第66話 ニューロリフトの豪邸
そこにあったのは豪邸だった。
のどかな風景の中に、他を圧するがごとき豪勢なお屋敷が建っている。
頑丈な鉄の扉から中に入ると、正面に花火のように舞い上がる噴水。
その奥には高級感のある模様と光沢を持つ、大理石で作られた立派な建物がそびえ立っているのだ。
誰が見ても圧倒される。
あまりの迫力に呆けている間に、ヴィルヘルムに連れられて豪邸の中に案内された。
入り口から中に入り、まず最初に行われたのはボディチェックだった。
イノは面食らった。
考えてみれば、この国の要人が住む家なので当たり前と言えば当たり前なのだ。
しかし、身体検査など生まれて今までされたことがなかっただけに、イノの体は強張りっぱなしだった。
改めて、今回ばかりは作業服じゃなくてよかったと心底思う。
元々は背広の下に作業服を着ていたのだが、アディに無理やり剥がされたのだ。
ボディチェックの最中に中から薄鈍色の作業服が出てきた日には、流石にうまく言い訳できる自信がなかった。
こういう高貴な場所の作法も振る舞い方も分からないまま、イノは応接室のようなところに連れてかれた。
この部屋もまた大層豪華なもので、大理石でできた壁と床、そこに華やかな絵や彫刻が飾られている。
真っ赤な敷物の上には、一目で分かるくらい高級感のあるソファが置いてあった。
「では、父上を呼んでくるよ」
イノを案内した後、ヴィルヘルムは部屋を出ていった。
豪華な部屋に一人取り残される。
もう一つ胸を撫で下ろしたのは、ルビアに会わなかったことだ。
彼女もニューロリフトの人間なのだから、ここに住んでいるはずである。
だが、こんなところで会って一体何を話すというのだ。
ただでさえクルトさんが旅立った日から、ルビアとは顔を合わせていない。
気まずいにも程がある。
なんでここにいるんだと問い詰められたら、どう弁明すればいいのだ。
それを回避できたのは僥倖だった。
何はともあれ、これが最大のチャンスだ。
帝国軍の最高司令を説得することができれば、テーリヒェンを落とすことなど容易だ。
何よりも効果的な一手だろう。
だからこそ、なんとしてでもこの交渉を成功させなければならない。
口はうまくないが、頭は回る。
ルビアのお父さんが理知的な人であれば、話はわかってくれるはずだ。
イノが心を決めていると、応接室のドアが開いた。
反射的に座っていたソファから立ち上がる。
扉の方を見てみると、そこには壮年の男が立っていた。
赤髪と碧眼をもつその男は、ゆったりとした歩みでイノに近づく。
「よく来てくれたな、青年」
帝国軍最高司令、公爵家ニューロリフトの現当主。
ギルベルト・アマデウス・ニューロリフト。
その人であった。
「お会いできて光栄です」
ギルベルトとイノは自然と腕を差し出し、握手を交わす。
敬意の言葉は口から思わず出た。
それくらいのオーラが彼にはある。
「ほっほっほ、こんな年寄りにそんな声をかけてくれるとは」
ギルベルトは謙遜するようなことを言う。
帝国の最も苦しい時期、いや————
その遥か昔からこうなることを予期し、軍事国家となる帝国を支え続けた第一人者。
彼こそが英雄と謳われるべき存在である。
交渉相手という前に、敬わなければならない人だ。
「まあ座ってくれたまえ」
ギルベルトはイノに座るように促す。
イノが腰を下ろすのを確認すると、ギルベルトもゆったりとソファに体を預ける。
「君とは一度、話をしてみたいと思っていたのだよ」
「……そうなのですか」
イノの存在は、この国の事実上のトップにも知られているらしい。
いい噂ではない、と思った方がいいだろうな。
イノは生唾をごくりと飲む。
「それで、ゆっくりと話がしたいと思っているのだが、こんな老人とただ面と向かって話していても進まないじゃろう」
世代が違えば話も合わんじゃろうしな、とギルベルトはおどけたように言う。
そんなことはないと思うが……
「そこでじゃ————」
すると、ギルベルトは合図をして使用人に何かを持ってこさせた。
正方形の木の板に、白と黒、それぞれ十六個の小さい駒。
それはチェスだった。
使用人がイノとギルベルトの間のテーブルに、チェスの準備を進めていく。
「年寄りの遊びに付き合ってはくれぬか?」
「……!」
これは……試されているのか。
ルビアも言っていたが、チェスはニューロリフト家のお家芸だ。
その凄まじい洞察力で帝国を救ってきた最高司令、そんな人物にチェスの対戦を申し込まれるなど滅多にあることじゃなかった。
今から交渉しようという相手の提案を呑まないわけにもいかない。
このチェスでどれだけ上手く立ち回るか。
もし惨敗し、早く局が終わってしまえば、その時点で話も終わりになってしまうだろう。
いかに交渉を続けられるか、イノがギルベルトのチェスにどれだけ食いつけるか。
これが鍵だった。
「よろしくお願いします」
断る選択肢は、存在しなかった。
ギルベルトはニコッと笑い、鷹揚に頷いていた。