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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第一章  記憶より微量の何か
3/59

☆ 雪の記憶


 ピアノ曲が終わった。


「そうだ、タチバナさん、何か頼みませんか?」


 ぼくは大きく体をひねり、テーブルの端にあったメニューを引き寄せた。


「たとえば、これ。この《ユートピアの夕暮れ》はまろやかな酸味のホットオレンジジュース。《エーゲ海のくらげ》はレモンゼリー入りの冷たいレモネード。他にもいろいろ、ほら、こんなに」


「ありがとうございます。でも、まだほんの少ししか飲んでなくて……」


 彼女は少し俯くと、テーブルの上に目を向けた。そこには彼女がここに現れたときに手に持っていた缶飲料があった。白地に青い唐草模様。たぶんミルクティーだ。けれど彼女はすぐに明るい表情を浮かべてメニューを手に取ると、目をぱちぱちさせた。


「どれも不思議な名前ですね」


「だろう? 実は、いまだに何が何だかよくわからないものがいっぱいあるんだ。ただ、今のところひとつも外れはなかった。 よかったら君もどう? もちろんぼくがごちそうするよ」

 

「ユウキさん、これは何でしょう?」彼女はメニューの一角を指差した。


「それはね、いわゆる日替わりランチなんだ」


「もしかして、パスタですか?」


「そのとおり。もし昼ごはんがまだならどう? 今日は日曜日だから《ローマの休日》。ローマなのにナポリタンなんだけど、あなどれないから、ぜひ」


「それが…… お好み焼きを食べたばかりなんです…… 」


 彼女は頬を染めて桜色の唇を優しく結び、長い睫毛を揺らして恥ずかしそうに目を伏せた。不覚にも、ぼくは彼女のその姿に胸が熱くなってしまった。心臓が勝手に大きくドクンドクンと波打ち、どぎまぎして顔まで熱くなり、我を忘れ、つい口が先走った。

  

「タチバナさんはとても素敵な方ですね。初対面のぼくにだってわかります。周りの人にもそう言われるでしょう」


 彼女は「えっ」と小さく叫んでぼくを見上げた。


「いいえ、誰もそんなことは。それに……」


 彼女の声は明らかに動揺していたのに、ぼくは「本当かな?」と軽く返してしまった。


「わたしは…… 暗いってよく言われます」


「君が?」


 意外だった。


「明るく振る舞うのが苦手なんです。友達も少なくて、好きな人とも今はもうほとんど話もしてなくて」


 彼女は手にしていたメニューを丁寧にテーブルに戻すと、下を向いた。透明な雫が滴り落ちて、純白のスカーフを濡らした。

 

 ゴォーッ――――

    

 窓の外で風が()えた。何かに怯えるように、彼女はそっと顔を上げた。一瞬、ぼくと目が合ったが、すぐに顔を横に向けた。その物言いたげな視線は石積みの壁に穿(うが)たれた窓に吸い込まれた。正方形の窓は、荒れ狂う吹雪に征服された真っ白な世界をぼくたちに見せつけ、冷たい光を放った。


 彼女は左手を挙げて、頬にかかる横髪を耳に掛けた。二重の窓ガラスに濾過された純粋な光に彼女の横顔が浮かび上がった。その光は真っ白な大理石を洗うように額から耳へ、頬から顎、首筋から彼女の胸元へと流れ込んだ。甘美な凹凸をしなやかに際立たせて。


 ふと、気付いた。彼女の左耳、その柔らかそうなふくらみに、ハート型の小さなほくろがあることに。確か、あの人の左耳にも―――


  ハッとして、彼女の横顔に目を凝らした。

 

 どことなく愛嬌のある丸くて人なつっこい鼻の先端。けれどまっすぐでひたむきな意志を感じさせる鼻梁には鋭利な光が宿り、優しいふくらみを帯びた薔薇色の頬はなぜかミステリアスな冷たい色を秘め、目許から額へ抜ける輪郭は聡明な弧を描く。耳から顎のラインはすっきりと涼しげで、キラリと光って凛々しく結ばれているのに、しっとりと濃い桜色に濡れる唇。そのふくらみはふくよかに潤い、触れたらとろりと溶けてしまいそうだ。

 瞳は窓の光を受けて天真爛漫に輝いている。明るく輝いているのに、ああ それなのに、まぶたのふちには暗い深淵をみつめるメランコリックな陰りが見えて、長い睫毛が寂しげに揺れていた。


 またも胸がドクンと鳴った。彼女のそれらすべての特徴は、そのすべてが、あの人そのものだった。



 間違いない。この人は、あの人なのだ――――


 いや、そんなことはない。絶対にない。それは誰よりもこのぼくが知っている。それに…… そもそも最初から何かおかしくないか?


 ぼくは彼女の足元に注意深く目を注いだ。丸い爪先をこちら向きにきちんと揃えた黒のローファー。甲革はよく磨かれていて、くるぶしを覆う白いソックスにも汚れや濡れた色目は見当たらない。目の細かい綾織りの、おそらくウールサージのスカートはアイロンを当てたばかりのようなプリーツ。


 念のため、他もチェックした。濃紺の袖も、襟も、肩口も、ブラシをかけたばかりのように清々しい。真っ白なスカーフは左右の胸に均等に弧を描いて上品な光沢を放ち、胸の中心に咲く花のような結び目はふっくらと織り上げたばかりの白絹を思わせた。 


 それらのどこにも、崩れも、不自然な皺も、水濡れも、ほつれも、毛羽立ちも、そんなものは何一つ見当たらなかった。


 そんなはずはない――


 強烈な違和感が胸元にせり上がってきた、まさにその時、彼女は顔をこちらに向けた。


「ユウキさん。冬はまだ始まったばかりなのに……」


「そうなんだ。これが初雪だなんて信じられないだろう?」


「はい。わたし、初めて知りました。こんなにたくさん雪が降る所が尾道(おのみち)にあるなんて」








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