第120話 マレグリット・アレイルスェンの愛すべき日々①
百年以上の時を超えて、私の体はやっと再び機能停止する。与え続けられてきた苦痛が今は嘘のように凪いでいる。幾度となくこの手で「なかったことにして」きた、命が尽きるという事象。それを主観的に理解することはこの一度だけだ。
後悔や未練と表現するに相応しいかはわかりかねるが、この身体がまだ動くと仮定した場合に次にすべき行動の経路を思い描くことができる。そしてそれが一つ残らず不可能だと改めて判断することも。
胸の奥が焼き切れるような錯覚を感じながら瞼が下りていく。
「マリー、そんなに泣かないで」
ああ、私は泣いていたのですね。ダルネ君の声がひどく鮮明に思い出せる。
彼だけじゃない。彼等はいつだって私の感情の名前を人間の言葉に翻訳した。憎悪を、憤怒を、その範囲を規定した。もし間違いがあったとしても、私はそれ以外知らない。そんな彼等は彼等と出会うまでの私を知らない。
昔の私は何を考えていたのだろう?
今の私は何を思っていることになるのだろう?
もう一度だけ思い出してみよう。彼等に教わった言葉で、彼等のいない今こそ。感情に正確性が左右される曖昧な記録こそが「記憶」だと実感を伴って知った時のように。
「やあ、大変そうだね」
エフィを喪い、フローライトとの繋がりを断った私に声を掛けた人物がいた。
それまでの私は、突如得た力によって、周りの「神」や「人」の挙動が見たことのない恐ろしいものに感じられ、彼等が多くいる場所から逃げる日々を過ごしてきた。あてどなく荒野をさ迷っていた時に、向こう側からたった一人で歩いてきた彼からは、森でも平野でも嗅いだことのない臭いがした。
「旧式AI……とチェッカーは表示しているけど、特徴は『人』そのものじゃないか。不思議だね」
「『新たなる神』が私に何の用ですか。それとも私でなく『ジェネシス』に用ですか」
「初対面でそんな不躾なことは言わないでおきたかったけど、端的に言うとそうだよ。私は大聖遺物を探しに来たんだ」
「こんなもの要りません。壊すのならどうぞ」
「壊すなんてとんでもない!」
「……これを利用したいのですね」
「本当に君は話が早いね。どうしてこれを手に入れたのか、尋ねてもいいかな」
「あなたの方でデータベースを参照してみては? 『エフィリス』を殺して奪ったのだと理解できるはずです」
「それは嘘だよ」
「嘘? 虚偽、という意味ですか。何を根拠に?」
「ただ事実を偽っているだけが嘘じゃないよ」
「と、いうと」
「心に背くようなことを言っている、そういう顔をしている」
「……理解できません」
「実感しているはずなのに理解できないのは、言葉にして来なかったからだよ。ゆっくり話そう」
「……」
「そんな不審そうな目で見なくても。私は大聖遺物を効率的に集めたいんだ。だからいちいち戦うより、話が通じる相手と協力したい」
「何のためです」
「この世界にはあまりに悲しみが多すぎる。神も人も無秩序の中で傷付いている。強大な力は自由に振るわれるのではなく、時に幸福の礎に、時に抑止力になるべきなんだ。それができる場を作りたい」
「……場?」
「フィールド、と言ってしまっては君にとっては語弊があるだろう。だから、何て言うのか。そう、街。街を作れたら」
「街。……そこでは『悲しみ』がないのですか」
「ああ」
「『悲しみ』は、どれですか」
「……君が負の感情をいくつか持っているとすればその中で、肉体の痛みを除いて、一番強く活力を奪うものだよ」
「これですか」
「幸い地道な仕事なら得意だから、後はそれを成せる力を求めていたんだ。できれば目立つ仕事をしてくれる誰かも」
「……目立つ仕事」
「私が今言ったことを繰り返し人に伝え続けるとか、自分が辛くても皆に笑いかけるとか、そういうこと。得意だったりするかな」
「得意ではありません」
「そうかあ」
「ですが、言うことが決まっているなら。身の振り方を教えていただけるなら。……本当に、本当に、『悲しみ』がなくなるのなら」
「ああ。よろしく頼むよ」
「マレグリット。……マレグリット・アレイルスェン」
「私はマセリア」
「マセリア。あなたはどうして『悲しみが多すぎる』のを知っているのですか」
「……」
「それに、肉体も激しく損傷しています」
「……そうだね、うん。いつか言えたら言うよ。今は『言いたくない』んだ」
「『言いたくない』なら『言わない』んですか」
「それでいいんだよ。ああ、その選び方も私でよかったら教えよう」
そうして私達はひときわ酷く戦禍に見舞われている土地に街を作った。私は遠く離れた場所に逃げたはずなのに、ぐるぐる回ってエフィの死に場所に戻ってきていたことに気付いていた。
私は「嘘」と「悲しみ」と「言いたくない」を実感を伴って使えるようになった。
数年後。
私は教主として一人でもそこそこやっていけるようになった。だいたいの立ち振る舞いはマセリアの言う通りだった。人々の心への寄り添い方も、距離感の線の引き方も、ジェネシスの使いどころも。
矢面に立つのはいつだって私だったが、彼に神としての格を与えるために「様」をつけて呼ぶことを二人で決めた。しかし彼は元々の目的――大聖遺物の捜索のため街を空けることが多くなり、実質私の街と言っても過言ではなくなった。
たくさんの人が死んだ。なかったことにした。循環させた。それを繰り返すうちに、穏やかで温かい「花舞う街 ラウフデル」が完成した。
さあ手と手を取り合って
皆がやさしい心をもって
永遠に続く楽園を愛しましょう
神と人を愛し慈しみましょう
森の恵みを、澄み渡る空を、絶えることのない春風を
私は定型文を繰り返し人々に言い聞かせる。それは彼等が一番望んでいる、傷付くことをやめていいと告げる安寧と祝福の言葉だ。私はそれを私が信じるかの如く、愚直に何度も繰り返した。いや、とっくに私自身も信じていたのだ。
マセリア様は人の心を乱暴に掴んで離さないようなことはないし、支配的な態度も取らず、隠し事も多く、煌びやかな存在感もない。エフィリスよりも、「セルス」の記録よりも、かつて従属と忠誠をプログラムされていた「ユリシス様」よりも、却って「嘘」が少ないと判断した。それを本人に話した際
「信用してもらえて何より」
と返された。
その時から私は「信用」を実感を伴って使えるようになった。