☆ 母なる大地
「たとえば、こんな主張を聞いたら君はどう思う? 『神が命じたから人を殺した。実に誇らしい』『人を殺したのは太陽のせい。私は悪くない』『人を殺したのは世界で一番理性的な我らの指導者の判断に従っただけだ。私に罪はない』――」
「何かの冗談なの?」
「確かにどれも冗談みたいだ。けれど、彼らは本気だ」
「いいえ、本気じゃないと思う。本気でそんなこと言えるはずないから」
「自分にとって都合の悪いことは全部自分以外の何かのせいにしてしまえば何の問題もない。彼らは本気でそう思っている。自分が他の人々に対して与える痛みや苦しみ。それらは決して自分のせいではないと。どの主張も『人が人を人として認めない』という事実から目をそらすための言い逃れなんだ。自分たちがしていることは決して善ではないと自覚しているからこそ言い逃れをするんだろうけど」
「自分がしたことを誰かのせいにしても恥ずかしくないのかな」
「そう。もっと言えば、彼らにとっては命を奪われたり騙されたり盗まれたり暴力を振るわれたりした人々の痛みも苦しみも辛さも無念も、そんなものは己の主張を押し通して相手の意見を封じ込めるための道具程度でしかない。彼らは人が互いに尊重し合うために自分を含めた人間どうしが互いにすべきことを主張しているわけではないし、人間を苦しめる人間の行いをなくすために自分がどうあるべきかを深く考えるために声を上げているのでもない。むしろ彼らはそんなことには興味も関心もないんだ。神の存在と不在を口実に自分たちの都合を相手に押しつけたいだけだから。別の言い方をすれば、彼らは人間を無視しながら人間のことを口にする偽善者。それと同じなんだ。『神がなければ、すべてが許される』なんて、ただの詭弁。だから『神がなければ、すべてが許されるかどうか』なんて、いくら考えても何の意味もない」
「本当に何の意味もないの?」
「彼らが今まで何を言ってきたかではなく、彼らが実際にしてきたことを知ったら君も気付くと思う」
「実際にしてきたこと…… きっとまだ知らないことがたくさんあるのね」
「僕にもまだ知らないことがいっぱいある。とても気になるし、知りたい。でも、僕にはそれよりもっと気になることがあるんだ」
「どんなこと?」
「神って一言で言うけれど、神にはいくつかの種類が、少なくとも二種類の神があると僕は思う」
「ふーん。どんな神様なの?」
「ひとつめの神は言葉を喋らない神。この神は人間の言葉を一切、何ひとつ話さないんだ。たとえばこの物語にも登場する『母なる大地』という神。ひょっとしたらこの物語で最も重要なのはこの神なのかもしれない。黙って人間を抱きしめる地母神というか、僕たちが立っている土地そのものというか。そのほかにも森の神とか山の神とか。イメージできる?」
「ええ、だいじょうぶ」
「ふたつめの神は、あらゆる言葉を喋る神。この神は言葉によって人間にあらゆることを命令するんだ。つまり唯一絶対の全能の神。さっき言ってた『神がなければ~』の神だけど……」
「わかる」
「よかった。で、問題はここからなんだ。人間はあらゆる言葉を作ることができる。僕も含めて。君も」
「あらゆる言葉って?」
「たとえば人を動かすための言葉や表現。毎日使っているし、必要があれば新しく作り出している」
「そうね」
「本当はこんなこと言いたくないけど、人は、時に神の言葉として人間の言葉を人々に与えることがある。あらゆる言葉を喋ってあらゆることを人間に命令する神の言葉を人間が作って、それを人々に与えている。君はそう感じたことはない?」
「人が神様のふりをするってこと?」
「喋る神様のふりをしているんだ。人間が」
「なんだか怖い」
「とても怖い。信じられないかもしれないけど、もっと恐ろしいことを言えば、〝神は存在しない〟と主張する人たちが崇拝する〝神〟すら存在する」
「どういうこと?」
「上手に隠されているからほとんどの人はそれが神だとは思わないし気付かない。〝神は存在しない〟という主張に隠れているのは、唯一絶対の神を絶対的に否定する別の唯一絶対。その正体は『神は絶対に存在しない』という教義を信仰する人たちが作り上げた新しい『唯一絶対の神』なんだ。さっき君が言ってた『神を否定している人でも神を忘れられない』というのは、まさにこのことなんだ」
「……」
「でも、心ある人は決して忘れない。神の名において、神の言葉を利用して今まで人間がしてきたことを。そして神を絶対に否定する人たちがしてきたことも」
「現実はそうなのかもしれない。人は、人に残酷なことをたくさんしてきたから。そういう事実があることはわたしも知っているから」
「理由さえあれば人は人に残酷になれる。自分が信じるものだけが正しいと言い張れば、言葉は他のものすべてを否定するための道具になってしまう。他の何かを信じる人たちを襲う凶器になってしまうんだ、目を抉るナイフのように」
「わたしも聞いたことがあるの、そんな言葉を。だからよくわかる。人が人を人として認めない言葉はとても怖いから。でも……」
「でも?」
「それでもわたしはすべての人を信じたいの」
「すべての人を信じるだって? すべての人と言っても、いろいろな人がいるよ」
「神様がいてもいなくても、信じる神様が違っていても、信じているのがどんな神様でも、神様を信じていなくても、人は人の言葉と人の手で人を大切にすることができると信じたいの」
「言葉と手?」
「人は、自分を大切にしてくれた人の言葉と手のぬくもりをいつまでも忘れないで大事に持ち続けていると信じたいの。人は、きっとそういうものさえあれば助け合って生きていけると思うから」
「そうれはそうかもしれないけれど、それは……」
「うん、わかってる。そんなの綺麗事だってわかってる。でもわたしは思うの。たとえ自分を大切にしてくれた人の言葉やぬくもりを覚えていなくても、たとえ自分で自分を救う言葉をみつけることができなくても、人は自分のぬくもりを人と分け合うことができるって。
わたしは現実をあまり知らない。だからこんなことを言えるのかもしれない。それは自分でもよくわかってる。けれど……世界は少しずつ変わっていると思うから。もし人を救う神様がいらっしゃるなら、神様も少しずつ変わっていると思う」
「……」
「神様は天にいて遠くからわたしたちをご覧になっているのかもしれないし、誰かの心の中にいるのかもしれない。けれど人が人を慈しむあたたかな言葉と手のぬくもりの中にはいつも必ずいらしてくださるから」
「人と人の間? 神がそんなところに?」
「そうなの。神様はいつも人と人とのあたたかなぬくもりの中にいらしてくださる。だから人は何も怖れることはない――― 裕樹くん、わたしはいつもそう思っているの」
―――――――
――――――
目が覚めると、見慣れた青いカーテンの隙間から二本の真っ白な光線が差し込んでいた。
二本の細い光線は小刻みに震えていた。硬く凍った部屋の空気が明るく溶けて光が強くなり、音叉を当てたように寝台が震え始め、音楽のようなものが聞こえてきた。僕は耳を澄ませた。
フルートとハープの二重奏だった。ふたつの楽器は哀しげに言葉を交わしていた。
「あの指輪はどこへいったのだろう」とフルートが低い声で問うた。
「深い泉の底へ消えてしまったのです。もう二度と見ることのできない場所へ」とハープが答えた。暗い泉を思わせる声で。
・挿入曲:フォーレ作曲 組曲ペレアスとメリザンド