Menu13:漆黒のチャコール・フォカッチャ 〜うるわしき悪魔の贈りもの 聖アントニウスの火の幻影〜
黒江 凛々子は、白いブラウスの胸もとに下げたネームホルダーを指先で自身のほうに向けて氏名の表記をたしかめた。
会社の昼休みに外に出たところ、「橘」というネームプレートをつけたギャルソン姿の男性に声をかけられた。
シェフの試作料理を食べて行かないかという話だった。
おもしろそうだと思ったのと、ギャルソンの容姿が気に入った。
どんなものを出されるのか、食べてやろうじゃないのと鼻で笑ってついてきた。
店内中央の席で、ストッキングの脚を組む。通された店の内装を見まわした。
カジュアルイタリアン風の外観からは想像できなかったが、えらく天井の高い建物だ。
アーチ型の梁が互いちがいに折り重なっている凝った造りの天井。
正面には大きなステンドグラスの窓。
各テーブルの座席は、なんとなくチャーチベンチっぽい。
まるで教会の礼拝堂だ。
ほかの客はいない。
カチャッと音がして、厨房につづくと思われるドアが開いた。
凛々子をここに誘った美形のギャルソンが姿をあらわす。
チロッと凛々子は唇をなめた。
「ギャルソンさん」
カウンターテーブルを拭きはじめたギャルソンに声をかける。
「ギャルソンさん、お名前は?」
肉厚の唇をニッと上げた。
「橘と申します」
ギャルソンがこちらをふりむき微笑する。
「奥のシェフは?」
「ただいま調理中でして」
ギャルソンが答える。
名前を聞いたのにはぐらかしたのだろうかと、凛々子は唇のはしをククッと上げた。
「聞いたことがあるの。人をつかまえては怪異を予知した料理を食べさせる美形ギャルソン姿の何かがいるって」
「そうですか」
ギャルソンが答える。
こちらに背中を向けてカウンターテーブルの拭きそうじをつづけた。
「なにが目的かしらねぇ」
「さあ。暇つぶしでは」
ギャルソンが答える。
「わたしに声をかけたのも暇つぶし?」
凛々子はテーブルに肘をついた。ギャルソンのうしろ姿をじっとりと見つめる。
視線に気づいているのかいないのか、ギャルソンはやがてテーブル拭きを終えると厨房に通じるドアに向かった。
中にいるシェフの影が、小さなガラス窓越しに見える。
大柄な人というには大きすぎる。まるでずんぐりとした怪物のような影だ。
凛々子は、首をのばして厨房の中をのぞき見ようとした。
ギャルソンが、こちらを向いて微笑する。
いちど厨房のほうへと入ると、銀のトレーを手にふたたび姿をあらわした。
「おまたせいたしました。本日のシェフの試作料理、漆黒のチャコール・フォカッチャ 〜うるわしき悪魔の贈りもの、聖アントニウスの火の幻影〜をお持ちしました」
ギャルソンがおしゃれなグラスを置く。
つづけて黒灰色をした大きな円盤型のパンを置いた。
皿は、ここの床によく似た黒い石盤のような皿だ。
ギャルソンがグラスにチャコールウォーターをそそぐ。
「フォカッチャ……」
凛々子はつぶやいた。
素材がいいものなのかもしれないが、竹炭を練りこんだパン一つと付け合わせのチャコールウォーターだけとは拍子抜けだ。
「もっと豪華なお料理を出してくれるのかと思った」
凛々子は詰るように言ってみた。
「思い出にのこるパンかと思いまして再現させていただきました。アレルギーはないとのお話でしたが塩が苦手かと存じますので、トスカーナ地方の塩なしパンの様式を踏襲して作らせていただいております」
ギャルソンがわずかに唇のはしを上げる。
凛々子は、ギャルソンと厨房のドアを交互に見つめた。ややしてからアハハハハハハと大きな笑い声を上げる。
「あーまじ? こっちの名前はバレてるわけ?! けっこううまく化けてると思ったんだけどぉ」
上体をそらして、背もたれに両ひじをかける。
白いブラウスをつきぬけて大きなフクロウの羽根を出しゆっくりと広げた。
胸もとまでの長さだった髪が、乱れたかたちで足もとまでのびる。
「あー、たしかに思い出ぶかいパンだわ。六百年くらいまえのヨーロッパね。人間に、カビがはえたライ麦なんてヘーキヘーキって言ってパンつくらせてさ。黒っぽいパンになるんだけど、それ食べた人間みんな気が狂って、しまいには街中で狂乱踊りはじめるの――おっもしろい時代だったわあ」
ククッと凛々子は肉厚の唇を上げた。
「当時はその病を “聖アントニウスの火” って人間は呼んでてさ。聖アントニウス教会にたどりついて祈りをささげれば治るって信じて、うまく歩けなくなった脚で教会まで旅したりしてさ」
鉤爪のはえた手でフォカッチャを手にとる。
凛々子は、一口分だけちぎって口にした。
「途中で旅してきた同士で出会って、何人かでいっしょに教会めざすんだけどさ。野犬に襲われたりして、もう全員グッチャグチャ」
チャコールウォーターでパンを飲み下す。
ブラックオリーブと竹炭の香りがなかなか香ばしい。
「彼らの神は助けない、聖アントニウスも助けない。めでたしめでたし」
凛々子は肩をすくめた。
ギャルソンは微笑して聞いている。
「いまは麦角菌中毒っていうみたいね。だれもカビはえたライ麦のパンなんか作らなくなったし、特効薬もできてつまんない」
グラスのステムをもてあそんで唇を尖らせる。
「それで? わたしになんの怪異が起こるわけ?」
凛々子はフォカッチャをちぎり口にした。
「わたしの名前が分かったなら、そこらの人間の霊が迷いでたところでべつにびっくりもしないの分かるわよね?」
「当店といたしましては、無料の試作料理を提供させていただいた、ただそれけにすぎませんので。モナ・リリス」
ギャルソンがにっこりと笑う。
凛々子は鼻で笑った。
かすかなモーター音と吸引音がする。
凛々子は床を見た。
黒い石盤の床を、円盤型のロボット掃除機がするするとすべってくる。
好奇心にかられてじっと見つめた。
「ルンバだっけ? こんなの使ってんの?」
目を丸くする。
たったいま、ちぎって口にしている黒灰色の円盤型のフォカッチャに似ているなと思った。
「コー」という小さな吸引音をさせながら、ロボット掃除機が右へ左へと床をすべる。
凛々子はじっと見つめた。
しばらくしてから、テーブルに手をつき勢いよく立ち上がる。
「ちょっ、ちょっとなに? このルンバ。わざと?!」
あとずさりながら声を上げた。
ルンバの右へ左への動き。
人が十字を切るときの手の動きにそっくりだ。
「なんなの、あんた。ここの内装といい、嫌がらせ?!」
「嫌がらせなんて。たしかにここにお誘いはしましたが、ついてきたのはあなたの自由意志です」
ギャルソンがにっこりと笑う。
「偶然ですよ」
「帰るわ。たしかお代はなしだったわよね、契約も代償もなし」
「ええ。お客さまに楽しんでいただくのが目的ですから」
ギャルソンがしれっとほほえむ。
奥の厨房から、怪物の低い笑い声が漏れ聞こえている気がした。
凛々子は、ハイヒールの音をさせて店の出入口へと向かった。
足もとまでのびていた髪と、フクロウの羽根をひっこめる。
もとの白いブラウスとタイトスカートの女性実業家ふうの格好にもどった。
終




