2-14
一人の女性士官が、慌てた様子で天幕の中から出てくる。
彼女の階級章を見るに、どうやら中佐の階級にある士官であるらしい。
女性の士官というのは珍しい。
軍隊とは、どこの国でも男社会だ。女性兵そのものが皆無に近く、一部王族など高貴な女性の傍近くに侍る女性兵がいるくらいである。
そんな中、戦場に出る女性兵など、よっぽどの例外だ。
ましてや、中佐の階級ともなれば、天然記念物のような存在であった。
彼女の名前は、クリスタ・ゲルラッハ。
武人らしく化粧っ気のない顔に、短く切り揃えた髪型、にもかかわらず、中々魅力的な外見をしている。
年齢は、今年で二十八歳になる。
男性であっても、彼女ぐらいの年齢で中佐というのは、やはり珍しい。
つくづく例外的な立ち位置にいる軍人であった。
もっとも、理由なく、その立場にいるわけではない。
彼女の家、ゲルラッハ家は、マクシミリアン家の家臣団の中でも筆頭格の家柄であり、その家格の影響力は、第五軍内では極めて高い。
……と言ってしまうと、家柄だけで出世したかのように聞こえてしまうが、勿論家柄も大きいのだが、しかし、最大の要因は彼女個人の資質にあった。
それは、ずいぶんと型破りな主君の面倒を、投げ出すことなくみることのできる、賞賛すべき忍耐力と、生真面目さであった。
ようは、マクシミリアン大将の副官というポジションを、彼女だけが務め上げることができたのである。
そのゲルラッハ中佐は、どうやら先に天幕を出たマクシミリアン大将を追いかけているようであった。
足早に、目的の人物の斜め後ろまで近付くと、咎めるような声を上げる。
「閣下、先程の振る舞いは、一体どういう御つもりですか?」
「どう、とは? 何か、問題があったかね?」
自らの副官に詰問口調で問われたマクシミリアン大将は、とぼけた口調でそのように尋ね返した。
「問題だらけです」
眦をきつくしながら断定するゲルラッハ中佐。
「そうかね。しかし、どこに問題があったのやら」
「……本当に分からないとでも?」
ゲルラッハ中佐の口から、低い声が出る。
まるで息子を叱る母親の図を見ているかのようだが、年齢でいえば、むしろゲルラッハ中佐の方が娘でもおかしくないだけに、傍から見れば異様な光景である。
思わずといった具合に、周囲に人がいないか確認するゲルラッハ中佐。
そして押し殺した声で囁く。
「何故、あの軍監の戯言を後押しされたのですか。……いえ、あの場を収めるためなのでしょうが。しかし、それならそれで、自らお引き受けなさいませ。あのように、レグーラ大将に押し付けてしまっては……」
「ああ、そんなことか」
自らの苦言あるいは忠言を、そんなこと呼ばわりされ、むすっとした表情になるゲルラッハ中佐。
思わず声を上げそうになるのを、マクシミリアン大将の手が制した。
「クリスタ、お前まで、私の本当の意図を読めずにどうする」
「…………どういうことでしょう?」
いつになく真剣な声音に、話の先を促すゲルラッハ中佐。
「嫌な予感がする、と言ったのは、戯言でもなければ冗談でもない」
「…………」
「根拠は無いが、このままではマズイ気がするのだよ」
「……閣下が真剣に言っているのは分りました。しかし、そのような感覚的なもので、軍の方針を定めるのはやはり、如何なものかと……」
控え目な声で、そう言い募るゲルラッハ中佐。
それに対して、マクシミリアン大将はゆっくりと首を横に振った。
「あのフーバー大将を破った相手だぞ。警戒して、し過ぎるということは無い」
「そう……ですね。しかし、そうなると、それはそれで問題が……」
「うん? 何だ、何の問題がある?」
今度はとぼけた口調ではなく、心底疑問を感じたといった様子のマクシミリアン大将。
「あ、いえ、それは……」
「何だ、歯切れの悪い」
「……………………」
言い淀むゲルラッハ中佐に、訝しげな表情を深めるマクシミリアン大将。
ゲルラッハ中佐は、暫し沈黙するものの、最早黙秘することはできぬと観念して、ポツリ、ポツリと、その懸念を伝える。
「形だけでなく、真実警戒する必要があるなら、それを、あの、……レグーラ大将に任せてしまって……」
『大丈夫でしょうか?』とは、声にならなかった。
「やれやれ、やはり見えておらぬな」
「見えていない……ですか?」
「この役目、豚殿以上の適任者はおらぬよ」
「はあ」
ゲルラッハ中佐は、今度こそ上官の言葉が本気のものかどうか、判じかねた。
故に、眉根を寄せながら、曖昧な返事しかできなかった。
「クリスタ、お前は、豚殿がただの無能な将軍だと思っているのか?」
「はっ、いや、決して…………」
『そうは思っていない』とは、続かなかった。
明らかな図星であった。
「確かに、まあ、豚殿個人の資質は、有能とは呼びにくい。しかし、一軍の将としては決して無能ではない。奴の不敗の軍歴が、それを証明しておるよ」
マクシミリアン大将が言う通り、レグーラ大将は第六軍の軍団長に就任して以来十年間、不敗を誇る将軍であった。
戦に百戦百勝とはいかぬもの。実際マクシミリアン大将や、ラザフォード大将も敗戦を喫したことがある。
だが、レグーラ大将は一度の敗戦も喫していない。もっとも、全てに勝利したわけでもないのだが……。
つまり、彼は“負けない”将軍であった。
「……確かにレグーラ大将が、不敗の将軍とは聞いています。しかし、他の将軍のような華々しい戦果を上げたとも聞きません」
例えば、二倍の兵力を有する敵軍を破って見せたなど、明らかに不利な戦況を覆したというような話を聞かない。
確かに不敗であることは誇れるべき事実だろう。しかし、ゲルラッハ中佐には、レグーラ大将が勝って当たり前な戦場しか経験していないように思われた。
「華々しい勝利……か。豚殿には似合わぬな」
そう言って、愉快げな笑みを浮かべるマクシミリアン大将。
「奴は生来、軍人とは思えぬ臆病な気質でなぁ。その上、全く自信が無い。奴は自分の能力が高くないことを、よく自覚しておる」
内容は小馬鹿にしたそれだが、その声音はむしろ、真逆の色を浮かべていた。
「しかしそれ故に、奴は不敗の将軍なのだ。奴は決して無理はしない。慎重に、慎重に、石橋を叩きながら、最も安全な戦をする」
その人物評は的を得たものだった。
レグーラ大将とは、まさしくそのような将軍であった。
劣勢の敵と対峙しても決して油断せず、熟考に熟考を重ねた上で、逆転の芽を摘んでいく。
そうやって、確実な勝利を求める。
優勢の敵と対峙した時は、退くことを恐れない。あるいは、優勢な敵とまともに戦うことを恐れているだけかもしれないが……。
兎も角、そのような場合、遅滞戦闘に努め、友軍の援軍を待って反攻に出る。友軍がいなければ、迷わず退却する。
決して、それを打ち破って見せようといった、英雄願望は抱かない。
そんな堅実を絵に描いたような将軍、それがレグーラ大将であった。
「奴以上に“負けない”将軍を俺は知らぬ。あれは、あれで、七将家の当主に相応しい名将なのだ」
マクシミリアン大将の言に、ゲルラッハ中佐は唖然とする。
普段、豚殿、豚殿と小馬鹿にしているのに、まさか、それほどまでにレグーラ大将のことを評価していたとは!
「閣下の言、ようやく得心いたしました。レグーラ大将を見誤っていた己の見識の浅さを猛省します」
恥じ入った様子を見せるゲルラッハ中佐。
「クリスタが見誤るのも詮無きことよ。何せ、普段の豚殿が、あのような体たらくではなぁ!」
そう言って、マクシミリアン大将は最後に愉快げに大笑したのだった。
****
蒼穹に響く喇叭の音。
その音色と共に、押し寄せていた人波が、引き潮の様に引いていく。
陣内からは歓声が起こる。
私はその声を尻目に、ここ最近見慣れた光景を無感動に見送った。
野戦築城した防御陣地にて、マグナ王国軍と対峙すること早一週間。
マグナ王国軍は、あの手この手と、手法を変えながら突破口を見出そうと試しているが、その事如くが、徒労に終わっていた。
もっとも、力押しの愚は弁えているようで、大した損害を出してはいない。
現在戦況は膠着状態にあった。
マグナ王国軍が、散発的に新しい手管で攻城を試みるが、それ以外では睨み合いが続いている。
そう、まさしく、私の狙い通りに。
「やあやあ、リルカマウスちゃん。また、悪巧みしてそうな顔だね」
「……人聞きが悪いですね、殿下」
「うん? いやいや、だって本当のことだろう?」
「名誉棄損で訴えますよ」
「おお、怖い、怖い」
私がジト目でコンラートの顔を見ると、奴は大仰な仕草で肩を竦めて見せた。
全く、この道化師め。
「冗談はさておき、君の筋書き通り、事態は進んでいると見てよいかな?」
「ええ、恐らくは」
真剣味を帯びたコンラートの声に頷く。
この野戦築城という、念入りの防御陣地の構築。
この世界では変則的なやり方ではあるものの、いわゆる籠城戦こそが、我々の戦略方針であると、敵軍は思い込んでいるに違いない。
つまり、堅く守りに入った上での長期戦を展開し、敵が根気負けするまで、粘りに粘り続ける。
そんな、弱者にとってのオーソドックスともいえる戦略。
しかし、我々の戦略方針は別にある。
それは、今回の戦を乗り切れば良いといったものではない。
そう、籠城戦の果てに、敵遠征軍が退いたとして何になる?
今回の遠征をなんとか凌いでも、一時の時間稼ぎにしかならない。
再び出征の準備を整えたマグナ王国軍が、再度遠征軍を派遣してくる恐れは残る。
というより、その可能性が高い。
そう、ハインリヒ王が領土的野心を捨て去らない限り、再度戦が起きるだろう。
さらに、元王太子コンラートの存在もある。
ハインリヒ王にとって、コンラートの生存を許すわけにはいかないはずだ。
やっぱり、マグナ王国軍の再侵攻の恐れは消えない。
ならば、我々の目的は、敵遠征軍の撃滅となる。
再侵攻の為の戦力を喪失させる。それが、最低条件となる。
さらに欲を出せば、その戦勝の勢いを駆って、マグナ王国の諸勢力をコンラートに寝返らせる。
それができれば言うことは無い。
ハインリヒ王の支配は盤石ではない。
遠征軍に大勝すれば、決して夢物語ではないはずだ。
そして、そのための仕込みは、既に終えている。
マグナ王国軍は、それから逃れることができるだろうか?
難しい……はずだ。
彼らの意識は最前線に釘つけとなっている。そう、いかにして、野戦築城を打ち破るかということに。
また、これまでずっとマグナ王国軍が攻勢をかけ、アルルニア諸侯軍が守勢に回るという戦況が続いている。
ならば、意識の切り替えも容易ではない。
彼らは、こちらをいかに攻めるかという思考から離れられない。
……いける。私たちは勝てるはずだ。
私は自分自身にそう言い聞かせる。
そうしなければ、不安に飲み込まれそうであった。
だって、私なんかが、藤堂さんに……。
不意に鎌首をもたげる弱気。手を強く握り締めることで押し殺す。
「大丈夫だよ、リルカマウスちゃん。僕たちなら負けないさ」
暗い思考の海に浸かっていると、コンラートの気楽な声が聞こえてきた。
「……毎度、毎度、その能天気さは、どこからくるんですか?」
「できることは全てやった。なら、ぐじぐじ悩んでも仕方ないだろう?だったら、上手くいくものと、楽観的に考えた方がいい」
「そんなものですかね?」
「そんなものさ」
はあ、と一つ溜息をつく。
こいつの楽観主義は本当に羨ましい。
「……なるようになるさ、ケセラセラ」
私はボソリと、そんなことを呟いた。
「うん? 何だい、それは?」
「最高の開き直りの呪文です」
「へえ、面白いフレーズだな。うん、いいね。僕の座右の銘にしよう」
「勝手にして下さい」
私はもう一度、溜息を吐いた。
その吐息を、急に吹きつけた風がさらっていった。
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曇天の空。月明かりも届かない暗闇の中。
そんな中を蠢く集団があった。
「今宵の曇天は、我らにとっての好機。覚悟は良いか?」
その集団の指揮官と思われる男が、囁くように言った。
その声は小さなものであったが、静まり返った闇夜の中ではよく通った。
その声を聞いた男たちが、決意を胸に目を爛々とさせる。
緊張と興奮。その感情とは裏腹に、彼らは静かに頷く。その乗騎もまた、空気を読んだかの如く声一つ上げない。
「よし。いざ参るぞ」
部下の反応を見たその指揮官は、静かに号令をかけるや、乗騎を走らせる。
指揮官を先頭に、部下たちも後に続く。
彼らは静かに、闇夜の中に消えて行った。




