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「アーノルドさん?」
「あ……申し訳ありません」
黙り込んでしまったアーノルドを、アレスティアが不思議そうに見上げてくる。だがすぐに、その表情はやわらかい笑みに変わった。
「年上の方に言うのもためらわれますが、アーノルドさんはそのお城で、何か良い経験をなさってきたのですね。目が――以前よりずっと優しいです」
「はあ……そうでしょうか。そう仰られても、私にはあまり実感がないのですが」
「きっとこれから、日々の生活の中でわかってくると思いますよ」
そう自分の半分の年齢の王子に諭されるのも、なんとも情けない。だが……悪い気はしなかった。
アレスティアは椅子に深く座り直し、背を預けると天井を見ながら続ける。
「もしかしたら、兄もそうだったのでしょうか……。兄はもともと女性に興味を示さない人間だと思っていたのですが……案外、そうでもなかったのかもしれませんね」
「……それは……どういう?」
「その女性家令のお手紙です。僕でさえ、こんなに美しい言葉を美しくしたためる女性はどんな方だろう、どれほど美しい方だろうと思い耽ったくらいですから。兄は僕などよりはるかに感性の豊かな人間ですし、きっと――アーノルドさんの何かを変えたように、兄の何かも変わったのかもしれない、と」
「いえ、実際に会えば拍子抜けすると思いますが――実物はあなたよりも子供っぽく感情的で、口は達者ですが、イラーリア家の人間が担当する監査の最中にうたたねするような呑気な女性です」
「それは何といいますか――たくましい」
何がおかしいのか、アレスティアはそのフリルの折り重なった袖で口元を隠し、小刻みに肩を揺らしながらくすくすと笑う。むしろそのくらい図太くないと、一城を預かる大任は果たせないのかもしれない、とは少し擁護しておいた。
(しかし――そうか、フェイリム殿下と文通か……)
となると、やはりますますわからない。あの老獪な執事の言に従うなら、今まさに目の前に適任者がいるのだが、とアーノルドはうずたかく積まれた本に目を遣った。
「――室長」
「なんだね」
「我がイラーリア家の人間と、代々に渡り宮廷魔術師を務めてきた室長の血筋は非常に関係性が近しく、元をたどれば祖王の御代まで遡れるそうですが――それは間違いないのですよね」
「まあ真実かどうかは知れないが、両家ともに、始祖は祖王の従者であったと言い伝えられているのは間違いない。それこそ省が構築されるより遥か以前、王家の家政がそのまま国の運営と等しかった頃から、今と同じ仕事をしていたことは記録にもあるからな。とんだ腐れ縁だ」
「その腐れ縁で、一つお願いしたいことがあるのですが――レコンフォールという家の歴史を、探ってはいただけないでしょうか。監査に先立ち私も個人的に調査をしたのですが、彼女の――その女性家令の家にまつわる記載だけが、どうしても王家の資料の中から見つけ出せなかったのです。意図的にその名が消されたか、秘されていたとしか思えないほどに、どこにも。しかしお聞きのとおり、家として十分に成り立ち、王族と親交がありながら、そのような――」
「断る」
「は?」
話し終わる前から短く斬り捨てられ、アーノルドは口を開いたまま固まる。しかし同時に、こうなることは頭のどこかで予想がついていた気もした。
「いや……でしょうね。やはり腐っても性格や言葉に難があっても、あなたも宮廷魔術師という地位を守り続けている名家のご当主だったと再認識させられました。易々と引き受ける程度の人間には、辿り着けないとまで聞いていますから」
「言葉に難があるのは君の方だろう。しかし誰に何を言われたか知らんが、私にその話を持ってきたということは、相手も一癖二癖ある人間だろう」
「それは大いに」
ぱたりと本を閉じる音がして、椅子がきしむ音が続けて鳴る。そこで声の主が、ようやく本の山から姿を見せた。
引きずらんばかりに長い古木の色をしたフード付きのローブと、同じ色のマント。フリンジのくたびれた琥珀色のストールが肩から長く垂らされ、それらを木彫りや金細工の装飾品で留めている。この男の場合、髪まで長く濃い蜜色をしているから、フードをかぶると本当に樹木が蜜を滴らせながら歩いているように見える。
着こなしもだらしないのだが、奥方に叱られたり子供に嫌がられた後の数日だけは、上から下まで完璧にセットされた、いかにも〝宮廷魔術師〟にふさわしい姿で出てくるので、よく別人に間違えられる。
が、やはり数日で元に戻る――を繰り返している、アーノルドに言わせれば生活能力のない人間だった。
その美しい髪色を台無しにする、数日分の寝癖を重ねたようなぼさぼさ頭をかきながら、動く樹はアーノルドに歩み寄り、近くの本棚に寄りかかる。先の言葉のとおり、この頃は花蜜とともに過ごしているからか、壮年の無精ひげの男には似つかわしくない、甘い匂いがほのかに漂ってきた。
その樹に似た男がしゃべり始める。
「意図的に名が無いものにされていた――つまりこれは禁忌だ。個人的な付き合いはともかくとして、その家にはなんらかの意図や思惑が働いて、公には触れさせないようにしてあるのだろう。さしあたり思いつくのは――名そのものに何か力を持っていて口にするにも憚られる場合や、私たち魔力を扱える人間のように、その血統自体に特殊性や何らかの秘匿性がある場合、もしくは過去に王家との確執や謀反などの罪があって放逐された場合などだ。これは歴史的、人的な原因であるからまだいいが、前者二つのような場合は厄介だ。我々のような人間、特にまっとうな魔法使いや魔術師たちは、そういうものを暴くことを好まないのだよ。そっとしておいた方が、君にとってもその家にとっても幸いなことだと思うがね」
「……」
「もっとも――今の見方は多少悪意を持った見方をしている」
「……というと?」
「君がさっき、自分で口にしていただろう。私は今、渦の中心に建てた台の上で、悪意のありそうな方を俯瞰して物を言っている。では横を向けば? 逆を向けば? そういうことだよ。そして君が悩むほど、人の心は案外むずかしいものではない。書き物を見たまえ、何百年、何千年を経ろうと、人の本質はそう大きく変わるものではないだろう。暴いたところで、世界がひっくり返るほど大層なものが出てくるとは思えない」
「……」
アーノルドは小さく息を吐き、自らの席に戻ると四つ目の菓子を開ける。
だから魔法使いだの魔術師だのは苦手だ。両者の定義も知らないが、とにかく彼らが扱う知識、語る言葉はわずかに現実とずれていて、自分のものとは違う、異質なものだといつも感じる。
「……ならば……、イラーリア家について調べることは?」
「そんなもの、ご本家に伺って年寄りの話でも聞きたまえ」
「いえ……そうではなく。その年寄りとは、また違った方向を俯瞰して。おそらく……その、祖王の時代まで。たとえ……それが私にとって、不利益をもたらすものであったとしても」
「どうやら君は、いろいろと厄介なものを土産に持たされたようだね」
「――ああっ!?」
「――うわっ、ちょ、お前ら何やってんだよ!」
アーノルドと、階下から戻ってきたワーグテールが叫ぶのはほぼ同時だった。
まるで見えない小鳥でもいたかのように樹が人差し指を宙に差し出すと、アーノルドの机の上に伏せられていた手紙にぽっと火がともった。それは中心から四隅に広がり斜に十字を切ると、ぶわりと燃え上がる。
「水、水!」
ワーグテールが持ってきたコップと水差しの水をぶちまけ、それらが蒸発する音と白い煙、木の焦げる酸い臭いが一気に室内に広がる。
「熱っち! 窓開けろ窓!」
「殿下、お怪我などは。ハンカチを」
「僕は大丈夫です。でも……アーノルドさんのお洋服と机とお菓子は、大丈夫じゃなさそうですね」
見れば手紙は跡形もなく、机の表面は四角く焦げている。周りの書類や菓子も水浸しになってしまい、ついでに自分も巻き込まれて、どちらかといえば火よりも水の被害の方が大きいが仕方ない。
「――室長!」
「気にしなくていい。今年の冬、イラーリア家の暖炉の火が欠片ほど無くなるだけだ」
「そうではなく――何を考えているんだ、まったく!」
「そうだぞ、こんな紙と本しかねえところで火を点けるなんて! 下手すりゃ本当にアンダー・ザ・シームレス・スカイになるだろうが!」
「いやそれはそうなのだが、そうではなく――いや、もういい。ワーグテール、どこかに雑巾くらいはあっただろう」
「俺が拭くのかよー、って水まいたの俺か。しょうがねえなあ」
大きく肩を落とし、アーノルドは濡れた椅子に座ると胸ポケットから眼鏡拭きを取り出す。どうせ自分も濡れているからいいが、曇った眼鏡だけはどうにも気持ちが悪い。
「そのまま鏡を見たまえ、憑き物が落ちたような顔になっているぞ」
「それはもう、おかげさまで。どなたかの破天荒な行いのおかげで、一気にいろいろ吹き飛びましたから」
本当にどこかから布巾を持ち出してきたワーグテールが、机を片付けながらアレスティアの方を見遣る。
「それで、王子様までいつからここに? まったく、このろくでもない室長のおかげでとんだ悪童になっちまって。まあでもこんな騒々しいところへようこそ! 久しぶりにお顔を拝見できて嬉しいですよ」
「僕もです。ワーグテールさんもずっとお仕事だったのでしょう?」
「夏中は船の上でしたよ。そういえば殿下の方も、夏にはご婚約者の姫君がこちらにいらしていて、ご滞在中は随分と仲睦まじいご様子だったとか」
「いやだなあ、UTSSではそんなことまで情報収集しているのですか?」
「いやいや、噂を小耳に挟んだだけですよ。一時も側を離れず、王政派も市民議会派も二の句が継げない状態だったとか。平和的で、大変けっこうなことで」
「国も僕たちもこんな状態なのに、心変わりすることなく隣国からいらしてくれているのです。父王様もいろいろと心を砕いてくださって――無碍にはできません」
「殿下、それはお立場やお役目だけのご関係ですか?」
「ふふ、これ以上はご勘弁を」
この少年には珍しい、にこにことした純朴な笑顔。そこにかすかにのろけの気配を感じて、ワーグテールも悪戯そうに肩をすくめた。少年もまた、照れくさそうに話をそらす。
「あ――そういえば、お土産のお菓子もごちそうさまでした。クローマチェストには珍しい風味のお菓子で、美味しかったです」
「そう仰ってくれるのはあなただけですよ……まあでも、水浸しになる前に召し上がれたならよかった。……あ!」
それでワーグテールは思い出したように布巾を放り出すと、菓子を取り出した鞄からさらに小さな木箱を一つ、それから腰ベルトの鞄を探り、手のひらほどの包みを続けて取り出した。
そちらはやけに厳重に布と紐がぐるぐると巻かれ、商人たちが魔除けに使うハーブの絵が彫られた木札がくくりつけられている。アーノルドが怪訝そうにそれを見て留めると、ワーグテール自身も顔をしかめ、しっかりとその魔除けの木札を握るようにして、包みを室長に手渡した。
「室長には、まだ渡してなかったな。土産のなんか面白そうなからくりと、頼まれてた――〝女神の黒髪〟の標本だ」




