っていると、つばきのつっこみが飛んできた。
「……飛鳥ちゃん、その状態でどうやってひっくり返すつもりですの?」
飛鳥は目を見開いた。確かに、卵液はフライパンの上限いっぱいまで迫っている。少しでも動かしたら、波が縁を越えるのは目に見えていた。
「あ……」
ようやく自分の過ちを悟った飛鳥が青ざめる横で、華は早くも立ち直り、コンロの火を止めていた。
「幸いまだ上は固まっていませんので、液を回収します。卵焼きは一回で固めるわけではなく、三~四回に分けて、少しずつ巻いて太くしていくと思ってください」
まだ固まっていない卵液をボールに戻し、今度はフライパンの五分の一くらいの高さになるように調整する。しばらくすると、卵に火が通ってぷくっと表面が盛り上がってきた。
「そろそろ巻きましょうか」
「巻くってどうするの」
「卵が固まってきたら、箸で手前から奥へ転がしてください。まだ今は芯の部分なので多少失敗してもかまいませんが、外の部分を作るときは慎重に」
飛鳥はおっかなびっくりで、ようやく一個目の小さな芯を作ることに成功した。それだけで疲れてしまったので、つばきを呼びつけて交代する。
「フライパンのあいたスペースに、また少し卵液を入れます。先に巻いた卵とくっつけたいので、まだ液体のうちに……」
そういいながら華は、飛鳥が巻いた卵を持ち上げた。彼女がフライパンを少し傾けると、卵液が焼きあがった卵の下に入っていく。
「今度は奥から手前に転がして巻いて、最後までいったらまた奥に戻します。後は同じことの繰り返し。ではお二人、どうぞ」
華はさも簡単そうに言うが、ろくに料理をしたことがない飛鳥にとっては大仕事である。つばきも口は達者だが手は全然動かず、卵が固いと言って渋い顔をしていた。
二人が協力して、卵を破いたり、焦がしたりしながら、ようやくズタボロの卵焼きが一本できあがった。
完成品を皿にのせると、自然に飛鳥ののどからため息が漏れた。惚けたようになっている飛鳥とつばきの肩をみーちゃんがもんでくれる。
飛鳥たちが休憩している横で、華は自分の卵液を焼き始めた。流れるような動きでくるくると卵を巻いて、あっという間に卵焼きを作り上げてしまう。なんだこの差は、と飛鳥は目を見張った。
鼓とみーちゃんが卵焼きを切り分け、味噌汁とご飯をよそう。これでようやく、朝食が完成した。いただきまーす、とみんなでそろって声をあげてから、一斉に箸をつける。
「では」
華が、飛鳥たちが作った卵焼きを口に含む。飛鳥は内心冷や汗をかきながら、先生の感想を待った。
「どうよ」
「おいしいですよ」
「そ、そう?」
にこにこと笑う華を見て、飛鳥は安心した。しかし、鼓は顔をしかめている。
「初心者にしては、だけどねえ」
飛鳥の自尊心を、鼓は容赦なく言葉のナタでぶった切った。頬を膨らませながら飛鳥は自分で作った卵焼きをほおばる。卵が崩れているせいで表面はなめらかではないが、塩気もあり、ちゃんと卵の味も残っていてそこそこおいしかった。
「けっこういけるじゃん。鼓、ウナギのあるなしで優劣判断すんのはなしだかんね」
「そりゃ味付けは華がやってんだもの。文句があるならこっちを食べてみな」
鼓はすました顔をして、華が作った卵焼きを差し出してくる。不承不承、飛鳥は差し出された卵焼きを口に含む。一噛みした次の瞬間、飛鳥は敗北を悟ってうなだれた。
「なにこれ。なんでこんな柔らかいの」
「ふわふわして食感が最高ですわ」
色めきたつ二人を横目に、鼓が胸を張った。自分で作ったわけでもないのに、ずいぶんと誇らしげだ。
「解説してやろうかい」
「なんだか附に落ちない気がいたしますが、お願いします」
「焼きあがるまで、あんたらは弱火でじわじわ焼いたあげくに固まるまで待ってただろ。そうするとどうしても全体的に固くなるんだよ。華はある程度強い火で、まだ半熟なうちにくるくる巻いてたからふっくらしてるんだよ」
「うぐっ」
「精進しな」
「くっそー!」
「奥が深いですわ卵焼き」
流れるように自分の弱点を並び立てられて、華とつばきは拳を握りしめた。しれっとした顔で味噌汁をすする鼓を見て、次は絶対にうまいと言わせてみせると堅く心に誓う。
「次までに練習しとこ」
「わたくしもミツさんに教えていただきますわ」
「誰?」
「うちのお手伝いさんです」
「お母さんじゃないの?」
確かつばきは両親と同居していたはずだ。飛鳥が聞くと、彼女は首を横に振った。
「祖父に言わせれば、母は料理のセンスが壊滅的にないそうなので」
「んなこといってできんでしょ。あんた『勉強してない』とか言って百点とるタイプじゃん。お母さんもそうなんじゃないの」
「まあそれは否定しませんが、母は料理に関しては本当にダメだと烙印を押されていましたよ」
「嘘だー」
飛鳥が首をかしげていると、つばきはにっこりほほえんだ。
「……そうですねえ。おじいさまは毎日豪勢なものを召し上がっていますから、舌が肥えているだけかもしれませんわ。じゃあ、母に少し聞いてみます」
話がそこで終わった。ちょうどよく会話がとぎれたところで、鼓が食器を持って流しに向かう。飛鳥も彼女の後を追った。
「しかし、あんたらも馬鹿だねえ」
食後の片づけをしながら、飛鳥はぽつりとつぶやいた。
「ん?」
流しに向かっていた鼓が、それを聞きつけて振り返る。飛鳥は汚れた食器を彼女に渡しながら、しみじみ言った。
「だってそうじゃん。みんながやりたいのは日本酒を売ることでしょ? どうしてつばきにいかないの。あの子、正真正銘のお金持ちだし、酒好きじゃん」
ふむ、と食器を洗う手を一瞬止めてから、鼓は言った。
「あのお嬢さんももちろんおつきあいしていくよ。でも、一口より二口の方がいいからね。金があるとこにゃくっついていくよ」
「げ」
押しつけようとする作戦は、早々と失敗に終わった。
「なんたってこっちは作り続けてもらう限り死なないし、金は使わなきゃ減らないからね。よろしく」
「そんなよろしく嫌だー」
鼓と並んで食器を洗いながら、飛鳥は苦笑いした。面倒くさいのに好かれたものだ、としみじみ思う。しかしここまで言われても、今すぐ出て行けと言う気にならないのはなぜだろう。
割り切れない思いを抱えながら、飛鳥は結局何も言わずに食器を洗い続けた。
☆☆☆
その後、飛鳥はつばきと登校して、二限目を受けた。たいして面白くもない授業を終えると、どっとおなかがすいてくる。
学生でごったがえす食堂に足を踏み入れた。なんとか並んで座れる席を確保し、お互い好みのメニューを注文して戻ってくる。
「あれ、蕎麦だけ?」
「今朝たくさんいただきましたもの。おなかがすかなくって」
飛鳥からみたら、つばきはあまり食べていない。しかし、本人がそう言うからには疑うまい。自由自在に伸び縮みする自分の特別製の胃と、つばきのそれは違うのだ。かわいそうに。
飛鳥は同情しながら、箸を割った。飛鳥の前に置かれた料理を見たつばきが、冷たい視線を向けてくる。
「それにしても……唐揚げ定食に追加で唐揚げをつけるのはいかがなものでしょう……」
「おいしいよ」
「いえそういう問題では……まあ、残さないようにしてくださいましね」
つばきに言われるまでもない。大丈夫大丈夫、と請け合いながら飛鳥は食事を始めた。唐揚げをほおばると、まずはかりっとした衣の感触。それに少し遅れて、どっと肉汁が吹き出す。大学は偏差値そこそこの地方のいち私学だが、食堂は東京の大学にも劣らないなと飛鳥は満足した。
「おお、すげえ山盛り」
飛鳥が半分ほど飯をつめこんだところで、背後から大きな声が飛んできた。




