☆ 光の記憶
ふっと空気が動いて、青く濡れる文字の群れがキラキラきらめいた。
カタンと床が鳴った。
スーッと左隣の椅子を引く気配。
まさか……
そっと息を吐きながらゆっくりと視線を左へ滑らせていく。視界に入ったのは白いタンブラーに添えられた白い手と細い指先。清楚な桜色の真珠を思わせる美しい爪。思わず息を呑み、ため息が漏れた。想定外だ……
いや、あれはタンブラーではない。街の自販機で見かけるような缶飲料。なぜここにあんなものを? 缶を握っているのは左手。左利きなのか?
油断することなく更に視線を左へ進める。手首の内側に小さな白い文字盤。黒革の細いベルトで留められ、青い秒針が時を刻んでいる。耳を澄ます。チチチチと微かな音が聞こえる。
白い手首を覆う幅広のカフス。濃紺のカフスには三本の白線が等間隔に巻かれ、濃紺の袖に沿って視線を上げると濃紺の襟が現れた。襟も三本の白線で縁取られて、左右の襟から真っ白なスカーフが豊かに胸にふくらみ、ふんわりと胸の真ん中に結ばれて静かに揺れていた。ぼくの左肘に触れそうなほど近くに。
隣に座ったのは高校生? 万年筆で文字を書く人間を生まれて初めて見たのか? もしそうなら気の済むまで観察したらいい。いずれ飽きて別の席に移るだろう。なにせこっちは締め切りに追われているのだ。残念ながら暇な高校生の相手をしている暇はない。
とてもいい匂い……
トクン、と胸が鳴った。スライスしたイチゴとレモン? ホイップしたての生クリーム?
いや、違う。この胸の高鳴りは、こんなにもみずみずしく胸をときめかせるこの匂いは、果物でも生クリームでもない。もっと別の、「何か」だ。
割と本気で思案しながら万年筆を握り直し、ペン先を罫線に押し当てた。白いノートがみるみる青く染まってゆく。
突然、左のこめかみに針で突かれたような激痛が走った。反射的に頭を振ると痛みは一瞬で消えた。だが、はずみで隣の人と目が合ってしまった。
黒くうるんだ瞳
悲しいまでに澄み切った瞳
彼女は優しい微笑みを浮かべていた。寂しそうにこちらを見つめる瞳の奥には、なぜか青白い光が揺れていた。
ざわり 、
記憶の底で何かが動いた。 この人はあの人に似ている。
だが、この人があの人であるはずはない。そんなことはあり得ない。絶対に。
けれど胸騒ぎがする。肺が喉と心臓の間をうごめいて出口を求めているような、得体の知れない不安が込み上げてくる。
ぼくは目を閉じて胸を両手に重ねた。すべてを胸の中に押し込むように大きく息を吸い、深く暗い記憶の泉の底へと潜った。
深く
深く
どこまでも深く