第三十四話 娘の友達が持ってきた青いリボン
青いリボンを握ったエマは、治療院の門をくぐる前に三度引き返した。
「昨日、ミウにひどいこと言ったの」謝りたい相手が自分の怒りを覚えていないかもしれない。
エマにはそれが、許されることより恐ろしかった。
エマは青いリボンをほどき、結び目に残った白い糸を見せた。
「昨日、私が縫い直したの。ミウが大事にしていたから」
ミウは覚えていなかった。
エマは一瞬唇を噛み、「昨日、ひどいことを言った。約束を忘れるなら、最初からしなければよかったって」と告白した。
ミウはすぐに許すとは言わなかった。
「覚えてないから、怒っていない。でも、言われたら悲しいと思う」
その返事を聞いたエマは、ようやく泣いた。
二人は新しい約束を考えた。
日記に書くのは待ち合わせの時刻だけ。
会いたくなくなったら、理由を話して変更してもいい。
ミウは「記憶がなくても、私が決めていいんだよね」と尋ねた。
エマは頷いた。
オズマは隣室から声を聞き、娘の友人関係まで父親が代わりに守ろうとしていたことに気づいた。
二人が自分たちで喧嘩し、仲直りできる場所を残すことも、娘を守る方法だった。
エマとミウは窓辺でリボンを結び直した。
「昨日のことを忘れたら、また教えてくれる?」とミウが尋ねる。
「何度でも。でも、次は私の話も聞いてね」
二人は笑った。
オズマは扉の外からその声を聞き、娘の世界が父親一人でできているわけではないことを喜んだ。
帰り際、エマは「次に私を忘れたら、また自己紹介するね」と言った。
ミウは「私も、好きな色を聞き直す」と答えた。
二人は笑ったが、エマの目には少し涙があった。
ミウはその涙を見なかったことにせず、「怖いよね」と言った。
エマは頷いた。
「でも、友達でいるのをやめたくない」
二人は次に会う日を決めた。
忘れることを前提にした約束でも、約束した日の嬉しさは確かだった。
翌朝、エマは窓に小石を当てた。
ミウが顔を出すと、二人は青いリボンを結び直した。
昨日のことを忘れていないからこそ、今日の約束は新しかった。
エマは翌日も訪ねてきたが、青いリボンを差し出す前に尋ねた。
「今日は一緒に歩ける?」
ミウは体調を確かめてから頷いた。
二人は門の外の石段を三段だけ降り、そこに座って通りを眺めた。
昨日の喧嘩を全部覚えていなくても、謝った事実はなくならない。
エマはリボンの結び方を教え、ミウは次に忘れたときのために絵を描いた。
友達でいるための工夫は、誰かに命じられた治療ではなかった。
夕食のとき、ミウはエマとの約束をオズマに話した。
「忘れたら、また喧嘩するかもしれない」
オズマは「それでも仲直りできるかもしれない」と答えた。
ミウは考え込み、日記の端に『エマの話を最後まで聞く』と書いた。
忘れないための命令ではない。
明日の自分が、友達を大切にするための手掛かりだった。
石段から帰る途中、エマが先に疲れを口にした。
「私も、今日はここまで」
ミウは少し驚いて、それから笑った。
病気の自分だけが休む理由を持つわけではない。
翌日、二人はリボンの結び方を紙に描き、名前の代わりに好きな色を書き添えた。
エマは青、ミウは黄色。
記憶が曖昧な日でも、どちらがどの色を選んだか尋ね直せる。
オズマは絵を日記に挟むのを手伝ったが、友達同士の約束の中身までは読まなかった。
次の朝、エマは待ち合わせより少し早く来た。
ミウは日記を見て約束を思い出したが、昨日の仲直りまでは覚えていない。
「また最初から話す?」と聞くと、エマは首を振った。
「今日は今日の話をしよう」
二人は青いリボンを窓辺に結び、庭の小さな花に水をやった。
オズマは娘が友達と笑う声を聞きながら、昨日を取り戻すことばかり考えていた自分に気づいた。
夕方、ミウは「エマが来ると楽しい」と言った。
理由は覚えていなくても、今の気持ちは本物だ。
父は日記の頁をめくらず、その日の娘の声をそのまま受け止めた。
翌日、エマは自分の家で作った小さな栞を持ってきた。
青いリボンと同じ糸が使われている。
「日記に挟んでおけば、私が来たことを思い出せるかもしれない」
ミウは受け取ってから首を傾げた。
「でも、来たことを忘れても、また来てくれる?」
エマは少し考えた。
「来るよ。忘れているから来ない、なんて決めない」
二人は約束を一つ減らした。
毎日覚えていることではなく、会いたい日に会うことにした。
帰り際、エマはオズマに「ミウのこと、何も分からない時があります」と打ち明けた。
オズマは娘を説明しようとして、言葉を飲み込んだ。
「私にも分からないことがある。だから本人に聞いてほしい」
エマは頷き、庭にいるミウへ駆けていった。
二人が何を話したか、オズマは聞かなかった。
日記の中の娘を守るだけでは、今ここにいる娘の友達を守れない。
窓から見える青いリボンは、昨日の記憶の印ではなく、今日の友情の印になった。
翌朝、エマは約束した時刻に訪れた。
ミウは昨日の仲直りを覚えていなかった。
エマは無理に思い出させず、「今日は一緒に庭を歩きたい?」と尋ねた。
ミウは体調を確かめて頷いた。
二人は青いリボンを花壇の支柱に結び、風で揺れる様子を眺めた。
昨日を再現できなくても、今日の友情は新しく選べる。
その日の帰り道、エマはミウに「また忘れたら、また謝らなくちゃいけないのかな」と尋ねた。
ミウは少し考えて答えた。
「謝ったことは、今日のエマがしたことだよ。明日の私が覚えていなくても、なくならない」
エマはリボンの端を握り直した。
記憶を失う人だけが、忘却に苦しむのではない。
覚えている側も、同じことを何度も説明する痛みを抱えている。
二人はその違いを、初めて言葉にできた。
エマが帰ったあと、ミウは青いリボンを自分で結び直した。
結び目は少し曲がっていたが、ほどこうとはしなかった。
「これでいい」
オズマは手伝わずに見守った。
娘が決めた小さな形を、父が直す必要はなかった。
エマは青いリボンを持ってきたものの、ミウの前で結び方を忘れてしまった。
「私が教えるつもりだったのに」と苦笑する。
ミウは二人でほどけた糸を広げ、絵を見ながら結び直した。
昔の喧嘩を覚えていないことを、無理に謝る理由にはしたくなかった。
「今日の私と、また友達でいてくれる?」とミウが尋ねると、エマは「もちろん」と答えた。
夕方、二人は庭の低い塀に腰掛けた。
エマは学校であった失敗を話し、ミウは久しぶりに声を上げて笑った。
オズマは窓からその姿を見たが、会話を記録しようとはしなかった。
娘には父親が知らない時間も必要だ。
翌朝の約束を自分たちで決める二人を見て、彼は日記の白い頁をそのまま閉じた。




