第六十話 リッチ戦、後編
『ベルフ様、こういうときこそ深呼吸です、ゆっくり吐いてーゆっくり吸ってー』
頼りになる相棒からの助言を完全無視するとベルフがリッチに斬りかかる。
先程までのベルフの動きでも、普通の人間の眼では捉えることができない程であったが、今は更に磨きがかかっていた。
そのベルフに対抗するようにリッチが槍状の魔法を放つ。一本一本が騎士の扱うランスほどの大きさもあるそれらが、追尾するようにベルフに向かって解き放たれる。
強制的に人間の限界を一時的に突破しているベルフには、リッチの放つ魔法がしっかりと目に見えていた。向かってくる複数の槍状の魔法を文字通り潜り抜けながらリッチに近づくと、豪快に剣で斬りつけた。音の壁を突破した証である破裂音を刀身が響かせながら、先程まではまるで手応えのなかったリッチの本体を、僅かながらだが削り取る。
『ベルフ様行けます! 今の一撃でリッチの野郎の本体を削り取れました。無論、削り取られて本体から離れた部分は、すぐに聖剣の力で吸収してこちらの力に変えています』
「それだとリッチから吸収する力の量が増えて、時間制限が短くならないか?」
『その分は頑張ってください、どの道、このままでは時間が足りませんので』
「ふむ良いだろう、その提案乗った」
リッチと剣の間合いにいるベルフが、そのまま矢継ぎ早にがむしゃらに剣を振るい続ける。先程、サプライズが助言したように、攻撃重視のスタイルに切り替えていた。
剣の理合いも振り方も素人よりマシ程度のベルフであったが、身体能力含むレベルだけは現在、人類の範疇からぶっちぎっている。雑で粗暴な剣の振り方であったが、放たれている剣閃は音の壁さえも超え、カマイタチすら発生させていた。
リッチの本体である黒い靄が、ベルフに切りつけられるたびに削られていく。
リッチ側もベルフへと向けて攻撃魔法を放とうとするが、リッチが魔法の狙いをつけるよりも早くベルフが細かに移動を続けるので、その照準をつけられないでいた。
白骨死体であるリッチから苛立ちの気配を感じ取ると、ベルフが自身の優勢を悟る。後はこのまま押し切るだけだ。
『ベルフ様、少しご注意を。あいつ何かするつもりです』
攻撃の手も止めず、リッチの本体である黒い靄を削り続けていたベルフの頬に、急に冷たい感触がした。それはポツ、ポツ、と言う音を立てて周囲に落ちてきている。雨だった。
「雨か?」
『みたいですね。ただ、この青空で雨というのはおかしいですから、恐らくあいつの仕業ですね』
と、ベルフとサプライズが話していると、いきなりその雨音が激しくなった。まるでバケツを逆さにしたような勢いで、辺りに大量の雨が降り注ぐ。
その雨の中で視界不良になったベルフだが、それでもリッチの姿を見失うことはない。相手の思惑がわからないが、とにかく攻撃し続けるだけだと決めていた。
リッチがベルフに向けてその白骨死体の手を向ける。何かの大技かと思い、リッチの手の軌道から避ける様に移動すると、先程までの雨が止んでいることに気がついた。そして、ベルフが足を踏み込んだその時、パキッと言う音を立てて周囲一面が一瞬で氷ついた。
「!?」
ズルっと足を滑らせて転倒するベルフ。身体や服についている水滴達も残らず凍りついており、それらが地面に転倒した衝撃で小さい破砕音を出す。
『あ、やばい。来ますよベルフ様』
転倒して足が止まっているベルフに向けて、リッチが本命の魔法を放つ。
ピシっという音を立てて、ベルフの周囲の空間がひび割れていく。パキッピシッという何かが割れていく音だ。そして、この魔法にサプライズとベルフも身に覚えがあった。
『ここでこれを使いますか!! 一度食らっただけでこちらの魔法を理解したとでも!?』
「ぐ、ぐむむ。これ、は」
『私の使ったあの空間破壊の魔法です。いけません、この魔法に耐えきれたとしても抜け出すのに時間がかかります』
リッチが髑髏の部分をカラカラと音を立てて笑う。この魔物はベルフに時間制限があると見抜いていた。人の魂の集合体であるこの魔物は、その知能も人に近いほど著しく高い。仮に魔法が成功すればよし、失敗しても耐えきる間の時間で、ベルフに残された時間を大きく削ることになるのだ。
リッチが放った空間破壊の魔法に聖剣が自動的に展開している対魔法の防護膜が必死に堪えていた。聖剣の対魔法能力のほうが、この魔法よりも上だとベルフは理解していたが、そのせいで貴重な時間が無駄に使われているのがわかる。そして、ベルフはそれがリッチの思惑どおりになっている原因だと気がついた。
「サプライズ」
『いけません、どうしましょう。こうなっては、もうベルフ様をアンデッドとしてクラスチェンジさせて、アンデッドの王を目指すしか。死んだ後でも自意識が残るかどうかはベルフ様だから大丈夫だとして――』
「サプライズ!」
『あ、はいなんですか』
「――をここに撃て」
『え、まじですか。確実に死にますよ。と言うより成功しても何が起きるかわかりませんが』
「そこはお前が調整して、上手く俺を巻き込まないようにしろ」
サプライズが一瞬躊躇した。そして、次にリッチを見る。自身の思惑通りに進んでいるのか、髑髏をカラカラと笑っているリッチに、言いようも知れないむかつきをサプライズが覚えた。
『良いでしょう、全人類で初めてこの魔法に完全に耐えきった称号をベルフ様にプレゼントします。受け取ってください』
「良いぞ、どんとやれ」
サプライズが自身の最強魔法である空間破壊の魔法を放つ。そしてそれは、リッチに向けてではなかった、ベルフに向けてだ。
一際大きくギシリという音が響くと、二重に掛けられた魔法にベルフを覆っていた対魔法防護膜が完全に砕け散る。ベルフの身体にサプライズとリッチからの最強魔法を受けて、全身の骨と内蔵が嫌な音を立てる。
魔法に耐えることで自身の行動が阻害されるのなら、逆に耐えずに魔法を成功させようという計算の上で行った、自殺とも言える行いだった。
リッチがベルフの自殺とも言える行動に狂喜の感情を沸き起こらせる。そして、それと同時にベルフを巻き込んで、空間が破砕した。
ベルフを縛り付けていた拘束状態が終わるとともに、何かがバラバラと辺りに散らばってくる。それは、空間の破壊に巻き込まれたベルフの身体、ではなく、彼が身に着けていた鎧だった。
リッチと、そして、ベルフがそれに驚く。ベルフ自身も、あ、やべ完全に死んだわこれと途中から思っていたのだ。だが、ベルフの身代わりになるように彼が身に着けていた鎧だけが砕け散るだけですんでいた。
『思ったより優秀な鎧だったようですね。リーキスとか言う冒険者はどこでこれを手に入れたのでしょうか。そして、来ましたよベルフ様』
空間破壊の魔法の跡、ベルフの背景のその部分には真っ白い空間があるだけだった。本来ならあるはずの街の景色が、そこにはない。空間が破壊された結果として、真っ白い空間がそこに生まれている。その白い空間をベルフが見ると、そこには何もないように見えた。空気も、星も、水も、こちらの世界とは何もかもが違う異世界がそこには広がっていた。
その白い空間の縁に巨大な手のようなものが中から複数引っ掛けられると、異形の生物達が顔を見せる。一つ目だけの生物。毛むくじゃらで顔が複数あるサルのような生き物。宙に浮いている黒い球体。他にも様々な理解不能な生物がそこにいた。
「なるほど、これがお前の言っていた、周辺地域一帯を地獄に変えた異世界の強大な魔物達か」
『こいつらかどうかはわかりませんが、似たようなものでしょうね。で、どうしましょうか。強敵が増えましたが』
「強敵? いや、俺はこいつらを待ってたんだ」
久しぶりに開いた異世界への通路。空間の自動修復力を考えれば開いている時間は非常に短い。その間に、異世界へと侵攻して、その暴虐な力を振るおうと思っていた彼等である、その彼らからすればリッチもベルフも等しく敵だ。その暴虐な力を、ベルフとリッチ双方に向けて振るい始めた。
まず出てきたのは二足歩行の白い狼だ。白狼と呼ばれるその人狼がリッチに向けて軽く手を振るうと、リッチの本体である黒い霧がザクリと霧散する。その霧散した霧をベルフがすかさず剣で触れて吸収すると、人間大の七色に光る宝石の魔物がベルフの前に現れた。
「あ、これ死ぬわ」
そう思ったベルフがさっとリッチを盾にする。こざかしい真似を見せつけたベルフをリッチが追おうとするが、宝石の魔物は待たない。七色に光る宝石各それぞれから、それに対応する属性の魔法がリッチに放たれる。属性と言ってもこちらの世界のような火や水などではない、色として分けられているだけで、こちらの世界では理解すらできない波長や物質が色として違うように見えているだけだ。
それをまともに食らいながらもリッチは耐え抜くが、またしても徐々に本体が削られていく。そして、すかさずベルフが吸収する。
「かーーうめえなあリッチの魔力は」
『全くですねベルフ様、おやおやリッチさんどうしました、悔しそうですね、でもまーだ次がいますよ』
そう、他の異世界の魔物達もベルフたちを狙っていた。だがそれら全てのヘイトをベルフはリッチに擦り付ける。ベルフも伊達に生まれてこの方、人に恨まれて生きていたわけではない。自分に向けられた殺意を他人に擦り付けるなんてのは、ベルフが物心ついた時には自然にできていた事である。
異世界から出てきたあらゆる魔物達をリッチは相手取る。自分は王だという自負から今まで全ての敵と戦って勝利してきたリッチの経歴は美点ではあったが、この場においてはマイナスであった。強者との戦いを避けるという経験が圧倒的に不足していたのだ。
異世界の扉が開いてから時間にして一分にも満たない間に、リッチの体の大部分は削られ、そしてその分だけベルフは強化されていた。
そうして、リッチに異世界の魔物達がすべて潰され、動くものが居なくなると白い空間が小さくなって消えていく。後には、魔物達との戦いで満身創痍となったリッチと逆に力を増したベルフが残されていた。
『や、お見事ですベルフ様。で、残り時間なんですが、なんとかして三回くらいなら剣を振るうことはできます。ですが、それ以上は無理です。時間もですが、更に強化された力の行使にベルフ様の体が持ちませんね』
「そうかわかった、じゃあ残り三回の攻撃で必ずやつをぶち殺す」
短距離転移でその場から逃げ出したのか、何時の間にか姿の見えなくなったリッチに殺意を向けながら、ベルフはそう宣言した。
それは死霊の王だった。それは生まれて間もない、生前の意志すらない魔物だ、だが自分は強者だと理解していた。その身体の中には多数の死者の意思がある。統率したものとすら呼べないが、しかし、自身が絶対的な強者だとは理解していた。
自身が魔法を少し使えば、あらゆる生物は死ぬだろう。いや、生物どころか死者でさえも自身の力になるだけの供物程度でしか思っていない。
鋼鉄や岩を砕くような大魔法も、神に祝福された武具でさえ、己の障害にはならないことを知っている。だから、自身が逃げるなんてことはありえないと思っていた。
短距離転移でベルフの元から逃げ出したリッチがドサリと地面に落ちる。リッチが逃げ場所に選んだ場所、そこは、神殿の敷地内にある森だ。リッチの元になった聖者が持つ、ある種の帰巣本能なのかリッチは自然とこの場所を選んで逃げ出していた。
遠く、元いた街の正門方向を見ると、リッチの中に恐怖の感情が芽生える。この場所からも感じる異常な力を持つ人間。あのベルフに対してだ。自身の存在の危機に対して、この魔物に怯えの感情が芽生えていた。
と同時に、多少余裕を持ったリッチの中にプライドを傷つけられた怒りも芽生えていた。脆弱な人間でありながら自身に恐怖を覚えさせた人間。そのベルフに対して激しい憎悪の感情だ。
今は勝つために逃げ出しただけだが、ベルフの力の行使には制限時間があるとリッチは理解している。その時間が過ぎてベルフが弱体化した時、リッチは思う存分、その憎悪をぶつけるだろう。そのための邪悪なプランもこの魔物の頭の中にはできていた。
遠く離れたこの場所で、宿敵であるベルフの制限時間を待つ。ただ、それだけで自身の勝利が得られるのならば、多少の感情は我慢するべきだ。そう考えたリッチが、その勝利の時を待っていると、不意にリッチの頭上から影がさした。
「絶好のチャンスってやつだ」
『物真似なら私も得意ですよ。転移の魔法、ありがたく覚えさせてもらいました』
頭上を取ったベルフが、渾身の勢いで剣を振るった。それに対して、何とか迎撃の体勢を間に合わせたリッチが即座にベルフの横合いから魔力をぶつける。咄嗟のことで小さな魔力弾しか作れなかったが、宙にいたベルフを吹き飛ばすことには成功した。
蓄えているエネルギーを攻撃に全振りしていたベルフが、その攻撃をモロに受ける。不具合を起こしているのか、聖剣の防御膜の機能そのものが現在停止しており、直撃を貰ったベルフが近くの木に勢いよく激突した。
パラパラと木の葉が落ちてくる中でベルフは倒れながらも顔に笑みを浮かべる。
「良いカウンターだったが、ちょっと間に合わなかったようだな。七割くらいオレが有利か?」
『うーん、私は八割くらい有利だと予想しますね』
そう、ベルフは剣を振り抜いていた。リッチの迎撃はほんの少しだけ間に合わなかったのだ。結果として、リッチの身体は右半分が消滅していた。白骨死体そのものはリッチの本体ではないが、そこに纏わせていた黒い靄達も同時に消滅しており、完全に致命傷になっている。
更には、リッチとは元になった人間が持つ器を元に死霊達が集まって存在している魔物だ。その元になった人間の器そのものと言える死体部分が消滅したせいでリッチは急速にその魔力を霧散させていた。
剣を杖代わりにしてベルフが立ち上がる。ここが勝機、いや、ここで逃がせば次はないと決意していた。
そして、それはリッチ側も同じだ。残っている左半身だけでリッチが魔力を練り上げる。手を頭上にまっすぐ上げて白骨の人差し指を伸ばすと、その指先に膨大な魔力が集まっていた。
ベルフが剣を肩に担ぐ。
「あの技は、もっと範囲を狭めて使うべきだった」
『あの技とは、カイ達を殺し損ねたあの技ですか』
「そう、あの衝撃を放つ技だ。あれはもっと範囲を狭めて放つべきだったんだ、こんな風にな」
剣先に力を込めると、ベルフがゆっくりと剣を下ろす。
前にベルフが使った時は放射状に無造作に力が広がっていったが、今回は違った。家屋数件を丸ごと無差別に覆い尽くした前回とは違い、今回はリッチの頭頂部からつま先までの極めて狭い範囲に絞って狙いをつけた。
ポッポッと言う音と共にリッチの身体が抉れて消える。だけではすまされずに、その後ろ方向にどこまでも突き抜けていく、不幸にもその技に当たった木々達が支えを失い、何本も倒れていった。
頭上に上げていたリッチの左手が地面にドサリと落ちると、ベルフも手にしていた聖剣から手を離す。
『ギリギリセーフ。危なかったです、もう一度攻撃を振るか、もう少し剣を手にしていたら手遅れでした』
「三回までは保たせるんじゃないのか?」
『ええ、三回までは攻撃できますが、した瞬間に死にます。文字通り三回までは剣を振れますね』
言葉不足の甚だ激しいサプライズにベルフが怒りの叱責を与えようとすると、不意に寒気を感じた。それは、先程残ったリッチの左手からしてきている。胴体がなくなり、もはや手首から先までしか残っていない、たったそれだけのものから夥しい殺意が感じられるのだ。
左手だけしか残っていないが、まだリッチは存在していた。そして、リッチの中にある最後の魔力と、その意思達が今、絶好の機会にあることを理解する。なぜならば、ベルフは今、街を背にしていたからだ。
彼等の記憶の中には、ベルフが手にしている聖剣についての記憶があった。街にいた先代の勇者、それがベルフの持っている剣を使っていたという記憶だ。
その記憶から、リッチはベルフが今代の勇者だと推測している。自身に挑んでくるのも、その強大な力も、全てそれが原因だと言われればリッチも納得できた。そして、彼等の記憶の中にある勇者は、命を賭けてでも人々を救う存在だと刻まれている。
今から放つ魔法を避ければ、街の人間達が犠牲になる。だが、もしもこの魔法に立ち向かえば、満身創痍のベルフは死ぬ。いや、立ち向かわずとも少しでも避けるのにとまどえば、魔法の直撃を食らうだろう。
人の心の脆弱さ、それを計算にいれて心の中でほくそ笑むと、リッチが文字通り最後の魔法を解き放つ。その指先から放たれるのは巨大な魔力の奔流、街に直撃すれば、どれほどの人間が犠牲になるかわからない、その魔法からベルフは――
「よっしゃあ! あいつなんか知らねえが街方向に向けて誤射しやがったぜ!」
『馬鹿っすねあいつ。狙われてるとわかってる場所にいつまでもいるわけないってのに』
リッチが魔法を放つ遥か以前に、退避行動を完了していた。




