第98話 始まったばかりの最悪
空間を圧し潰すほどの膨大な数列が空と大地と生命を作り出そうとしている中を私は走っている。エフィが私の手を引いているけれども私の方が足が速い。
そのはずなのに、繋いだ手がすり抜けていきそうな気がする。速いとか遅いとか、弱いとか強いとかが正しく働いていないように思える。だってさっきからエフィの背中しか見えない。
だから私は言おうとした。
「こんなのはおかしい」
それは確かに私の声で、でも私が言ったんじゃない。
「認めることはできません」
この近くにいる、それでも階層が違うから声なんか届くはずない人の言葉が耳に入ってくる。
「セルスはこんなことを望んでいないはずです」
それに呼応するように空気がうねり、攻撃的な言葉となって世界に満ちる。
(貴様が姉様を語るな)
「あなたこそ彼女の一面しか見ていない」
(姉様の胸に刃を突き立てた貴様にその資格などない)
「彼女にとってそんなことが重要だったと未だに思っているのですか」
(姉様の価値観を貴様ごときに理解できるはずがない)
「哀れですねセルシオル。男の子はいつまでたっても子供です」
(姉様を貴様の手から逃すことに大人も子供もあるか!)
「……エフィ、これからどうなるの?」
よく知らない口論の内容は追及しても仕方ない。
死んだらしいセルスのことで死んだはずのセルシオルが喋ってることも結構わけわかんないけど、それもまあ置いておこう。
問題は今どうしたら生き延びられるか。
なのにエフィは返事もなくとにかく走り続けている。
虹色のようでもあり乳白色のようでもある世界。周囲の環境は色も温度も目まぐるしく変化し、何が「ある」のか、何が「ない」のかすらわからない。
ふと、エフィの足が止まる。
私も歩みを止める。すると膝から下が水に浸かっていることに気付く。
「エフィ……」
「ミウ。よかった、間に合ったみたいだ」
「間に合うって……」
「正直迷ってたんだ。ミウはどっちの世界で生きた方が幸せかなって、さっきからずっと考えてた」
「何言ってるの!?味方じゃない!今まで同じ敵をたくさん殺してきたじゃない!協力してたくさん破壊してきたじゃない!私の生まれが問題なの!?そんな今更、選択肢があるみたいに!ここDreaming Worldでしょう!?今までの世界とは違うんでしょう!?」
突き放すような言葉を必死に否定しようと背中に向かって叫ぶ。そのまま顔を覗き込もうと前に回り込んだ瞬間肩を強く押され、突き飛ばされた。後ろ向きに倒れそうになりながらそれでもエフィの顔を見る。
「そうじゃない」
エフィの目はいつも通り優しくて、涙が溜まっていて、そして――
その目でしかエフィだと分からないくらいに焼け爛れていた。
「『一度死ななければいけない』……てことが、どれだけ……痛いか……知ったんだ……よ……」
「エフィ!?どうして、さっきまで!」
さっきまでこんなじゃなかった。
ちゃんと耳と鼻と口があって、声もこんな喉を焼かれて無理矢理息を出してるようなのでもなくて、体中の皮膚だってぼとぼと落ちて血が出ているような状態じゃなかったはずだ。
エフィが掌に握っていた記憶媒体を上に向かって投げる。へたくそなフォームだ。
キン、と耳鳴りがする。
その瞬間、世界のうねりは嘘のように消え去る。
そこは夜で、病院で、とても寒くて、そして目の前には、全身に重度の火傷を負った死体が転がっていた。
「え、ふぃり……」
私の声は闇を切り裂くような轟音に掻き消される。激しい銃撃音が響き渡る。
ああ、リアナが撃っている。私達にここの状況を伝えるために合図を出して、移動して、さっき私を助けるために一発撃って、また移動して。かなり近いのが音だけでわかる。撃ち合っているんだと思う。こっちでは三人も死んでいる。SAITの替えはいくらでもいる。そんな状況だけど彼女がそれしきで屈するはずがない、そうだと信じさせてくれる人だ。信じさせてほしい。そんな言葉が浮かんでくるくらいには何も信じられなくなっていた。
セルスの考えてたこと。
セルシオルの言ってること。
エフィが死んじゃってること。
おかあさんがまだいること。
おとうさんとパパがどこかにいるかもしれないこと。
物陰でうずくまりながらぐるぐると考えている。考えている、というよりは言葉を脳内でどうにか続けている、の方が近い。こんな異常な状況じゃなくても誰の考えも読めないだろうけど、頭を動かしていないと悲鳴を上げてそこらへんの窓から飛び降りてしまいそうだった。
後ろの方でガラスが割れる音がして、そんな判断をしなくてよかったと頭の中のまだ冷静な部分が告げてくる。
ふと、静寂が訪れる。
空気が凍る音すら聞こえてきそうな沈黙が流れる。
顔を上げて割れたガラスの方を見る。変な銃痕だと思ってよく見るとそこに、セルシオルが、そして目の前にいるエフィがさっきまで握っていたはずの記憶媒体が転がっていた。まるで「外からこの部屋に撃ち込まれた」ように。
一瞬だけ躊躇って、さっと小走りでそれを拾いに行く。
確かなことは何もない。
だけど託された。そう思う気がするから勝手にそう思うことにする。
棒状のそれを拾い上げたとほぼ同時に、カツンと足音が聞こえる。
本能的に逃げたくなったけど、本能的に逃げても無駄だと判断した足が動いてくれない。
「まだこんなところにいたのですね」
「おかあさん」
怖い、そう思いながら口にしたはずの言葉。自分でびっくりするくらいに語調が強くなっていた。
夜の暗さにはとっくに目が慣れていた。階段を上がってきた彼女の服や剣についた血を見て、それからさっきより強くなっている火薬の臭いを嗅いで、自覚するより早くに感情が反応している。
彼女の剣がこっちに向けられる。ここまでかと思ったけど、ふっと足が地面から離れる。コートのフードに剣を引っ掛けて吊り下げられる形になる。首が締まりそうだけど、斬られるよりはマシだ。
死ぬ前に一発だけでも当てられる可能性が高いから。
「あの人はどこにいるか言いなさい」
そんなこと言われたけど知るか。誰のことよ。懐から取り出した銃を咄嗟に彼女の骨盤に向ける。
「私おかあさん嫌い」
「そうですか……」
彼女の表情が固まったのは私の言葉のせいでもなければ、私が発砲したからでもない。
ぶんと振り回されて、人の体ってこんなに飛ぶ?ってくらい高く宙を舞ったし、弾はめちゃくちゃな方向に飛んで行ったことが音でわかる。
ただ、壁なり床なりに叩き付けられることを覚悟したのにそうはならなかった。
「無事か、ミルフィアリス」
「おとうさん!おとうさん、おとうさん、おとうさん……!」
知っている声と腕の感触だけで、全身の力が抜けていく気がする。
横向けになった視界の中でおかあさんの腹部からは血が流れていた。
手から滑り落ちた記憶媒体も床に落ちる音がしなかったことを思い出す。
それを誰がキャッチしたのかはすぐにわかった。
「会いたかったですよ」
「あっそ」
たぶんそれは彼が私の前で発した声の中で一番低い。
でもきっといつもと同じように笑っているように思えた。ううん、確信していた。
いつも笑っていて、愛情深くて、強くて、冷淡で、残酷。
そう。この二人はよく似ている。
鏡写しのように、同じ存在であるかのように、とてもよく似ている。
「愛しています、私のミナギ」
「死ねクソ女」
空がまた暗さを増した気がした。夜明けが近いのなら早くしてほしい。なんとなくそんなことを思った。
おかあさんの剣をパパの拳が受け止めた。