第97話 異世界転生
目の前で人が崩れ落ちても私がついに悲鳴を上げることはなかった。
それはもちろんたくさんの絶命の瞬間を見てきたからで、今まで私も手を下してきたからだ。
ひとつ違うのは、殺したのも殺されたのも私ではなく、殺したのは私のおかあさんで、殺されたのは私達側の人間だということだ。だから、悲鳴を上げる必要がなかっただけじゃない。上げられるなら上げていたかもしれない。
彼の名だけはどうにか呼べた。自分でも驚いて気が抜けるくらいに震えた声だった。駆け寄れるなら駆け寄ったかもしれない。でも全身が近付くことを拒否する。髪一本分の僅かな隙が生まれることすら本能的に恐怖していた。
そう、私は怖かった。
私と同じ顔をした人間が微笑みを崩さずに挨拶をするような自然な動作で人の命を奪えたことが怖かった。
単純な戦闘力の差、読めない精神状態。それだけでも空恐ろしいはずの要素ひとつひとつが目の前に並べられて、存在としての圧倒的な格差が見えてしまっていたのが一番怖かった。
誰かに守られて、教えられて、育てられて戦場に出る私とは根本から違う。
彼女の存在こそが戦争で、絶望で、死だ。
彼女の瞳は倒れた彼も私のことも逃しはしないだろう。
月明かりの下でもはっきりと色がわかる気がした。私の瞳はこんな冷たい青だっただろうか。
空気中に氷でできた糸が張り巡らされているような、身動きをしたら凍ってしまうような心地がした。
「ミウ」
だから、空気を少しだけでも揺らしてくれたその声に救われた気がした。
それが血混じりの呼吸が今にも止まりそうなセルシオルの声だとしても。
「逃げろ」
「いや!」
「……や、く」
「いや!」
だって、どこにどう逃げたらいいのかわからない。外はすべておかあさんの間合いな気がする。そうじゃなくてもすぐに追いつかれる。じゃあ来た道を戻る?病院の中を?物音ひとつしないのに?
セルシオルに握られた媒体に、きっと彼の大切な人の血がついているのに?彼だけがここから出られたのに?
私は後ろの建物の中で何を、誰を、どんな状態を見なきゃいけなくなるの?
最悪の想像はきっと現実にきわめて近い。
そんなもの見たいなんて思わない。
ここで死ぬならもうそれでいい。
私を助けてくれる人のいない世界で私だけ生きることなんか、私の望みどうこうじゃなく単純に不可能だ。
そう思うとこんな状況なのに腹が立ってきた。
「私だけ一人にしないでよ……!」
声に出すと同時に体中が熱くなってどんどん言葉が頭の中に溢れ出した。
セルシオルのばか。連れ出してくれるならくれるで最後まで逃げ切ってよ。よりにもよっておかあさんと二人きりにしないでよ。
だいたいセルスこそなんなのよ。自分はやりたい放題やって仲良くなったと思ったらあっさり私の知らないところで死ぬとか本当に何?
それに、おとうさん、パパ。私、もうすぐ殺されるわ。ほら、おかあさんが剣を構え直した。あと一歩踏み込むと同時にその切っ先が私の喉を突き刺すでしょう。ふざけないでよ。
言ったじゃない、私。死にたくないって、助けてって言ったじゃない。どうして肝心な時に二人ともいないのよ。
生きてるけど助けに来てくれないのなら許さないけど、二人して死んでたらもう絶対もっともっと許さない。
ここで死ぬならそれでいい?ふざけないでよ!そんな風に一瞬でも思った自分にも腹が立つ!
「おかあさん……!」
私の呼び掛けに彼女が動きを止める。無論、一撃で私を屠れる距離なのは変わりないけど。
あなたの目的は何、何のために私達を殺すの、世界をどうする気、そんなことを訊く気はなかった。どうせ定型文しか返って来ないし興味もない。
こんなのひどい、私の味方を返して、命だけは助けて、そんなことをわめく気もなかった。私の感情など彼女にとってどうでもいいを通り越して無いもの扱いなことくらい理解している。
でも熱しすぎて急にスッと冷えた頭が、ごちゃごちゃした中から言葉を選び取って私の口に運んできた。
「あなた、強いだけなの?」
あ、まずい。言っちゃいけないことだこれ。
彼女の瞳孔が思いっきり開く。おかあさんのこんな目、見たことない。笑みが消えた。
同時に剣を握った腕が伸ばされる。
その刃が私に届かなかったのは、どこからか飛んできた弾丸をおかあさんが切り伏せたからで。
その瞬間身体が浮いたのは、誰かに抱き上げられたからで。
セルシオルの顔が笑った気がしたのは、きっとその人が信頼に足る人物だったから。
その人は地面に転がる媒体を拾い、私の手を引いて病院の中に駆け込み、のろのろと階段を駆け上る。
「エフィ、無事だったの!」
「もうすぐ無事じゃなくなるさ!あーやだやだ、もうちょっと明るくて暖かい朝の光の中で小鳥のさえずりとともに死にたいものだよ!」
「まだ死ぬって決まったわけじゃない!」
自分の発言にさっきから驚いてばかりだ。絶対死ぬ。ちょっと時間を稼げたくらいでどうにもならないことはわかってる。わかってるのに、怖くて何もできなかったのに、さっき諦めそうになったのに、やっぱり嫌だって気持ちがどんどん膨れ上がっていく。
それなのにエフィの声は穏やかを通り越して呑気にすら感じられる。
「あー、君は死なないかもね。間に合うかどうかわからないや」
「え?」
「私は今日死ぬよ。もうすぐ」
「何を言っているの?」
「そういう順番だから。そういう約束だから」
「何の話をしているの、エフィ」
「前もって心からのお詫びを。置いて行ってしまったらごめんね、ミウ」
「だから何言ってるのかわからないって――」
ふと、次の階に上がってすぐ廊下の窓から光が差し込んでいるのが見えた。
光と言えば月しかない暗い暗い夜のはずなのに、陽射しすらも凌ぐような閃光が外に広がっている。
誰かが閃光弾でも使ったのかと一瞬思ったけど違う。光は7色に、ううん。きっと8万色に空気を彩っていた。
外も中も関係ない。世界そのものの鮮やかさが病的に上がっていく。
身体を支配していた重さがあったことに、それをなくした瞬間に気付く。身体に絡みつくように別の性質の重さが数として追加される。
この無機質な冷たい夜を包むような鐘の音が降り注ぎ、あるいはせり上がる。
さっき目の前で心臓を貫かれた人の声が聞こえる。外からじゃない、空から、ううん。世界そのものから呼び掛けるような、この世界のどこにいても聞こえるような、どこでもないところからの声。
その声に向かってエフィが懐かしそうに目を細めて手を伸ばす。それが上になのか前になのか、視界がぐにゃぐにゃして判別できない。
「世界は姉様の命をもって完成した。俺の命を以て発動する」
闇と彩の境。
冷と音の境。
死と声の境。
夜と開闢の境。
現実と幻夢の境。
不可侵であったはずのすべての境界がぼやけていく。線が水に溶けるように混ざっていく。
遠い空が近くに見える。星が途方もない速さで動いている。天体の回転が、運行が、人の脳には到底処理できない量で存在している。
私はもう理解していた。
私という存在を今にも切り裂いて潰しきるような情報の氾濫が、美しく敵意に満ちた質量が、何のために存在しているか。
これはDreaming Worldで、あのゲームは遊戯でも趣味でも虚構でもなくて。
この世界は本物だ。
ユリシスと共にあれない人間が生きるための、もうひとつの「本物の世界」。
「ここ」は既に誕生し、そして「いま」実在している。
ただいまーー!!!
あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします!




