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「まったくどうしようもない。お前は本当に何もわかっていないのだから」
竹中直人みたいな声のくせに見た目はチュシャ猫のそいつは、俺を見つけてはそう言う。
どうやらこの学校に住み着いてしまったらしい黒猫は、俺が登校する時間帯と下校するタイミングを見計らって正門の上で丸まっているに違いない。被害妄想かもしれないが、いや被害妄想そのものなのだが、俺はそう思う。
猫相手に言い返しても意味がない。というかそんなところを誰かに見られたら学校にこれなくなるので無視しているが、いつまでも大人の対応をしていられるほど人間様はできてはいない。
一週間目の朝、登校中。校門の上で丸まる黒猫に、ついに声を返した。
「お前な、俺に何のようだよ。ほっといてくれ」
先制攻撃。今日は奴が台詞を言う前にこっちから言ってやった。
猫は、それでも顔をグニャリと歪ませて、
「まったくどうしようもない」
「黙れクソ猫」
のれんに腕押し。しかし、その時は違った。猫は立ち上がると、ひょいと門から飛び降りて、俺の足元に着地した。もしかしたら、なついているのかもしれないが、幻覚が上乗せされている俺には迫ってくるようにしか見えない。そして、そんな俺の感じる薄気味悪さとは裏腹に、低い声は嬉しそうに言う。
「我が名はサビルロウだ、人間様?」
「お前、名前あったのか」
どこかで聞いた言葉だった。まあ、俺の夢なのだから俺の知っている言葉がでないと変なのだけれど……。
「カズトキー、おっはよー」
後ろから声がする。振り返ると、向こうの方から手を振りながら誰かが近づいてい来る。確認しなくてもわかるが、どうやら俺の幼馴染の渡辺月乃らしい。月乃なんて名前をしちゃいるが、どこにもそんな清楚さも可憐さも無い女で、むしろ灼熱の太陽、といったような、うっとおしい女だ。女と呼ぶことさえ抵抗を覚える。そんな俺の苦々しい顔をものともせず、持合の明るさで叫ぶ月乃。
「おらー、おっはよー、って言ってるんだからおっはよーって返事
を返せー」
減速せずに俺に体当たりをかますことでブレーキをかける。女の体躯とはいえ加速をつけられての衝突は痛い。
「朝からそのテンションはやめろ。あと人にぶつかるのもやめろ。
お前もう高校生だろ」
「うっせーなー、私とお前の仲だろー」
親しき仲の礼儀を知らないらしい。
それにしても、朝から猫に難癖つけられるわ月乃に捕まるわ、ろくなことがない。今まで生きてきた中でも最悪な日だ。
今、この瞬間にもどんな幻覚(厳密には幻覚ではないらしいが)を見るのかわかったもんじゃない。
「おー、かっわいー猫じゃない」
月乃がやかましい声で何かを持ち上げた。見なくてもわかるが、眼で追うと件の竹中直人だった。
「お前、まだいたのか」
確かに、グニャリと笑った気がした。でも、それも俺がそう見えるだけで、関係ないんだよな……。
「何々、和時の友達?」
「断じて違う」
むしろ敵だ。
「へー、首輪ついてる。飼い猫かな。お前名前なんて言うんだ?」
「サビルロウだ」
「何それ? 何語?」
「俺も忘れた。そいつがそう名乗るんだから仕方ない」
「名乗る?」
そこで俺は墓穴を掘ったことに気付く。
「和時、あんた猫と喋るの?」
「うっせーな、とりあえずそいつを抱えるのやめろ、俺はそいつが大嫌いなんだ」
「なんでよー、確かにさっきから爪立てられてるしちょっと毛が抜けて皮膚病っぽいし、おまけに顔も可愛くないけれど、後は普通の猫ちゃんじゃん」
「NGワード連続じゃねえか!」
俺が文句ばかり言うのに諦めたのか、
「じゃあね」
月乃はサビルロウを開放した。学校の中に逃げてゆく小動物を見送る。奴の声が聞こえて一週間。あいつはきっと俺の下校時を狙ってまたやってくるに違いないのだ。くそ、オレが何をわかっていないって言うんだ。人間は誰だって理解できないものを抱えて生きているじゃねえか。あ、俺今結構いいこと言った。
「ところ和時。昨日病院行ったみたいだけれど、どうだった?」
嫌な質問が来た。何が嫌といえば、きっと今日登校すればこの女はその質問をするだろうことが想像できたから、嫌だった。
何を血迷ったのか、こいつにだけは体調の不良を訴えてしまったので、酷く心配されてしまった。病院に行けとせまったのもこいつだ。そういえばいつも何かをするときは、こいつがいちいちちょっかいをかけてくる。そんなことを思い出していた。
「で、風邪か何か? それとも盲腸とか? もしかしてジフテリア? ちゃんとお薬もらった?」
「いーや、もらってない。それからジフテリアは犬の病気だ」
「なんでよ、あんたのとこちゃんと社会保険入っているんでしょ?
国が七割医療費負担してくれるんじゃないの?」
疲れていたのだろうか、また墓穴を掘る。
「薬で治る病気じゃないんだよ」
言った後でなければ後悔できない。
月乃の顔が真っ青になっていた。
「ねえ、大丈夫なの? 薬で治らないって、また? また無理しているんじゃないの? 学校に来れるの? 遠くの病院に行くの?」
「ほっとけ、とりあえず横でやかましく言う誰かさんのいないところで安静にしているのが一番いいらしいから」
治し方があるのなら、俺はコロンビアやパレスチナにだっていく。俺は月乃の顔を見る。その顔が、少し翳ていた。
「……そんな言い方ないんじゃないの?」
自分がやかましいことは自覚していたらしい。
「いつものことだろう」
「私、本当に心配してんだよ?」
俺は何も言わないでサビルロウにするように無視すればよかった。もしくは、適当に謝っておくべきだったのかもしれない。
「それって、はっきり言って入らぬ節介じゃないか?」
いつも言った後で後悔する。
がしゃん
……変な音が聞こえた。ガラスが割れたような破壊音。けれど、そんな幻聴よりも目の前の月乃の顔が歪んでいることの方が、居心地が悪い。
「いいよ、もう」
月乃は少し俺を追い抜いて、校舎に向かって歩き出した。
学校の中に逃げてゆく月乃。なんで俺が悪いんだよ。お前、打たれ弱すぎじゃないのか。そうは思っても俺はわかっている。多分、俺が悪い。
「一週間前にあなたが早退して、彼女結構心配していたのよ」
傍らに立っていた誰かが、そう言った。
「知ってる」
本来なら突然現れた第三者に驚くところだが、すでに不条理が人生そのものの俺にはなんの驚愕はない。脈を計るように首筋に手を当てて、首を支えて少しうつむく彼女は、俺に話しかけてきた。
「あんたは?」
「私? 気にしないで。ただの通りすがり」
「ただの通りすがりがいらないお世話だ」
「そうね、でも私達はおせっかいだから」
「おい、私達ってなんだよ」
「それよりあなた、え、と……ああそうそう高山君、あなた行ってあげなくていいの?」
「なんで俺の名前を知ってるんだ? やっぱりあんたも俺の夢だから、登場人物はみんな知ってるのか?」
「……?私、高山君のクラスメイトだけど?」
こんなやつ、いたっけ?
けれど、その疑問を口にするより先に、彼女は首を支えて、持ち上げた。ひどく白い肌だった。
「聞こえたんじゃないの? 現実には聞こえるはずのない音だけれ
ど、私にも聞こえたわよ、彼女のガラスの心にヒビの入った音が」
あの、破壊音のことなのか? けれど、あれは俺の夢で……
「あなたは、心の奥底で彼女を傷つけたと思うのでしょう? だからあんな音を聞いた。違う?」
そうかもしれない。いや、そうだろう。俺は、その答えに反論はできなかった。彼女の言葉を信じることに、抵抗がなかった。それが筋書きであるかのように。目の前の彼女が、何故俺の秘密を知っているのか、気にもなる。けれど、もっと俺の心にひっかるものがある。
「まったくどうしようもない。お前は本当になにもわかっていない」
サビルロウの言葉を思い出す。あれが、このことを言っていたのだとしたら。ああそうだ。わかっていない。けれど
「お前に言われたくねえよ」
そして、学校の中に俺も行く。月乃の行きそうな場所も、見当はつく。
この高校の屋上は開けている。いや、本当は鍵がかかっているはずなのだが、ドアノブをちょいと上に持ち上げながら素早く捻ると簡単に開いてしまうという裏技があり、知る者から知る者へと受け継がれている伝統だ。俺も知っているし、月乃も知っている。立ち入り禁止のロープを越えて扉を開くと、あいつはやっぱりそこにいた。
「お前、何かあるとすぐここに逃げてるよな」
「和時」
ケンカした時は、いつもここに来る。俺も、あいつも。
フェンスにもたれかかり、朝の太陽と登校している高校生をぼんやりと見ていた月乃は、俺の姿を見て少しとまどった。
「お前なあ、俺にどうしろってんだよ」
こんな風にしか謝ろうとできない自分が少し嫌になる。そして
「一発殴らせろ」
「断る」
「じゃあ今日の昼飯おごれ」
「わかったよ」
許してくれようとする月乃には、感謝している。
「じゃ、先教室行くからな」
「一緒に行くくらいのアフターケアも無し?!」
その声と同時に、始業のチャイムがなる。
「やばい、月乃ちょっと急げ」
二人で、走り出す。
扉を開け、階段を飛び降りるように駆け抜けて、廊下を音を立てて走る。走りながら、次のことを考えていた。とりあえず、まだ担任が来ていないことを祈ろう。そして財布の中身を確認しよう。多分月乃は人の奢りに気遣いなどしない。そして、あの女の子を捜そう。今朝会った自称同級生。彼女は何者なのだろう。本当に、俺の知っている人なのだろうか、しかし、実在の人物であるのなら何故『夢の中』に現れる。……いや友達の出てくる夢だって見る。俺が周りを見ていないだけで、もしかしたら隣に座っているかもしれないのだから。……あ、俺の隣の席は月乃だった。
教室の戸を開けると、もう担任が教壇に立ち、俺と月乃以外の皆が席についていた。遅刻だ。しかし今更そんなことで落ち込めるほど真面目でもない俺も月乃も自分の席につく。そして、座って教壇に立つ人間を目視したところで初めて、おかしいことに気付く。
黒板の手前に、二人の人間が立っているのだ。一人は担任。なら、もう一人は? あの、脈を計るように首に手を当てて少しうつむく彼女は一体、誰?
「高山、渡辺、お前らこんな日に遅刻するなよ。じゃあ、転校生を紹介する。つい先日ドイツから日本に戻ってきたばかりの、西内硝子さんだ。西内さんはお父さんの都合で……」
担任がプロフィールを続けたが、俺の耳には入ってこなかった。その転校生を呆然と見ていた。そんな俺を見て、月乃と彼女は同時に言った。
「ね、クラスメイトと言ったでしょう」
「何、和時の知り合い?」
多分、色々言いたいことはあるのだが、俺にとって一番腹が立つのはそれを猫に言われることなのだと思う。俺は確かに何もわかっていない。結局、心配してくれる人の気持ちだって汲み取ろうともできない自分勝手な奴だ。そういう意味では、まったくどうしようもない奴なのかもしれない。
でも、それを他人に言われるのは、腹が立つ。
「まったくどうしようもない。お前は本当に何もわかっていないのだから」