8ー5
その夜、私は就寝時間ぎりぎりまでサハラと遊戯室で遊んでいた。サハラが目を期待に輝かせながら、王宮での生活について話してくれるのを聞くのは、とても楽しかった。
夜の11時近くになると、私はようやく自室に戻った。明日の着替えと夜着を寝台脇の長椅子に置くと、サハラはお休みなさいませ、と微笑んでくれた。
部屋の出口まで私がサハラを送ると、ふと彼女は私の目をじっと見た。
「エリ様は、殿下の事をどう思われてます?」
突然の話題に、私は言葉に詰まった。するとサハラはゆっくりと、言葉を選ぶ様に続けた。
「殿下は王宮に入れば、きっと近い内にエリ様を側室になさいます。王宮では今までと違って、殿下の権威は更に強くなりますから、エリ様の御意思にそわない事が、万一にもあれば、と私は少し心配をしております。……余計なお世話かもしれませんが。」
私はぎこちなく笑い、サハラを安心させようと答えた。
「私は近い内に、街に出て行くつもりだから、大丈夫だよ。心配しないで。」
街で仕事を見つけてお金が貯まるまでは、王宮の世話になるしかない。まだ不安そうな目をしながらも、サハラはコクリと頷き、部屋を出て行った。
まずい、11時5分前だ。
王宮生活についての漠然とした不安を抱えながらも、私は急いでバルコニーに出た。
どうやって大佐は来るのだろう、と余り広くないバルコニーを彷徨いた。眼下に広がる暗い庭園に視線を移すと、なんとそこに大佐が立っているではないか。
いつもの軍服ではなく、純白の上下に膝まであるブーツを履いている様だ。夜の闇の遠目にも、袖や首回りに赤と金の模様が見えた。ーーーなんと言うか、物凄く目立っていた。
ダメじゃないか、大佐。
この時間にこっそり私に会いに来るのに、敢えて白い服を選んだ意図が分からない。衣替えで他は全部クリーニングにでも出しているのか。
どうやって私の所まで来るつもりだろう、と期待に胸膨らませて大佐を見ていると、あろうことか大佐は私に手招きをした。
まさか。
私がそちらへ行かねばならないのか?
見間違いであってくれ、と硬直したまま大佐を眺めていると、大佐は再び手招きをした。今度はさっきより大きく、分かりやすく。
どうやらロミジュリに毒されていたのは私の方だったらしい。大佐が、門番を振り切ってバルコニーをよじ登る訳がないじゃないか。
こちらから行くのも癪だが、余り待たせると多忙な大佐を怒らせかねない。
私は意を決して、バルコニーから部屋に入った。
人に見つからない様に、まるで家族に内緒で夜に出掛ける思春期の少女みたいに私はトンプル宮の中を進んだ。足音を立てぬ様注意を払いつつ、小走りに玄関へ向かいながら、考えた。急がなくては。大佐を待たせると怖い。
……………違う。
早く、大佐に会いたいんだ。
私は心の中では密かにうきうきしていた。私、本気でどうかしてしまったらしい。
玄関を出て橋を渡り、庭園に出ると大佐がこちらへ歩いて来た。
薄暗いからだろうか、その表情はいつもよりも柔らかく見えた。春を迎える緑は美しく、風は肌に優しく気持ち良かった。庭園の薄闇を割いて近付いて来ると、大佐は開口一番衝撃発言をしてくれた。
「無事書類は提出して来た。今日からお前の名はエリ=トカイネ=モンファ=シェフテデステだ。」
「えっ…」
「エリ=トカイネ=モンファ=シェフテデステ。」
呪文の様な名前は耳を右から左に通り過ぎた。
「書類って、まさか婚姻届けの事ですか?」
大佐は当たり前だ、と言いたそうな顔で頷いた。あんなサインで自分が人妻になったらしい事と、自分が寿限無の一員になったらしい事両方が、突飛過ぎて信じ難い。
「あー、あの、でも大佐は上級貴族とやらでは…。私はこちらでは南の民で通ってますし。」
「些細な事を気に病むな。陛下のお口添えに勝るものはない。それに私の兄弟姉妹は、私の婚約者と逃げて以来行方知れずの弟しかいない。両親は私の結婚を半ば諦めていたから、どの様な女であれ構わないらしい。エリの話を聞き、母は小躍りするほど歓喜していた。」
大佐の母君は小躍りするような陽気な方なのだろうか。ちょっと想像出来ない。
すると大佐が不満そうな目付きになった。
「随分と嫌そうな顔をしてくれるではないか。」
「急過ぎて困っているだけです。」
「時間が欲しいと言っていたな。だがどうせ王宮になぞ明日引っ越せば、早晩王太子に手籠めにされるだけだ。…お前はそちらの方が良かったのか?」
手籠って…。でも前例があるから、否定しきれない。
「良くありません。勿論。」
大佐は私の二の腕を掴むと、王宮の方角へ歩き出した。
「では私の屋敷に行こう。迎えに来たのだ。ここにいる必要は無いはずだ。いや、ここにいる事が不自然だ。」
「ちょっ…。待って下さい、大佐!」
振り返った大佐の目が座っていた。
「強情を張るな。さっさと一緒に来ないか。馬車を待たせてある。」
私は大佐の手を振りほどいた。私にもプライドというものがあるという事を、示さないといけない。私は出来るだけ迫力ある顔を作って、大佐を見上げた。
「そんな言い方でついて行く筈が無いでしょう!自分勝手にも程があります。私は大佐の手の中の駒じゃありませんから。」
顔が良ければ女がホイホイついて行くと思ったら大間違いだ。
大佐は灰色の双眸を暗い庭園の中に彷徨わせた。どうやら考えごとをしているみたいだ。大佐を睨み付ける私と目が合うと、大佐はすっ、と逃げる様に視線を逸らせた。珍しく私が大佐に勝った気分がした。だが大佐は苦々しい表情を浮かべながら腕を組み、足の重心をずらした。長身の大佐にそういうポーズを取られると、理不尽な威圧感を受ける。
「では、どうすれば結婚してくれるんだ。お前こそ………私の好意に、応えたではないか。私の心を奪っておきながら、勝手な事を言う。」
「そ、それとこれとは違います!だって、……。」
「何が不満なのだ。言ってみせよ。」
「た、例えば、そうやって私を見下ろして、あれこれ何でも力技や謀略で済ませようとするところです!大佐は偉いからって偉そうにし過ぎなんですよ。」
すると大佐はゆるゆると組んだ腕を解いた。そのまま腰を落とすと、庭園の芝の上に膝をついて私を見上げた。
まさか見下ろすのをやめてくれたつもりだろうか。
「そうか。では言葉を改めよう。……こう考えるのはどうだ?これから先イルドアに生きるのだから、ここを出て、私の屋敷で社会勉強をすれば良い。異世界人たるお前の不安定な立場では、独りは生き辛かろう。その点シェフテデステ家は強力な後ろ盾になれる。」
不覚にもそれは魅力的な申し出に聞こえた。魑魅魍魎が蠢いていそうな王宮よりは平和そうだ。
「だから、とりあえず私の屋敷に住まないか?そこでとりあえず大佐夫人として研鑽を積めば良い。ついでにとりあえず子供を五人ほど、もうけてみないか?そしてとりあえず各地を一緒に回ってみよう。良かったら、とりあえず同じ墓に入らないか。」
私はおかしくて笑い出してしまった。とりあえず、が終わる頃には、人生自体が終わっているらしい。しかも随分と子だくさんな事だ。
だが大笑いして乾いた笑い声を立てる私とは違い、大佐は大真面目な顔で私を見上げていた。
私は笑うのをやめ、笑い声は薄闇に吸い込まれて消え失せ、静寂の中で大佐が何かを請う様な瞳で私を見上げていた。
……大佐は真剣なんだ。これでも。
大佐は真剣に、求婚していた。
「その笑顔を独り占めさせてくれ。」
大佐は私の両手を取ると、指先にそっと口付け、私を見上げた。その瞳がどこか狂おし気で、大佐が口付けた私の指先からぞくぞくとした熱が上って来る様で、私は自分の顔が耳まで赤くなるのが分かった。
「街の宿で言ってくれた言葉を、もう一度聞かせてくれ…。」
私は分からない振りをした。もう少しくらい、意地悪してもバチは当たらないだろう。
好き、だなんて簡単に言ってあげるものか。
大佐はマントの下から、小さな箱を出した。
これを渡しに来たのだ、と独り言の様に囁いていた。
大佐はその箱を開けて、私に向けた。箱には金色に柔らかく光る小さな指輪が入っていた。
「エリ、私と結婚して欲しい。…愛している。」
私はこの瞬間、自分が世界で一番幸せなんじゃないかと感じた。返事を期待して見上げ続けている大佐のいつもは鋭く怜悧な灰色の瞳が、物凄く可愛い物に思えた。
「………はい。」
小さな声で私がそう言うと、大佐は滲む様な笑顔を見せた。
とりあえず結婚してみようじゃないの。婚姻届が既に出されていて、順序がすっかり逆になっているけれど。
大佐は箱から指輪を取ると、私の左手薬指にそれをはめた。サイズを調べる間が無かったからか、指輪は大き過ぎて、拳を握っていないと指から滑り落ちてしまいそうなほどだった。肝心なところで大佐もツメが甘いなあ、と大佐の失態に思わず失笑してしまいそうになった矢先。
指輪が不自然な動きを見せた。グニャリ、と縮み私の指に隙間無く巻き付いたのだ。既視感のあるその光景に、私は事態を確認すべく指輪を外してみようとしたが、案の定指輪は溶接されたみたいにぴったりで、外れなかった。
「迷い子札の腕環を改良した。私のフルネームで発動する様になっている。ちなみに時限式への移行は不可能だ。」
「じゃあ、一生外せないんですか?」
「取れないと何か問題があるのか?」
「ええっと、……とりあえずはありません。」
トンプル宮に置き手紙くらいは置いてこないと、と私が主張すると大佐は明朝一番に使者を送るから心配するな、と言って一度引き返そうとした私を止めた。
大佐は私の手を握り、私の体ごと引き寄せると、力強く私を抱き締めて耳元で囁いた。
「焦らさないで言ってくれ。」
何を?ああ、さっき私が無視した続きか……。私はそんな大佐が可愛くて、尚もなんの事か分からないフリをした。今まで散々振り回されたのだから、このくらいの意地悪は許されるだろう。
「エリ……。」
しつこくねだる様に耳元に囁き続ける大佐を振り切って私は立ち上がった。これ以上この美声に縋られたら、あっさり応じてしまいそうだ。
「馬車はどこです?行きましょう。」
大佐は小さく溜息をついてから立ち上がり、こっちだ、と私の手を引いて進み始めた。
「まあ良い。これからいくらだって時間はあるのだからな。まずは帰ろう、私達の家に。」
見上げれば満点の星々が煌めいていた。地球のそれらと同じだろうか?私はオリオン座くらいしか見分けがつかないのだ。後で大佐に聞いてみよう、と思った。時間はこれからいくらでもあるのだから。
髪をなびかせる夜風が気持ち良かった。
春が、来ていた。
そうだ、大佐の乱れ知らずのあのヘアスタイルも、今度教えて貰おう…………。
私は大佐の予告した『とりあえず』を、この後この世界で、まさか全て実現させる事になるとはまだこの時は思いもしなかった。
それこそ子供の数に至るまで全て忠実に。
私は大佐と手を繋ぎ、これから広がる未来に向かって歩き出していた。ほんの少しの不安と、いっぱいの希望に胸膨らませながらーーーーーーー。
最後まで読んで下さった皆様に心よりお礼申し上げます。
特にお気に入り登録して下さった方々、感想を下さった方々、皆様のお陰で最終話まで続けられることが出来ました。
有難うございました。




