☆ 鼓動
当然、ぼくの顔から血の気が失せたことに気付いたはずだ。なのに彼女の穏やかな視線には何の変化もなかった。
「そんなことあったかな。ぼくは覚えていないけど。忘れてしまったのかな」
そうではない。彼女が言ったとおりなのだ。人は愛すべき存在―― それは司祭だった優しい祖父がとても大切にしていた言葉だった。もちろんあの頃のぼくにとっても。
「ユウキさんは今、どんな小説を読んでいるんですか? ユウキくんは時々SF小説を楽しそうに紹介してくれるんです」
彼女はこちらの動揺にまったく気付いてないのだろうか。ぼくの足元のバベルの塔はぐらぐら揺れて今にも崩れてしまいそうなのに。
「SF小説? いろいろと偶然が重なるね」
「偶然、ですか?」
「いや、なんでもない。SFはぼくも好きなんだけど、古い恋愛小説も好きなんだ。たとえば」
ぼくは床に置いたザックから古い文庫本を引っ張り出した。中学生の頃から読み続けてきたのでいくぶん擦れてはいるが、表紙には赤と黒の二色で描かれた人物の顔がはっきり見える。
「これなんだけど、久しぶりに読み返してみたんだ。古典的な恋愛小説だけど、知ってる?」
「はい。つい最近、図書館で借りて読んだばかりなんです。時間を忘れて」
「わかるよ。ぼくも時間を忘れて一気に読んだから」
「最初はいろいろな駆け引きに心を奪われていたんです。でも、駆け引きではない本当の恋の物語だってわかって夢中になって、気が付いたら夜が明けていて。最後はとても切なくて」
「そう、ため息がでるほど」
「もしかしたらユウキくんはもう読んでいるかもしれませんね。ユウキさん、どうなんですか? 読んでいたらきっと……」
彼女は語尾を濁し、テーブルの一点を見つめて黙りこんでしまった。
「タチバナさん、前から気になっていたんだけれど、君の言うユウキくんって誰のことなんだろう?」
「ユウキくんは、十七歳のユウキさんです」
なんでもないような言い方だった。だが、言い終わってキリッと結ばれた彼女の口許には反論を許さない強さがあった。彼女は大きなまばたきを二回すると、ぼくの目をじっと見て言った。
「高校生の頃、ユウキさんはいつ本を読んでいたんですか? ユウキくんはいつも夜遅くまで家の仕事を手伝って、朝は早く起きて青果市場でアルバイトをしています。放課後は毎日部活です。休みの日はほとんど山に登っていて、秋の終わりまではわたしも一緒に。今はユウキくん一人で……」
あの頃、確かにぼくは毎朝学校へ行く前に青果市場のアルバイトをしていた。だがそれは学校にも、もちろん同級生にも内緒にしていたのだ。あの人を除いては。
「君はいろいろなことを知っているんだね。でもね、、、、」
ぼくはいつのまにか言葉を失っていた。逃げるように床に目を泳がすと、彼女とぼくの黒い影がひとつに溶けあって絡みあうように離れがたく結びついていた。
「わたし、ユウキさんのときめきを聞いたことがあります。覚えていますか?」
彼女がそう言うと同時に、ぼくたちふたりの影は新しい生命を得たようにひらりと動いた。
「ぼくのときめき?」
目を、床から離せない。
「最初は海の見える公園で。夜、胸に耳を当てて……」
ああ…… まだ知らぬ何かを激しく求めたあの日の鼓動を、彼女は言っているのだ。
あの人と付き合い始めて間もない頃。その日も見晴らしのいい青いベンチに座って、好みの潮風の香りとか、学校から公園までの歩数と気分の関係とか、ぼくたちはたいして意味のない、なんでもないことばかり話していた。なんでもないことでもあの人と一緒なら特別なことのように思えた。
頬を撫でる海風。夕空は茜色から緩やかなグラデーションを描いて緑色に染まり、木々の梢は枯れ葉を散らしてひとしきりざわめいた。更に暗くなるとたくさんの島々の浮かぶ海は紫紺の僅かな光を残して風が止んだ。小さな公園はしんと静かになった。
瞬き始めたばかりの星が映る瞳。ぼくたちは不思議な力に引き寄せられるように互いの制服の胸に交互に耳を当てた。
この胸にそっと耳を当てるあの人。星明かりに濡れた滑らかな黒髪に手を触れると夜の帳は完全に降りて闇はさらに深まり、あの人の吐息のぬくもりにぼくの胸は熱く溶けた。ドクドクと激しく脈打つ高温高圧の魂――
永遠に続くように思えたふたりの夜。今もこの耳に残るあの日のあの人の胸の高鳴り。あたたかく柔らかな服地。しなやかな絹のスカーフ。甘く切なくときめく胸の香り……
……
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