1. エッグコーヒー
「『変わり種』があるんだけど、試してみないかい?」
中年の男性がまるで「気分が良くなるクスリがあるんだよね」と言わんばかりに、少し声を落として目の前のスーツ姿の男性に甘く囁く。
中年の男性は身長175センチくらいの細身で、黒で統一されたシャツにエプロン、細いシルエットのパンツが良く似合っていた。
少し伸ばした黒髪の前髪をアップにして額を出して、細い口ひげを生やしている。
女性ウケが良さそうな優しげで甘い顔立ちと合わさって、雰囲気は実にチャラチャラしているし喋り方も緩い。
ただ、彼が勧めてくるのは違法な何かではなくれっきとした料理である。
ここは繁華街から少し離れた場所にある『Seven Wonders』というレストラン。
料理を勧める男性はオーナー兼シェフの寺田俊彦。
そして、料理を勧められている男性は水野俊一。
水野は26歳の真面目な会社員であり、この店にはいつも通り夕飯を食べに来ただけだ。
今日は仕事が忙しく、色々と大変な目にあった。
こういう日には疲れを癒やすため、美味いものでも食べようとSeven Wondersに来るのが水野の習慣だった。
水野は半導体製造機器のメーカーに営業職として勤めていて、今日は大口取引先への納品日だった。
そして、新設される工場へと製品を運ぶトラックが、輸送中に別の車に追突されたとの連絡が入る。
水野の悲鳴が社内に響き渡った。
半導体の製造機器というものは非常に高価である。
輸送中の製品も1台で2桁億円する。
その製品が事故にあったわけだ。
追突した側も、追突された側も、納品する側も、納品される側も、全員の顔が真っ青になった。
トラックが潰れるような大事故では無かったのが幸いだが、それでも精密機器であるため検査は必要となる。
工場で隅々まで調べ、傷や動作の確認が終わらなくては納品できないのだ。
こんな高価な商品に都合良く即時納品できる在庫があるはずも無く、製造機器の納品が遅れるとなれば、今度は半導体の製造工場の稼働が遅れる。
半導体の製造工場の稼働が遅れれば、下手をすれば3桁億円の損失が出かねない。
関係者一同、ドミノ倒しで地獄の底へと真っ逆さまである。
水野は頭を抱える関係者たちの調整へと朝から走り、休みも取れないまま駆け抜けた。
その苦労の甲斐あって、無事納品の目処がついたのは終業時刻と同時だった。
肉体的にも精神的にも疲労は限界に達していた。
今日くらいは少しの贅沢をしても許されるだろう。
そう考えてSeven Wondersに来店した水野だが、そこで最後のイベントが待ち受けていたのだった。
「オーナー、またですか?」
「いや~、どうしても作ってみたい料理があってね~」
呆れながら言う水野に対し、寺田は全く悪びれた素振りがない。
そう、注文していない料理を勝手に作り、それを勧めてくるという悪癖が寺田にはあった。
カウンター席があるから1人客でも入りやすく、気軽に毎日通えるほど安くはないが味は値段以上、内装は整っているが高級レストランのように格式張っていない。
肉や魚をメインにしたセットメニューがいくつかあり、お好みで単品メニューを追加することもできるし、アルコール類は定番どころだけではなく物珍しいものもある。
近所に住んでいて贔屓にしない理由がなかった。
問題点があるとすればこのオーナーの奇行くらいだ。
水野も過去に何度も『変わり種』を勧められているから、今更驚いたりはしない。
寺田はその日自分が作りたいと思った料理を絶対に作ろうとする、そして誰かに食べさせようとする。
もちろん金を払ってそれを食べるかどうかは客次第だし、「止めておきます」と言えば寺田もあっさりと引き下がる。
それに法外な値段を要求されるわけではなく、「今日はちょっと奮発して1品追加しようかな」というくらいで収まるから気分を害するものではない。
困ったことがあるとすれば、その料理がいつも魅力的で、注文して後悔した記憶が無いということだ。
水野はため息をついて視線を下に落とす。
今日注文したのはステーキセットと赤ワイン。
甘くコクがあるコーンポタージュに、レアに焼き上げられたジューシーな牛のステーキ、多めの油で表面がカリカリに焼かれたジャガイモの乱切りが山盛りになったセットだ。
料理を注文した際に、「サラダを無くせば、代わりにジャガイモが大盛りになるけどどうする?」と寺田に聞かれた。
若い男性として軟弱なサラダを選ぶはずがなかった。
草よりも芋だよ、芋。
大盛りのジャガイモとステーキにかじりつきながら、赤ワインで流し込んだ。
気分はまるでドイツ人だ。
既に全ての皿とグラスは空になり、腹は十分に満たされている。
水野がすぐに会計を済ませようとしなかったのは、「コンビニでアイスでも買って帰ろうかな」と悩んでいたからだ。
アイスと『変わり種』、どちらに手を伸ばすべきか。
両方食べるのは流石にカロリーオーバーだ。
「......今日の『変わり種』って何ですか?」
「今日はね......ベトナムのエッグコーヒーです!」
そう言い放つと寺田は後ろを向いて、何かに手を伸ばす。
既に料理は出来上がっているのだろう。
(普通なら注文を確認してから作るものだけど)
水野は内心で呟く。
実際、『変わり種』を勧められた客が断るところを見たことがある。
ただ、そういった場合には寺田は他の客にその料理を勧めに行くし、全員に断られているところを見たことがないから、余程自分の料理に自信があるのだろう。
それに、美味しそうな料理を前に抗うことができる人間はそうはいない。
事前に「料理を注文するか」と聞かれれば断ることもできるが、目の前に実物が置かれてしまえばその魅力に抗うことは難しい。
食品サンプルや写真があるだけで飲食店の売上が変わるという話も納得だ。
寺田は『変わり種』を客に食べさせて満足し、店としては客単価が上がって儲けが増え、客はその日だけしか食べられない珍しい料理を味わうことができる。
こうして考えてみると、集客効果としては悪くないなと思えてくる。
狙ってやっているわけではないだろうが。
「じゃーん、これです!」
「.........カプチーノ?」
寺田が差し出したのは、黄色いクリームで表面が覆われた紺色のコーヒーカップ。
クリームはきめ細かい泡で出来ていて、もう少し色が濃ければカプチーノそっくりだった。
真ん中には背中を向けた猫の姿がココアパウダーで描かれている。
中年男性が作ったとは思えないくらい可愛らしさに満ち溢れていた。
「エッグってことは卵を使ってるんですよね?」
「そうそう、下にはエスプレッソが入ってるよ。その上から卵黄とコンデンスミルクを混ぜて、フワフワに泡立てたクリームをかけてるんだ」
確かにコーヒー特有の何ともいえない良い香りが漂ってくる。
食後の優雅な一杯。
実に魅力的だった。
「ベトナムか...。旅行したことはないけど、コーヒーが有名ですよね?」
「コーヒー好きな国だね。カフェは文字通りそこら中にあるし、有名なチェーン店も多い。カフェはコンビニよりも多いんじゃないかってくらい多い。でも、この料理は飲み物というよりはデザート」
「へっ?デザート?」
「そこから先は実際に試してみてね」
寺田が笑みを浮かべながらウインクする。
良く言えばお茶目だが、水野からすれば「相手を選べ」としか言いようがなかった。
「ちなみにお値段は?」
水野はおずおずと値段を聞いた。
もう断る理由が値段くらいしか思い浮かばなかったのだ。
値段という贖宥状を求めたとも言える。
「お値段は600円です」
デザートとしては妥当な値段だ。
これで水野は全ての逃げ道を失った。
「............頂きます」
「ご感想お待ちしております!」
寺田からソーサーに載ったカップを受け取り、少し傾けてみる。
クリームが少しズレただけで、コーヒーの層は見えてこない。
余程クリームの層が分厚いのだろう。
「まずは上のクリームだけを一口食べて見て」
「分かりました」
寺田に言われた通り、スプーンでクリームをすくって口に入れる。
「甘っ!」
思わず叫び声が出た。
何事かと他の客が視線を向けるのを感じて、羞恥で頬が少し赤く染まる。
しかし、このコーヒーの味を前にしてすぐにどうでもよくなった。
「えっ、はちみつをそのまま舐めてるくらい、いやそれ以上に甘い...。これ本当にコーヒーですか?」
「クリーム部分は卵黄とコンデンスミルクだからコーヒーは入ってないよ。店によっては少し加えるレシピもあるけどね。要はコンデンスミルクを泡立てたものだから、そりゃ甘い。激甘さ」
「なるほど、だからデザートなのか...。卵のコクもあるからなおさらそれっぽい」
「次はクリームの下にあるコーヒーだけを舐めてみて」
そう言われて水野はカップの底からすくうようにスプーンを持ち上げると、確かにコーヒーと思わしき真っ黒な液体が出てきた。
そのまま黒い液体を舐める。
「苦っ!」
水野はまた悲鳴を上げた。
今度は地獄の底のように煮詰めたコーヒーの苦みが襲いかかってきた。
「ベトナムのコーヒーって、基本的にはエスプレッソなんだよね。だから、日本人の感覚からするととても濃くて苦い。正直、水か氷を入れて薄めないと、美味しいと感じない人の方が多いんじゃないかな」
顔をしかめる水野のことなどどこ吹く風で、寺田がのんびりと解説する。
だが、その説明はもっともで、薄めるか砂糖やミルクでも入れないと日本人には合わないだろう。
「次は混ぜて飲んでみて。あまりかき混ぜ過ぎないように、軽く回すだけでいいよ」
水野は再び指示に従って中身を混ぜ、少し警戒しながらスプーンですくって舐めてみた。
「甘苦い!いや、これならちょうどいい!」
水野は初めて笑顔になった。
「このコーヒーを液体ティラミスって表現した人もいるらしいね。材料的にはほぼ同じだから、そう感じてもおかしくない」
「そうですね、飲むティラミスって言われたら納得します」
ほどよく混ぜたことで甘さと苦さが混在した味が保たれていた。
もし混ぜすぎて一緒にしてしまうと、この変化する味わいが台無しになってしまうだろう。
水野はそのままチビチビとコーヒーをすすり、じっくりと味わう。
スーパーで売っているコーヒー牛乳とは全く違う、尖った味わいのコーヒーは実に刺激的だ。
濃厚だから飲み物というよりはデザート扱いなのも分かる。
飲む生クリームというコンセプトを掲げる商品を見たことがあるが、このコーヒーはそれに近い。
コーヒーを半分ほど飲んだところで、再び寺田が声をかけてきた。
「じゃあ、最後は少しだけ塩をふりかけてみようか」
「塩?コーヒーに?」
水野の常識ではコーヒーに入れる粉と言えば、砂糖かクリーミングパウダーしかなかった。
もし会社でコーヒーに塩を入れているところを同僚に見られたら、「忙しすぎて遂に頭がおかしくなったのか?」と言われそうだ。
「いいから、いいから。さっ、試してみよう。少しだけでいいからね」
寺田は卓上に置かれた塩の入った瓶をちらつかせる。
もはやここまで来たら後に引くことは出来ない。
討ち死に上等、不味かったら営業の時の話のネタになる。
水野も覚悟を決め、「ええいっ!」と一振りだけ塩をコーヒーに入れて一口飲む。
「全然違う!?」
塩で砂糖やミルクの甘さが引き立ち、コクが深まって引き締まった味わいに変化していた。
想定外の変化に、水野はまるで狐につままれたように混乱する。
その様子を見て寺田はご満悦だ。
「結構美味しいでしょ?ぜんざいに塩を入れるようなものだね。東南アジアで言うと、ココナッツミルクで炊いたもち米に塩を混ぜるようなものかな」
「ベトナムはエッグコーヒーに塩を入れるんですか?」
「いや、入れない。実はベトナムには塩コーヒーっていうのが別にあって、それを参考にしました」
「はー、説明されてみると納得できます。でも、頭が追いつかない...」
ドヤ顔で自慢げに説明する寺田を見るに、水野の多彩なリアクションを見れて満足できたのだろう。
心の栄養素を十分に摂取したと言わんばかりに楽しげな表情を浮かべていた。
寺田が『変わり種』を作るのは客の驚く姿を見たいからではないか、という疑念が水野の頭をよぎったが、聞くのも野暮だと判断して胸の内に留める。
代わりにエッグコーヒーをグイッと飲み干し、立ち上がった。
「ごちそうさまでした。いやー、満足しました」
「こちらこそ。またお越しください」
水野が立ち上がるのに合わせて、寺田は芝居がかった仕草で恭しく頭を下げる。
その姿はまるでショーを披露し終えた手品師のようにも見えた。
水野は会計を済ませて外に出る。
背後ではエッグコーヒーを注文する声が飛び交っていた。
水野の反応を見て我慢できなくなった客がいたのだろう。
実に上手い商売をしている。
店の外で大きく体を伸ばす。
店に入る前に抱えていた肉体的・精神的な疲労が吹き飛んでいた。
衝撃的な激甘濃厚コーヒーを飲んだのだからそれも当然か。
心身共に満たされた。
実に良い食事だった。
しかし、それでも消しきれぬ欲求があった。
「帰り道でアイスを買おう」
あれほど甘いものを食べたのにという考えや、カロリーオーバーという単語が一瞬頭をよぎる。
しかし、食べないという選択肢はなかった。
なぜなら風呂上がりのアイスは別腹だからだ。