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第96話 アルトシュロスの宝

俺から見た姉様の話をしよう。

世界が戦火に包まれた後でさえ一際強い輝きを放ち人々の心の支えになった三人の女性がいた、と言えばなんて貧相なファンタジーだと思われることだろう。

その三人が少女だった頃、戦時中ではあるが世界の人口がまだ約百億だった頃。同じ学舎で時を過ごしていたこと、勿論一般生徒の憧れの的どころか目線ひとつ投げかけることでさえ畏れ多くて躊躇われるような空気があったこと、それでも彼女達を目に焼き付けたくて誰もが遠慮がちに遠くの何かを見るふりをして視界の片隅に入れるのを日々の楽しみにしていたこと。それらまで付け足すとまさに作り話だ。


一人は圧倒的な弁才、身体能力、状況把握能力、行動力をほしいままに操り、氷の笑顔の下に周囲の人間を従わせる天性のカリスマ。

一人はありとあらゆる数の謎を解明し、あるいは再定義し、焼け残った世界中のコンピュータの演算能力を大戦以前と比較しても一段階も二段階も押し上げた天才。


そして姉様は、俺の姉様は。その二人に匹敵する明確な成果を持たずして、その二人に並び立つどころか凌駕する存在感を放つほど――



華やかだった。



「美しい」――とも違う。確かに姉様はいつも美しい。それこそ肌や髪の手入れができるほどの物資がなくともだ。しかし見目の麗しさだけで人に慕われるはずがない。


「優しい」――とも違う。確かに姉様は慈悲深いが、他の二人と比べたらわかりやすいくらいにはすぐ怒るし間違ったことに対しては鉄拳制裁も辞さない。


「たおやか」――なんて手折られた花が聞いて呆れる。姉様はそう簡単に踏み潰されるような人間ではない。踏み潰すことはあっても。



それでもそのような評価を受けるほどに、一挙一動の優雅さが、表情の愛らしさが、話し声の暖かさが、姉様がただ生きているだけで発揮されていたのだ。




「ねえセルシオル聞いてください~!ユリシスったら『詩の発表会はなしにして武闘演習大会にしてはどうですか』なんて言い出すんですよ」

「あの人なら言い出しそうですね姉様。それで?そう決まったんですか?」

「馬鹿につける薬はないので殴っておきました」

「それでまた謹慎処分になったんですか」

「向こうにも手を出させたのでダブル謹慎です。ひとまず強行採決は免れるでしょう!手回しはしておいたので大丈夫です!」


こんなことが日常茶飯だったとしても。



「ユリシスとカトリーナから遊びに誘われました~!行ってきま~す!」

(何するんだろ……)

三時間後

「ただいま!」

「おかえりなさい姉様……ってボロボロじゃないですか!暴漢にでも襲われたんですか!?」

「行ってみたらびっくり、ユリシスの立ち上げた団体の集会でした!『サッカーやるって言ったじゃないですか!』って思わず蹴っちゃいました!」

「……あー」

「そしたらユリシスったらなんと反撃してきたんですよ!ひどくないですか!?」

「……(ノーコメント)」

「カトリーナはぼーっとしてるし他のなんか知らない人たちも大騒ぎして乱入してくるしサッカーはいつまでも始まらないし腹立ったので帰りました!謝るまで許しません!うちに来ても追い返しといてくださいね!」



こんなことが月に一回はあったとしても。





それでも、それだけじゃない。




廃墟寸前のぼろぼろの集会場。

並べられた椅子の前にある、ステージとは名ばかりの空きスペース。

そこに姉様が足を踏み入れるだけで、じっとりとした冷気が消え失せる。

観客席に顔を向けるだけで、すべての時が止まる。

姿勢が正される。目に光が宿る。静寂の中、張り詰めた空気が熱を帯び――

彼女の歌が始まる。



凄まじい熱気!張り巡らされた空気どころか地面すらも震わせる渾身のシャウト!その場にいるもの、いやその場にいないものすらも引きずり込んで離さない絶唱!

天をぶち破って星々すべての光を降ろしてくるかのような高音、人の内臓を抉り取って深海でざぶざぶ洗ってから押し戻してくるかのような低音!

歴史上すべての悲しみを凝縮して一つ一つを慈しんでいるのように甘いカデンツァ、人類すべての罪を明るみにしてからマントルに素手で沈めるようなデスボイス!


聴衆は圧倒され、熱狂し、涙を流し、最後にはすっきりした顔をして惜しみない拍手を贈る。

そう、姉様は子供の頃から歌っていた。

その歌声ひとつで街の片隅の集会場をコンサートホールに作り替えて、崩壊し終わりに向かう世界に希望を灯す、世界最高の歌姫だった。

俺が知る限りでは、ありふれた作り物の恋や日常を歌に乗せるだけで他のどんな演説もなぎ倒せる人間は一人だけだ。


彼女こそが芸術だ。

俺以外の人々だってそう思っていたはずだ。

つまり俺もその他大勢と一緒に姉様に心酔していた。

ああでも。

俺がその他大勢でなくなった時は唐突に訪れた。




13だか14だか、俺がそれくらいの歳だったと思う。

ある夜、姉様が俺の部屋のドアをノックしてきた。異常事態だとすぐにわかった。姉様はノックとかしないからだ。

「もうすぐ防衛戦が始まります」

姉様の沈痛な面持ちで、すぐにわかった。既にその頃世界の人口も国土もかつての半分を切り、政治家だの軍将だのといった有力者はすったもんだの末に呆気なく死に、わずかな食糧を奪い合って毎日道端で人が死んでいくこの街ですら「マシな部類」だった。そんな世の中でも自分が住む街が攻め込まれるのなら抗戦するくらいに、幸か不幸か人々に元気はあった。

だけど希望をいつまでも持ち続けられるほどの元気はなかった。

「ユリシスの団体から誘いが来ました」

「……」

16、7歳の少女が先導する団体なんて馬鹿げてる。あの女を知らなかったらそう言えただろう。だが壊れゆく国だったものの中心地で軍事力をかき集め指先一つで思いのままに動かすことができる人間はいる。例えば自警団とか、もっと無害そうな――学生文化連盟、みたいな名前の団体を大きくするうちに全土への影響力を持つような。

「わたしの声で士気を高めてほしいと、兵を鼓舞してほしいと頼まれました」

「姉様、断るつもりはないんですね」

「あの子がいくら強引だからって街が落とされることをよしとするほど強情じゃないですよ、わたし」


そう言って俺の本をパラパラめくりながら床に転がる。

「姉様、途中から読んでも意味わからないですよそれ」

「……セルシオルは、やりたいこととかないんですか」

「急にどうしたんですか」

「いいから」

「……やりたいことも何も、生きていければそれで。俺には姉様みたいな才能とかないですし」

「ふーん。これパソコンの本でしょ?好きなんじゃないんですか?」

「パソコンっていうかプログラミングで……いや好きは好きですけど、好きってよりは何かの役に立てばと思って勉強してるだけです」

「えらいですね」

「いやそんな、俺は実際姉様みたいに人の心を動かしたりはできませんし、そんな特別優れたものがあるわけじゃないですし」

「……これ、見てくれませんか」


そう言われて、姉様がこの部屋にB5のノートを持ってきていたことに初めて気づく。

ぼろぼろの表紙をめくる指が、それまで見てきた姉様のどの所作よりも弱々しく震えているように見えた。

そこにあったのは、鉛筆で雑に描き殴ったような人間の絵。たぶん虫のような羽根とかが生えてるし妖精なのかもしれない。でも体中が複雑骨折しているし、目が顔の5分の4くらいあるし、眉毛のすぐ上から鋭角に天を向いて髪の毛が伸びているから妖怪なのかもしれない。


「わたし昔からこういう絵を描くのが好きで」

「あっ子供の頃の絵ですか」

「いえ先週描いた絵ですが」

「えっ」

「……まあ、次行ってみましょう」

「はあ……」


次のページには年表みたいなものが書いてあり、更にその次のページには短い文章とカギ括弧の台詞が交互に書いてある。劇の脚本のようだが、途中で唐突に終わっている。

そしてその真下から人の顔と吹き出しが交互に並べられているが、その内容には連続性があったりなかったりする。


「……姉様、これは」

「プロットとシナリオです」

「……プロット」


その言葉の意味は知っている。脚本の骨子となる要素を組み立てる、文章の設計書のようなものだ。だけど、年表は大雑把すぎるし、脚本部分と照らし合わせたら完全に数字が破綻しているし、そもそも終わってすらいない。

なんだこれは。なんだこの怪文書は。というか文書と言っていいのかこれは。

でもこれを姉様が俺に見せてきたということは深い意味があるはずだ、何か言わなければ。間違えてはいけない、間違った返答をすれば殴る蹴る等の暴行を加えられる。

ちらりと姉様の顔を見ると、真っ赤になってプルプル震えている。なんでだ。こっちが困っているのに。



「わたしが一生懸命書きました」

「は、はあ」

「こういう、現実じゃない世界の話が好きで」

「そうなんですね」

「ずっと昔から、少しずつ、一生懸命書いては直しを繰り返してきました」

「……そうなんですね」

「へたくそでしょ」

「えっと」

「頑張ってるのに上手くならないんです」

「頑張ってたんですか……」

「頑張ってたならこんなレベルじゃないだろって思いません?」

「いやその」

「ええそうですよ、人に見せてボロカスに批判される勇気も最後まで完成させる根性もないですよ、そういうやつなんですよわたしは!それなのによりにもよって一番大切なものがこれなんですよ!」

「えっと、その姉様落ち着いて」

「別に歌とか上手くなくてもよかったです!目立たなくても良かったです!人に好かれたいなんて思ってませんでした!わたしには、わたしは、わたしのつくった物語が誰かに届けばって、そんなことを、ろくな努力もできないくせに、ずっと」

「姉様、わあ泣かないでください姉様!」

「もうわたしやめますこういうの」

「えっ」

「あの子はあの子で、人が死んで街が壊れそうで希望が見えない時に旗を振る役目を全うしようとしてるんです。わたしだって能力があるんだから責務を果たさないと。それが大人になるってことです」

「姉様……」

「でもやめる前に、ただの歌い手になる前に、誰かに知って欲しかった。幼いわたしを覚えていて欲しかった。あなたになら多くの説明は要らないから選びました。ただそれだけです。巻き込んでごめんなさい、セルシオル。おやすみなさい」



そろそろと部屋を出る姉の足音を聞きながら、床に落ちた涙の痕を指でなぞっていた。








それから何年か経った。色々あった。

ユリシスの指揮のもと敵軍は壊滅した。

なんやかんやでいつの間にか大戦も終わっていた。

人々の暮らしは一向に良くならず、治安は底辺よりさらなる低みを更新し続けた。

物流の停滞により死ぬほどでもないような病の治療すらできず、大戦のさなかに死んだ母を追うように父も死んだ。

姉様は静かに泣いて、それからまた歌い続けている。

ユリシスの団体は政治団体、政党、政府へと名を変えていき社会機能の回復を図っていた。

俺はと言えば姉様が留守の間に部屋から盗んだノートの内容をできるだけ忠実に再現できるように摩訶不思議な文書の解読を頑張りつつ、時間や電力をあの手この手で何とかやりくりし、ネットワーク上に運良く残っていたツールの使い方を死に物狂いで勉強した。

その行為に意味があるとは自分でも思えなかったが、歌姫として政府の広告塔となっている姉様の凛とした佇まいを見る度に、大切なものを前に無力感に打ちひしがれていた彼女の姿が、自分の未練を幼さだと断じて捨てたあの時の涙がだぶって見えて、どうにも収まりが悪い感情をなんとか自分なりに整理しようとした結果がその行動である。

深刻なバグとかエラーとかその他諸々、俺にしかわからないすったもんだの末に、ようやく出来上がった粗末な「Dreaming World」のプロトタイプを画面に映したまま寝落ち等していた。



そして目が覚めると。


「セルシオル、わたしのセルシオル、どこにもいかないで」


すすり泣きながら全体重を乗せてくる姉様のせいで起き上がれなかった。しまった。見せるつもりなんかなかったのに。

嘘。いつかは気付かれるかもしれない、そして怒って欲しいとは思っていた。自分はもう大人になった、いちいちそんな感傷を掘り返すなと突っ撥ねられることで俺も、身内の幼さに縋り付くだけで何の役にも立たない行為を辞められると思った。叱られることで、ぼろぼろになった社会を直視して、自分のなすべきことだけに集中できるようになると思った。


つまりは想定外の反応が返ってきて混乱した。

どこで間違えたんだろう。もうとっくに大人になったはずの姉様が、あの夜よりも更に小さく見えた。


「あなたは強いですね、優しいですね、賢いですね。わたしとは大違い。なんでもできるんですね」

「何を言っているんですか。姉様に敵う人間なんかこの世界中どこにもいませんよ」

「いいえ、いいえ。わたしはもうあなたなしでは生きていけません」



さっぱり意味がわからなかった。何がどうなってそうなってしまったのか、どの時点で何を間違えたのか、考えればわかる気はした。でもわかったところで否定したいともされたいとも思わなかった。


あの姉様が。

人の心を酔わせ狂わせる姉様が。


視界の中に俺がいないだけで不安そうに目を泳がせる。

俺の服の裾をつまんで幸せそうにはにかむ。

周囲に人目がなくなるや否や背後から腰に手を回される。



たぶんこういうのは良くない、非常に良くない。良いと思ったことは一度だってない。

だけどただただ気持ち良かった。

誰からも慕われる人間から特別扱いされることが。

暴力的なほどの熱量の持ち主に依存されることが。

彼女を好く他の誰よりも彼女のことを知っていることが。

俺が存在しているせいで、俺がどんどん彼女の世界の精度を高めていくせいで、彼女が不特定多数の全人類への愛を歌えなくなって指導者ユリシスのもとを去る決断をしたことが。


変な薬でも飲まされたのかというほどに気持ち良かった。

ふわふわした夢の中にいるようだった。



夢から醒めたのは姉様の協力者が殺された時から。

姉様の賛同者が、姉様を支持する民衆が次々に殺されていった。

俺達の抵抗なんか二人の天才を抑え込めるようなものではなかった。



稀代の文化人たる大学教授も。

東大陸の覇者たる最強の傭兵も。

政府の造反者も。

力の使い場所のない抜き身の刃物みたいな子供達も。


彼等と手を取り合ったところで、殺されないようにするだけで精一杯だった。

だけどあろうことか、幸せだった。



積み上がる死体の上。

降りしきる絶望の下。

姉様がそれでも俺を手放さないことが、俺に甘える時の破滅的な笑顔が、たまらなく俺の心を満たした。


夢なんかじゃない。

俺が現実に犯している罪のせいで世界から姉様は切り離されていく。

それがとてもとても幸せだった。



誰にも渡さない。

誰にも奪わせない。





そう、今でも。







「ユリシス。貴様が姉様の命を奪おうとも、俺はそれ以外のすべてを持っている」

目の前の人物と同じ顔をした、でもまったく違う子供を背で隠す。




「セルスのことは残念でした」

「もう俺達が話すことはないはずだ」

「それもそうですね」




雨が降った気がした。

それが気のせいだと次の瞬間に理解した。

ああ、一人で斃れることにならなくてよかった。

姉様から預かったものを託せる相手がこの子なのはいくらなんでも皮肉だけれど、誰もいないよりはずっといい。



俺の名を呟く声が後ろから聞こえる。

ひどく呆然とした声だ。

それもそうか。




ユリシスの剣が俺の心臓に刺さっているから。

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