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エレノアが耳まで真っ赤にして縮んでいく中、真っ先に声を上げたのはブライアだった。
「――エレノア!」
「はっ、はい……!」
「あなたという子は――いくら私的な日記といっても、トルテュフォレ城の家令、そしてレコンフォール家の当主として、もう少し書きようがあるでしょう! それを恋だの、お――いえ、わたくしにはとても言葉にできません! 淑女としてはしたないことですよ、お祖父様がいらしたらなんと仰ったでしょう、嘆かわしい……!」
「ち、違うんですのよ、おば様……あの日はその、本当にいろいろとありまして……! いつもはもっと、家令として一日を真摯に振り返り、詩をしたためるように――」
「言い訳は結構です。やはりあなたには一度、いろいろと腰を据えて話す必要があるようね」
ぴしゃりと言い切られて、エレノアは慌てて息子であるクラウスに助けを求める視線を送る。が、
「ご、ごめ……エレ姉さん……、最初は我慢できたけど……お、お尻は……」
「ク、クラウス様! そんな――はしたない! それにエレ姉様にも失礼ですわよ!」
クラウスはいつかと同じように椅子の上で隠しきれていない笑いを堪えて身をよじっており、やはりまったく役に立たない。それを諫めているはずのアリーチェまで不自然に頬をふくらませており、笑いを堪えているのが一目瞭然であった。見かねた母の一喝が飛んだが、必死に取り繕おうとするクラウスの姿がまた滑稽で、より情けない。
「あれだけで青アザできるとか、尻までお上品だなお嬢様は。まあなんだ……お気の毒に。お大事になさってくださいよ、エレノア様」
「ほ、放っておいてください! お尻はもう治ってます!」
「エレノア様」
「う……」
そしてギルバートからは馬鹿にされ、眉間に深々としわを寄せたヘンドリックからも静かに、低く低くたしなめられて、エレノアは自分の席でしおれていく。見学者や列席した警備隊の人間たちからも笑われたり憐れまれたり、そんな雰囲気を感じ取って、ひどくいたたまれない気持ちになった。
「あ、あれ? もしかして言っちゃダメだった? ごめんね、エレノア。あたしはなんか可愛いなって思ったの。本当よ?」
「いえ、いいんですのよ……大丈夫です。これは証拠ですから……。証拠……」
「阿呆くせえ。しかし内容はともかく……お前さん、すげえ字だな……」
その間にもダニエロは日記をペラペラとめくりながら、ラヴィルに向き直った。
「――で、この尻を打った日記がなんだって? 内容が一致してるってだけじゃ、さっきと変わらねえぞ。それに尻の日だけは字が荒れてるしペンも違う。後から書き足されただけで、ますます捏造の可能性が高い」
「いいえ。問題はお尻ではなく、その次です。日記にはその嵐の夜、あるお方から譲り受けた大切な羽根ペンをなくしてしまったことが記されています。筆跡や書き方が変わっているのもそのためでしょう。またそのペンがないことで、以降の日記も記されていないままです」
「……ああ? よくわからねえな。ペンなんかなんだっていいだろ。そんなもんが、この調停にどう関わってくるんだ」
「エレノア様はそのペンをなくしてしまったことを、譲ってくださった方にお詫びのお手紙とともに報せておいでです。――エレノア様」
「……はい。もうどうぞお好きに……」
もはや抗う気力もないエレノアは、日記とともに持ち込んだ紙の束をばさばさと机の上に取り出す。綴じれば本でもできそうな厚みの紙束に、ラヴィルは手でそれを示しながら言葉を続けた。
「こちらはすべて、先方にお出ししたお手紙の草案です。エレノア様の名誉のために申し上げますと、異国人の私からしても、どの手本帳より素晴らしい美麗な文字で、季節の情緒や風景がありありと思い起こせるような麗筆が惜しげもなく振るわれ、お相手を敬い、慰め、包みこむ、思いやり深い文言が山のように記されておりました。全部で二十一稿あります」
「手紙一通に二十一……おい、家令ってのはそんなに暇なのか?」
呆れたような視線で、ダニエロは羞恥から顔を覆うエレノアを見下ろす。
「しかしながらこれこそが、その日記が捏造でないことの証左です。ご覧のとおりエレノア様は、言葉に対し非常に深く、誠実に向き合う性質のお方です。ペンの紛失はお相手の方にも伝わり、こちらは時間的に開示の手続きが間に合いませんでしたが、郵便の記録も残っているそうです。つまり、暴行を受けた旨が記されたそのページは、その日にあったことをたしかに記したページなのです」
「駄目だ、足りねえ。証拠として提示するなら両方の記録がいる。相手は――」
だが次の瞬間、
「待って!! 証拠ならあるわ!!」
ガラスを割ったような、甲高い絶叫が広間中に響いた。
その――今までとは異なる切羽詰まったようなクロシェットの叫びに、ダニエロも押し黙る。一方、テーブルに肘をつきながら両手で顔を覆いうなだれていたエレノアは、その暗闇の中で目を見開いた。
「記録なんていらない、相手からもうお返事の手紙が来てる! エレノアは、たしかにそれを受け取ったわ!」
「クロ……シェットさま……」
呆然とした様子で顔を上げるエレノアに、クロシェットは真剣な顔で頷く。
しかしエレノアは黙したまま、奥歯を噛みしめ唇をきつく結んで、テーブルに視線を落とした。
その様子に、気遣うように声音を和らげたラヴィルが問う。
「お相手のお名前は伏せていただいて結構ですよ。大丈夫です。――今の話は本当ですか?」
「それは……はい」
「ヘンドリック様はご存じですか?」
「……はい。この件に関してはもう一人、城勤めの魔術師も承知しております。お手紙については局員や担当の配達員にご確認いただければ明らかになるかと存じますが、しかしながら、お相手のお名前については私どもからは申し上げられません。そのお方を煩わせるようなことがあっては、決してなりませんので」
「ああ!? 行方知れずの画家といいそのパトロンといい、なんなんだ――」
怒気を孕ませて、ダニエロがエレノアの前に日記帳を叩きつける。
「おやめください」
だがエレノアはそれを抱きしめると、自分でも驚くほど鋭く、冷たく呟いた。
「何を申されましても、わたくしどもからその方のお名前をお伝えすることはありません。そのペンは、直接的には亡くなった祖父から譲り受けたものです。その方は――無関係です」
「エレノア!!」
しかしそれを止めたのは、クロシェットであった。
クロシェットは固く日記を抱きしめたエレノアの腕を、小さな両手ですがるようにつかみ、エレノアをまっすぐ見上げて叫んだ。
「もう逃げないで――恋をしたことがないなんてウソ! あなたは自分が傷つくのが怖いから、自分が変わってしまうのが怖いから、周りが変わってしまうのが怖いから、目を背けて無かったことにしたいだけ! でもそんなの間違ってる!」
「クロシェット様――」
「相手は絵本や童話の中の王子様じゃない! あなたと一緒で、今は遠くにいるけど、この世界で生きているの! ご飯だって食べるし、楽しかったら笑うし、悲しかったら涙も出るのよ! 心があるの! 変わることが怖いのは、アイツが誰よりもわかってる、でも――それでも手紙を書いたのよ。手紙を書き直したのが自分だけだと思ってる? だとしたらあなた、大バカ者よ!!」
そのクロシェットの絶叫に、何人かの表情が変わった。ダニエロと隣にいたアリーチェも、何かに気付いたように驚愕に瞳を揺らす。
「お願いよ――信じてあげて。相手はあなたに頼られたって、迷惑なんて思わないわ。ううん、ようやくあなたに届いたって、きっと安心する。あなたを助けられることを、誇りに思える。うんと――優しくなれると思う。だって、あたしは知ってる。知ってるのよ――。だってあたしは――恋を知るために、生み出された精霊なんだから!!」
「……クロシェット様……」
エレノアは、クロシェットを見つめたまま沈黙する。
頭の中が空っぽになってしまったように、何も言葉が浮かばない。ただひとつ、すうっとその中に落ちてきた想いがあって、それだけはなぜかすんなりと受け入れられた。
(……ああ、そっか……。やっぱり、そうだったのね……)
だがそれ以外には、何も浮かばない。
与えられているのは、その名を口にするか否かの二択だけ――。
それなのに、なんのためにそれを告げるのかさえわからなくなって、意義を失って、自分の存在さえ空っぽになっていく心地だった。
もう誰も何も言わない。
どうしていいのかわからない。何をしていたのか、何をするべきだったのかもわからない。
ただ視界の真ん中にある、ピンク色の精霊の少女の顔だけが認識できる。
(……クロシェット様)
自分の幼い、夢心地の恋心を看取り、葬送してくれたはずの。今ここには、絵本や童話のように、キスで目覚めさせてくれる王子様はいないのに。
自分で目覚めるお姫様なんて――と思ったが、そもそも自分はお姫様ではなかった。精霊のお妃様の生まれ変わりでもなかった。
ただ――自分は、代々トルテュフォレ城の家令を務めてきた、レコンフォール家の娘であるというだけだ。たまたまその家に産まれた。その価値しかない。
それでも、いいのだろうか。
(信じて……)
それが、相手の想いに報いることになるのなら。
たとえ自分が報われずとも――。
(いいのかな? ……おじいちゃん)
だが思い浮かんだのは祖父ではなく、空想の王子様でもない、別の顔だった。
エレノアの視線が、動く。ゆっくりと室内にあったすべての人間を辿り――最後に一度ぎゅっと目を閉じ、そのまぶたの中で弾ける光の流線が消えると、再び目を開いて大きく息を吸い込んだ。
「――お相手のお名前は、フェイリム。……フェイリム=クローマチェスト殿下です……」
吸い込んだ息の半分にも満たない声。しかしそれは、たしかに部屋中の人間の耳に届いた。
「エレノア――!」
ぱあっと明らむクロシェットの声。
「ありがとう、エレノア」
「……いえ。お礼を言われるほどのことでは……」
「ううん――これはすごく、大事なことなのよ」
「……」
泣きそうな顔でほほえむエレノアに、クロシェットもその肩に戻って再び寄り添う。ヘンドリックも難しい顔をしていたが、そっと背に手を添えてくれた。
しかし、集められた人間たちはそうはいかない。
「フェ――フェイリム殿下って……殿下……!?」
「おいおい、本当に王子様かよ」
「お城って、やっぱりすごかったんだな」
あまりに遠い存在すぎて、逆に実感のない見学者や警備隊の人間、ギルバートらが先に反応する。反面、ダニエロやアリーチェは口を閉ざしたまま――何も答えなかった。
「――そうでしたか。お名前が言えない理由もよくわかりました。ありがとうございます」
ただ意図的に張った、ラヴィルの声だけがその話し合いの場の空気を保とうとする。
「グライムス大臣。ただの私的な日記の一ページを捏造するには、あまりに大きなお名前かと存じますが、どうお考えですか」
「……」
ダニエロはしばらくの沈黙ののち、固い声を喉から絞り出す。
「……ありえねえ」
「どういう意味でしょう」
「だから、ありえねえ。……俺はな、……騎士時代は近衛隊に所属していた。当時の隊長は、王国騎士団全体をも統べる、先王の実弟ライオネル大公殿下だった。……だから、二人の王子殿下のことも、多少は知っているつもりだ」
「それで?」
「フェイリム殿下が、手紙? ありえない。……殿下は非常に気難しく、寡黙で、人嫌いでもあられた。ゆくゆくは王位を継ぐべきお方であったのに、女性に見向きもなさらず、世継ぎをもうけることすらお考えになってはいなかった。先王と王妃陛下が知己でもあった隣国の王陛下とご相談なさって、それこそ赤子の頃から婚約を交わされていた姫君とお会いになる際も、いつからかまったく相手になさらず――結局姫君は一人でいらしたところを弟君のアレスティア殿下が偶然お声をかけられて。交流するうちに意気投合して、アレスティア殿下の婚約者に収まったんだぞ。それが――それがこんな辺境の、忘れられた城の名も無き女ただ一人に、手紙だと? しかも、ペンが――なんだって? ありえねえだろ」
なかば独白にも似た、ダニエロの答えが終わる。それと同時に、
「――もう結構です」
それまで誰も聞き覚えのなかった、しかしよく通る女の声が広間に響いた。
ハンナ=エスタシオン男爵夫人だった。
「もう結構です。訴えは主人に代わり、私が取り下げます。私が決めてよろしいんですよね。あなたたちも、お金が欲しいのならできる限り私が支払います。あとは好きにしてください」
「は――あ、いやそりゃあ、頂戴できるなら俺たちはそれで構いませんがね。しかし――旦那さんはよろしいのですか?」
ギルバートの問いに答えることなく、ハンナはそれまでずっと握りしめていたハンカチをテーブルに置くと、立ち上がる。
「皆様には主人がご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。ですがもう、私にもわかりました。この世界は、やはり私たちのような者がいてよい世界ではないのだと。私は私があるべき世界へ戻ろうと思います。誰の入れ知恵か知りませんが、口車に乗せられた主人が愚かだったのです。主人とは、離婚しようと思います」
「男爵夫人――」
「グライムス大臣様、ならびに法務省の皆様。領主であるガルニエ侯爵様、異国からはるばるいらしてくださった学者様。そして――エレノア=レコンフォール様。この度は本当に、申し訳ございませんでした」
ハンナは深々と頭を下げる。それは今までとは打って変わった、堂々とした立ち居振る舞いであった。
それを背後から見ていたクラウスが、ゆっくりと立ち上がる。先程までの子供じみた態度はもう微塵もなく、下げた頭を上げるよう、優しく肩を抱く。
「男爵夫人。幸いここには、専門家が大勢いらっしゃいます。お心を決めたのなら、これからの人生がより良いものであるよう、助力を乞いましょう。――僕もいずれ王都の大学に戻ります。どうか卒業の際には、講堂中に美しい花々を飾らせてください」
「クラウス様――はい、お約束いたします。誰に笑われようと蔑まれようと、私一人でも、もう一度王都にあの花畑をよみがえらせてみせます。そうしたら……そうしたら、あの子とあの子が選んだ娘さんの耳にも届くかもしれない。そのときまでに、私はもう一度、あの子たちに恥じない、胸を張れる母親になろうと思います」
「ハンナ様……」
エレノアが立ち上がれば、ハンナはもう一度頭を下げる。
それから、少しだけ気まずそうに――
「あの……もしよろしければ、お庭を拝見できませんでしょうか」
照れくさそうに、それを申し出てくれた。




