第68話 最高司令としての姿
「青年よ。勘違いを正しておこう。悪行も、高い地位も、意味などないのだよ」
ギルベルトの発言にイノは固まる。
意味はない……?
彼は何を言っているのか。
「不思議なことじゃが、この数年、数十年、幾度となく実権を持つ者が移り変わっていった。中には悪政を振るった者だっている。貴族達が悪事を働き、軍人が愚行を重ねる————そんな時代もあった」
特に戦争が始まってからは、帝国の政治、経済、治安、あらゆることが杜撰になっていた。
外敵に気を取られすぎて、帝国の中まで気が回らなかった。
その間に実権を握る貴族も軍の上層部も、幾度となく入れ替わったという話だ。
そのせいで、何人もの帝国の民が死に、厳しい生活を強いられてきた。
「————それでも、この国はなんとか前に進み続けている。皆が自分のできることを最大限に取り組むことでだ」
自分ができることを最大限にやる。
人はどこまでいっても人だ。
帝国の治安を維持することと戦争すること、この二つを両立することは難しい。
だからこそ、ギルベルトは選択した。
前に進むために、民草に苦労を背負わせることを。
「わしはこの国の闇を放置する。全ては、戦争に勝つためじゃ」
これでもかというほど突き詰めた現実主義。
何かを得るために、何かを犠牲にできる人間。
これが、帝国軍のトップに立つ者の姿。
「わしがあの男をあそこに置いているのは、彼奴の能力を最大限に活かせると思っているからじゃ。あの潔癖さ、ハングリー精神を持つ彼奴にとって、特別作戦を失敗させるということは許さないだろうからな」
ギルベルトはポーンをころころと手の中で転がす。
指す先が固まったのか、転がしていたのを止め、イノの陣地の方にそのポーンを進めた。
人を見極める力。
たとえテーリヒェンのような無能でも、その能力を見極め、最善の箇所に配置する。
これも、最高司令としての力である。
「だからわしは、あの男を昇格も降格もさせぬ、一生あの場所で能力を絞り尽くすつもりじゃ。奴隷のようにな」
「それで、何人が犠牲になってもか!」
ついにイノの感情が爆発した。
イノが右手でテーブルを叩き、その衝撃でチェスの駒が跳ねる。
もう我慢ができない。
体裁など知ったことか。
イノは思いの丈をギルベルトにぶつける。
「あんたらが今までしてきたことで、一体何人のエルステリア人が犠牲になったと思っているんだ!? 罪もない、軍人でもなんでもない人達に戦いを強いて、殺していることに何も思わないのか!? 人種が違うからか!? やはりあんた達は、エルステリア人を虫けらだと思って、奴隷のように思ってるんじゃないのか!?」
イノの大声が応接室に響いた。
使用人が騒ぎを聞きつけて入ってくるかと思ったが、そういうことは起きなかった。
ギルベルトはイノが怒声を浴びせても、特に反応を示さない。
ただ、自分のチェスの駒を一つ進めるだけであった。
「……あと八十三手で詰みじゃの」
イノは思わずチェス盤を見る。
チェス盤の様子はイノから見て、まだまだ中盤といったように見えていた。
この時点で勝ち筋が分かっているのか。
一体何手先まで見通しているのか、このご老人は。
「これ以上は打ってもつまらんのう。話も終わりとするか」
「ま、待ってください! どうして————」
話を切り上げようとしたギルベルトをイノは必死に止める。
まだ話は終わっていない。
こんなところで、終わらせるわけにはいかないのだ。
しかし、ギルベルトは冷めた目でイノを見ていた。
「勝つ気がない打ち方をしている者に、これ以上付き合いたいとは思わないのう。本音を話したいとも思わん」
イノは驚愕する。
バレていたのか、自分の打ち方が。
確かに、イノは話を長引かせるために、なるべく長期戦になるような打ち方をしていた。
万が一でも勝ってはならないと思い、負ける戦いをしていたのだ。
それを彼は見破っていた。
「青年よ。包み隠さず話したまえ。その懐にある不満と願望を」
ギルベルトは役目を終えた駒を元に戻しながら、イノに告げる。
最初からイノが本音で話していないことも分かっていたのだろうか。
イノは拳を握りしめる。
心を決めなければならなかった。
これ以上、取り繕うのはやめだ。
もう言ってやる。
不平不満も、奥底にある真の要求も。