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「このたびは大変申し訳ありません……。このたびは大変申し訳ありません……」
由紀は口の中で何度も繰り返した。
場所は市営住宅、403号室の扉の前だ。
表札には『天宮』とある。
ここに来るのは、一年と四ヶ月ぶりだった。
あの時も、天宮は引きこもっていた。
由紀はそんな天宮を学校に連れ出すために、足繁くここに通っていたのだ。
状況は似ているものの、根本的な部分に決定的な違いがあった。
今回、天宮が引きこもる原因を作ったのは、由紀本人なのだ。
「……よし」
由紀は覚悟を決め、呼び鈴を鳴らした。
ややあって、扉が開いた。
隙間から、疲れた顔をした女性が顔を出す。
天宮の母の恵子だ。
恵子は由紀を認めると、口元に力のない笑みを浮かべた。
「あら、由紀ちゃん。どうしたの?」
天宮が学校を休むようになってから、すでに一週間が過ぎていた。
欠席の理由は言わずもがな。
ここ数日、学校では「あの天宮悠斗と城島明が付き合っている」という噂で持ちきりだった。
広めたのは由紀だった。
同好の士の一人に、打ち明けてしまったのだ。
そこからねずみ算式に話は広まり、ただでさえ悪目立ちしていた二人のスキャンダルは、三日後には全校生徒の知るところになっていた。
由紀に悪気はなかった。
その同好の士とは、アキアマの情報について、余すところなく共有すると約束していたのだ。
確かに天宮とは、誰にも言わないと約束したけれど、その前に固く交わされた約束があったわけで。
由紀の立場からすると「天宮との約束を破った」のではなく「同好の士との約束を守った」つもりだったのだ。
由紀は同好の士を信用していたからこそ打ち明けたのだし、そして裏切られたことに少なからずショックを受けていた。
そもそも二人が付き合ってるっぽいという話は既にしていて、由紀はただ「本人たちが認めた」と伝えただけなのだ。
だからと言って由紀の罪が軽くなるわけではないし、その同好の士に責任を押し付けることもできない。
やはり悪いのは由紀なのだ。
その自覚が由紀にはあるから、こうして謝罪しにきたのだった。
菓子折まで用意して。
「あの、天み――。悠斗くんのことで、ちょっとお話が……」
由紀がそう切り出すと、恵子の目が揺らいだ。
「ああ、そうよね。ここ何日も休んでいるものね。ありがとう、あの子のことを心配してくれて」
「あ、いや」
「一年くらい前にも、あったわよね。急にあの子が部屋に引きこもっちゃったこと……」
「え、あ、そうですね」
「あの時も、全然理由を話してくれなくて……。私、あの子に信用されてないのかな……」
どうやら天宮は、母に事情を話していないらしい。
その事実を、どのように受け止めればいいのか、由紀にはわからなかった。
ほっとする反面、自分の口から打ち明けなければならないことに、耐えきれないほどのストレスを感じた。
「やっぱり私、母親失格なのかな……」
きりきりと胃が痛む。
違うんです。全部私が悪いんです。
さらに言葉を続けようとする恵子を制するように、
「おばさん!」
と由紀は力強く言った。
恵子は顔をあげ、由紀の顔をまじまじと見る。
由紀はこれ以上ない笑顔で言った。
「大丈夫ですよ。私は悠斗くんの味方ですから!」
ぐっと胸の前で拳を握る。
恵子は目を見開き、それからふっと相好を崩した。
「ありがとう、由紀ちゃん。あの時も、由紀ちゃんだけが、あの子のそばにいてくれたものね。本当に、ありがとう」
「いえ、友達として当然のことですから」
「これからも、あの子の友達でいてくれる?」
「もちろんですとも! あ、これ、よかったら悠斗くんと一緒に食べて下さい」
由紀は菓子折をただの土産として渡した。
「ありがとう。あの子も喜ぶわ」
「はい! じゃあ私はこれで!」
扉が閉められるのを待ってから、由紀は作り笑いをやめた。
そこには、何もなかった。
きっと絶望に色があれば、限りなく透明に近いのだろう。
由紀は踵を返し、アキラの元に向かった。
死角にある階段で待機してもらっていたのだ。
アキラはこちらに背を向ける形で、下り階段の最上段に腰掛けていた。
何も言わない。振り返りすらしない。
きっと恵子との会話を聞いていたのだろう。
一言も発さなかったけれど、その背中はとても雄弁だった。
「わかってる」
由紀はアキラの背後に立ち、絞り出すような声で言った。
「わかってるから……。だから、何も言わないで……」
梅雨入り前の、ひどく冷えたこんだ夕暮れ時の出来事だった。




