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「まったくどうしようもない。お前は本当に何もわかっていないのだから」
竹中直人みたいな太くて低い声が、そう言った。
その言葉に頭を捻るのは、その発言の深意よりももっと別のところ。そんな求道的な発言を、その時その場所で俺に言い出す人間はいなかったはずだから。
学校からの帰り道。一人きりの夕方。
そんな美声の持ち主も、そんな問いかけをする哲学者も、見知らぬ他人にいきなりそんなことを話す変質者も、俺の背後にも正面にもいなかった。なら、その言葉を発したのは、誰だ。その疑問を持ちながら、実はわかっていた。
そこに居たのは一匹の猫。塀の上に身を丸くしている動物。酷く痩せて、何か病気にかかったみたいに毛の抜けた黒い猫。『不思議の国のアリス』に出てくるチュシャ猫のようなグニャリとした顔で笑うそれを見て、俺は何故か確信していた。
喋ったのは、こいつだ。
改めて凝視してみても、そこにいる痩せ猫はただの痩せ猫で、喋ったりもせず動物的な目つきでこちらを見ているだけで、俺の聞き間違いである確率が一番高かった。なのに俺の心は、猫の台詞をリアリティを持って認識している。
……ここで問題なのは、猫が喋ったことよりもそのことで俺が全く動揺していないことだ。そんなことあるはずないのに、目の前にいるそれが喋ることを容認して、ただ、猫にそんなことを言われてムカついてしかいなかった。
きっと何かおどろかなければならないところなのに、俺はその異常を受け入れてしまっていた。
夢をみているのだな、と思った。
夢の中で起きることを変だと思う奴はいない。
だから、俺は納得しかけて……思い出す。
でも俺、起きているよな。
「まったくどうしようもない。お前は本当に何もわかっていないのだから」
そいつは、塀の上から俺を見下していた。