37・噴式機関事始め
1939(昭和14)年6月、横須賀
「種子島、貴様を探していたんだよ」
そう声を掛けられた種子島時休が振り向いた。
「一体どうしました?」
彼が見たのは、何やら書類を持った人物。しかし、いつも横須賀に居る様な人物という訳でもない。
「これなんだがね、何かわかるかね?」
そう言って見せられた書類をめくると、鮮明なカットモデルが目に飛び込んで来た。
「こ・・・これは!」
「おお、分かるか。陸軍から渡されたんだが、海軍だと貴様が第一人者だという話を聞いてね」
そこには遠心二段圧縮式のターボプロップエンジンの鮮明な図柄が描かれており、食い入るように細部まで細かく目を通す。
さらにめくって流し読みしていくと、さらにカットモデルが出現した。
「こ・・こんな物まで!!」
それは軸流式ターボジェットエンジンの詳細な図面と説明であった。
「まさか!陸軍は既にこのようなものを完成させているんですか!」
興奮してそう尋ねたが、相手の様子がおかしい。
「いやぁ~、陸さんも現物は持っていないそうなんだがね。うちで貴様がやっているはずだという話を聞いて、持って来たんだよ」
と、応答のキャッチボールがうまくいっていなかった。
「まあ、これは貴様に渡すために持って来たんだ。上手く活用してくれ」
持ってきた書類の重要性をあまり理解していなさそうだと種子島は思ったが、その事は口に出すことなくお礼を言って別れる事にしたのだった。
そして、すぐさま部下の元へと走って行く。
「永野!永野は居るか!!」
呼ばれた永野治も何事かと駆け寄っていく。
「これを見ろ!すごいぞ。陸軍はもうこんなところまで行っているらしい!!」
そう言ってさらに部下たちを集めて書類を検分し、そのあまりの内容に皆で驚く事しか出来なかったのだった。
その後、カットモデルと書類からカン式燃焼器、アニュラー式燃焼器の構造を理解し、遠心式、軸流式双方の利点や欠点に関して皆で論じ合う事しばし、結局双方ともに試作して行こうと言う事になった。
1941(昭和16)年4月16日、横須賀
種子島たちは大勢を招いて運転試験を行う事になった。
「こちらがネ10になります。これは遠心式を採用しー」
これまでの独自研究に手渡された資料の情報を加味して開発された遠心二段圧縮式ターボジェットの試験が行われることになった。
結果は良好で、推力890kgを発揮し、連続運転時間は10時間を達成していた。
さらに半年後にはネ20エンジンの連続運転にも成功する。
こちらは軸流六段圧縮式ターボジェットで20時間の運転が可能で推力も1tに達していた。
これを見た海軍はしかし、その燃料消費の多さから採用には後ろ向きであった。
その後、陸海共同開発となって種子島を長とするジェットエンジン部門が設立されると陸軍がジェットエンジンに興味を示し、早速次期爆撃機のエンジンとすることを決める。
「ちょっと待ってください。これは一体何を作れというのですか?」
担当となった小沢久ノ丞は聞き返した。
「爆撃機だ。といっても既存の概念とは違う機体である必要がある。これなど参考になるのではと思って持って来た。軍機だから持ち出しは認められんが、こういう物だと理解してほしい」
そう言って小沢が見せられたものは、到底既存の飛行機と呼べるものとはかけ離れていた。だが、プロペラを持たないジェットエンジンを用いる航空機の在り方とはこういうものなのだと理解し、その開発に当たる事になった。
しかし、いきなり壁にぶつかってしまう。
「たしか、重爆撃機と言う話だったはずだが、これではそんな大型機を作ることは不可能だろう」
エンジンとして選定されたのはネ20を発展させたネ120になるという。しかしその推力は最大で2t弱。2基を用いれば3t強と言う事になるが、速度要求から言えば大型機に適した推力ではないという計算が導き出されてしまう。
「より小さくしなければならない。やはり、あの機体を真似るのが最善だろうか」
こうして、その場で見る事しか許されなかった三面図を記憶を頼りに書き起こし、図面を睨んで唸る事になってしまった。
その図面を基に再度設計を行うと、色々な問題に突き当たる事になるのだが、それらを一つ一つ解決しながらの設計となっていく。
「高翼配置にしないと空気取り入れ口や爆弾倉をまともに設置できないのか。しかし、これだと本当に水平尾翼を主翼より下に置くことになるぞ」
水平尾翼の配置は1960年代まで主翼が発生させる乱流を避けるために主翼より高い位置に配置する事が常識であったが、この機体ではその配置が難しい。
燃料消費が激しいターボジェットエンジンで要求性能を満たすには、大柄の機体にならざるを得ないのだが、それだと速度要求が満たせなくなってしまうというジレンマに陥っていた。
そこで、例の機体を実現する事を意図して実際に主翼より下に水平尾翼を配置して効きが担保できるのかが試され、問題ないことが分かって何とかモックアップへと進んだ。
1942(昭和17)年6月に完成したソレを見た陸軍はただただ驚くだけだった。
「えらく小さくなったものだ。だが、搭載量に問題はない」
複座攻撃機と言った方が差支えが無い小型機であったが、速度性能を求めた場合、こうするしかなかったのである。
そこから順調に試作機が出来上がり、半年後の12月には初飛行までこぎつけたが、エンジンの寿命はいかんともしがたく、最悪1度の飛行でエンジンを交換するような状態が続いて採用までには至らなかった。
「イギリスから輸入が出来るようになるんですか?」
採用が絶望的だと思われたのだが、急転直下イギリスの停戦によって資源輸入の目途が立ち、耐熱合金に必要なニッケルの輸入が再開された事でエンジンの寿命が100時間にまで伸び、ようやく採用が決まる。
それまでに10機の試作機が完成し、各種試験を順調に消化しており、量産命令にも迅速に応じることが出来たのだった。
こうして1944(昭和19)年1月、初の実戦部隊が編成され、ニューギニアへと飛び立っていった。




