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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第二章  胸に耳をあてて
12/59

☆ 鼓動



「わたし、ユウキさんのときめきを聞いたことがあります。覚えていますか?」


「ぼくのときめき?」


 目を、床から離せない。


「最初は海の見える公園で。夜、胸に耳を当てて」


 ふたりの影がひらりと動いて、新しい生命を得たように絡み合った。


 ああ…… まだ知らぬ何かを激しく求めたあの日の鼓動を、彼女は言っているのだ。


 あの人と付き合い始めて間もない頃。その日も見晴らしのいい青いベンチに座ってふたりの好みの潮風の香りとか、学校から公園までの歩数とその日の気分の関係とか、ぼくたちはたいして意味のない、なんでもないことばかり話していた。けれどなんでもないことでもあの人と一緒ならとても大切なことのように思えた。


 頬を撫でる海風。夕空は茜色から緩やかなグラデーションを描いて緑色に染まり、木々の梢は枯れ葉を散らしてひとしきりざわめいた。たくさんの島々の浮かぶ海は紫紺の僅かな光を残している。風が止んだ。小さな公園はしんと静かになった。

 瞬き始めたばかりの星が映る瞳。ぼくたちは不思議な力に引き寄せられるように互いの制服の胸に交互に耳を当てた。


 この胸にそっと耳を当てるあの人。白い襟足は星明かりに濡れ、滑らかな黒髪に手を触れると夜の(とばり)は完全に降りて闇はさらに深まり、あの人の吐息のぬくもりにぼくの胸は熱く溶けた。ドクドクと激しく脈打つ高温高圧の魂――


 永遠に続くように思えたふたりの夜。今もこの耳に残るあの日のあの人の胸の高鳴り。柔らかなウールサージの服地。しなやかな絹のスカーフ。甘く切なくときめく胸の香り……




            ……

  ……

                     ……


            ……

  ……

                     ……

 

「……を、覚えていますか?」


 ぼくは返事もせず、焦点の合わないテーブルの表面をぼんやり眺めていた。


「二年生になって、席が隣になったことを覚えていますか?」


 二年生? ハッと我に返った。アオイの隣。確かに彼女の言うとおりだが。


「なんのことだろう」


「最初の席替えで隣どうしになって。でもユウキくんは窓辺で踊る小さなカエルをずっと見ていました。わたしが『何見てるの?』って聞いたら、ユウキくんはにっこり笑って『君もどう?』って、いつものようにポケットからレモン飴を出して。わたしが『ありがとう』って受け取ったらユウキくんは照れくさそうに笑って、雨に濡れて楽しそうに踊っているカエルの方をまた向いたんです。その仕草をかわいいなって思ってしまって。カエルではなくてユウキくんの……」


 忘れてはいない。彼女の言うとおりだ。あの時、ぼくはピョンピョン飛び跳ねるアマガエルをずっと眺めていた。胸はアオイのことで一杯だったのに。

 

「好きな人に見つめられたら誰だってどうしていいかわからなくなる……のかもしれないよ。だからかもしれないね」と、思わず支離滅裂な返事をしてしまった。


「そうですね」


 彼女は素直にぼくの言葉を受け入れたが、寂しそうに微笑むと顔を曇らせた。


「冬になって、ユウキくんはなんとなく冷たくなったような気がして…… 気のせいだったらいいんです。でも、気のせいではないような気もして……  こうして前みたいにふたりで話をしたいです。いろいろな話をして、にっこり笑って、手を繋いで歩くだけでいいんです」


 と言われても……  困惑が顔に出てしまったのが自分でもわかった。


「困らせてしまって、ごめんなさい」


 ぼくは反射的に首を横に振ったが、やはり確かめておかなければならない。


「タチバナさん。君は先週、ぼくが誰なのか一目でわかったよね」


「はい」


「なぜ? どうしてすぐにわかったんだろう」


「目の色が同じでしたから。それに……」


 彼女は純白のスカーフを抱きしめるように両手を胸にクロスさせた。


 ああ…… それは……    だが、単なる偶然かもしれない。


「先週、君は確か十七才だって言ってたよね。君の誕生日はいつだっけ?」


 少しとぼけてみた。


「わたしの誕生日は、同じ日です」


「同じ日?」


「ユウキさんと同じ五月三日です」


 目眩がした。


「じゃあ、君とぼくが初めて出会ったのは?」


「去年の秋でした。よく晴れた土曜日の午後、部室棟の前で。ユウキさんが転部してきた日です。初めて会ったのにわたしたち……」


 ああ、なんということだ。今起きていることは現実なのか? 頭に血が上って顔が熱くなり、こめかみの血流音にかき消されて彼女の声が聞こえない。

 喫茶室を見渡すと、マスターはいつものように深々とソファーに身を沈めていた。普段と何も変わらない光景――


「信じられない。夢を、ぼくは夢を見ているのだろうか。忘れようとしても忘れることができなかった君と話をしているなんて、どうしても信じられないんだ」


 夢でないことを祈る。夢なら覚めないでほしい。


「夢でもいいんです」


 彼女は物柔らかな眼差しをこちらに向けた。目の前にいる優しい目をした人はあの人そのものとしか思えなかった。むしろあの人と思う方が自然だ。十七才のタチバナ・アオイ。かつてぼくが高校生だった頃の恋人――


 だが、そんなことは絶対にない。十七才のアオイが目の前に現れるなんて何をどう考えてもあり得ないことなのだから。ぼくは幻を見ている。今ここが夢の中でないならば、目の前のタチバナ・アオイは幻。決して現実の人間ではない。

 

 ポッポー、ポッポー、ポッポ―


 中央の柱でハト時計が鳴いた。何かを思い出したように表情を変えた彼女は、左手首を返した。


「ユウキさん、時間になってしまいました」


「まさか、これから尾道へ?」


 彼女は口を固く結んでうなずいた。


「この雪の中を、どうやって?」


「空へ向かって思いっきり飛び出せばいいって『声』が教えてくれました。先週もそうしたんです」

 

 そんなことが……


 彼女は胸の前でもう一度左手首の内側をじっと見つめた。いつまでも見つめていた。

 心配になって「大丈夫?」と声を掛けた。彼女は「はい」と答えて笑顔を見せると、左手を軽くテーブルに触れて立ち上がった。そして何かを思うようにまぶたを閉じた。


 ほんのり湿り気を含む優しいウールの匂いがぼくを抱きしめるように包んだ。しっとりとした濃紺の服地の重みとぬくもりを感じた。触れてもいないのに。

 白く大きく膨らむ花のような結び目が目の前に静かに上下している。スカーフの豊かなドレープに覆われても決して隠すことのできない胸の起伏。彼女の上半身を秘める凜々しく誇らしげなセーラー服。その裾まわりのエッジは彼女を守る神聖な結界のように綺麗な円を描く。


 彼女のトルソーの最も引き締まる位置に始まる濃紺のスカート。目の細かい生地の表面をゆっくりなめらかに下降していくと、まぎれもない彼女自身の瑞々しい弾力と密度が内面に満ちてゆき、たおやかな丸みを帯びた頂点でプリーツの折り目を最も美しく際立たせて、春の太陽に照らされた青い滝のように晴れやかな放物線を描いて膝下へ向かう――


 それら制服の表面に現れた輪郭と陰影は、花が内から外へ咲き開くように奥行きと動勢を明らかにして、生まれながらにして命を育むあたたかな海を内包する存在の重みと尊い美しさを、どんな言葉より雄弁に語っていた。


 ああ、この人は…… この人は、決して夢でも幻でもないのだ…… 


 彼女は左手をテーブルから離してしばらく天井を見上げたが、再びテーブルに触れると黒く艶やかな天板を白い指先で愛おしそうに撫でた。天板が軽くキュッと鳴いた。


「ユウキさん。わたし、ここにまた来ることができるような気がするんです」


 彼女は夢でも幻でもない。――では誰なのか。なぜこんなにもあの人に似ているのか。いったいどこであの人の記憶を手に入れたのか―― わからない。何一つわからない。


「もしも…… もしも君にまた会えるなら…… タチバナさん、一つだけお願いがあるんだ」


 彼女はぼくの目をまっすぐ見つめた。


「この本をユウキくんに勧めてほしい。まだ読んでいないはずだから」


 彼女は黙ってうなずいた。ぼくは赤と黒の表紙を手に取って彼女に捧げた。彼女は微笑んだ。最後のマッチが燃え尽きてしまった少女の幸福な微笑み。まるで命と引き換えのような。なぜかそう思えてならなかった。


 彼女は本を胸に抱くとクルッと後ろを向いた。濃紺のスカートが夏の朝に咲く花のように開いた。甘く切ない香りがふわっと広がった。ぼくは頭の中が真っ白になった。声を出すことも立ち上がることもできない。


 彼女は床板を木琴のトレモロのように鳴らして遠ざかっていく。誰も知らない遠い世界へと誘う不思議な音楽。


 「さようなら」


 小さく手を振った彼女は静かにドアを閉めた。










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