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1話

 大会前の練習中に転倒した。足首の痛みはたいしたことないと思ったけど、念のために受診したら病院先で骨折と診断され、手術も必要だと言われた。

 そうして俺の最後の夏は病院で過ごす羽目になった。

 奇しくも、いや皮肉にも、俺の退院の日は大会の当日で、当たり前だけど部の誰も顔を見せやしなかった。

 母親が手続きに来るという午後までの、間の抜けた時間、なんとなく病室にいるのも嫌で、屋上へとやって来た。

 重い鉄の扉を開けたその向こう。

 病院の陰気臭さを一蹴する突き抜けた青空が広がっていた。

 その眩しい青を見たとたん、なんだか力が抜けた。

 ふらふらと何かに誘われるように屋上の端まで行くと、錆びがところどころに浮いている白い手すりに倒れこむように手をついた。

 もうすっかりやわらかくなった光が、俺の夏は終わったのだと囁いた。入院中に伸びた髪をさらう風も、熱気を失った抜け殻のようだ。

 ずっとガキの頃から走ってた。

 遊ぶのも、食べるのも、好きな子も、色んなものを我慢して、ただ一歩でも先に行くことだけを考えて走ってた。

 なのに、なのに、なんだよ。

 練習は裏切らない。

 誰かが言った言葉だった。

 確かに練習は裏切らないけど、自分の運が裏切ったのなら、やっぱり練習は無意味なんだ。

 そして、練習ばかりやってきた俺のこれまでの時間もやっぱり無駄ってことになる。

「くそ」

 唇をかむ。

 悔しさと空しさが大きな波になって飲み込みそうだった。

 もう、もう、何もかも、意味ないんだ。何もかも……。

 頬杖をついて、ふと横を見たときだった。

 まず目に飛び込んできたのは、大きく風を含んではためいている白い布だった。すぐにそれが女性のパジャマだということがわかる。自分の立っている手すりの延長線上、屋上の端に女の子がいた。

 年は自分と同じくらいだろうか。長い髪を首の付け根で一つ束ね、じっとどこかを見つめている。

 ここはよく入院患者の気晴らしの場になるから、別にそんな子がいたところで珍しくともなんともないはずなんだけど、俺は何か違和感を感じてじっとその女の子を凝視してしまった。

 なんだ? 何がおかしい?

 確かに、病院の病衣じゃないけど、私物を持ち込む人もいる。ここは総合病院だから若い子がいても変じゃない。現に俺も今日まで入院してた。なにか彼女の容姿に欠陥があるわけでもない。いや、むしろちょっと可愛いくらいだ。じゃ、どこに……。

「あ! 嘘だろっ」

 気がついたとき、俺の足は駆け出していた。

 女の子は目を瞑り、両手を軽く広げる。

 それは今まさに飛び立とうとする鳥のよう。そう、俺が感じていた違和感というのは、その子の立ち位置。その子は手すりの向こうに立っていたんだ。

「待って! 何があるのか知らないけど、早まるな!」

「え?」

 あと数歩のところで俺の口から飛び出た声に、その子は目を開け振り替える。

 俺は足を止め、今にも飛び出してきそうな心臓を握り締めるように拳を固くした。

「あのさ、良くないよ。そりゃ、辛いこともあるだろうけど、いそがなくったって人間いつか死ぬんだぜ。だったら自分で終わらせることないじゃんか」

「あの……」

 女の子は青白く固い顔だった。でも、そのつぶらな瞳は俺のほうを見ていて、明らかに動揺している。よかった、止められるかもしれない。よし、このまま畳み込むぞ! とにかく、思いとどまらせないと!

 俺は態度が軟化したのを見て取ると、再び口を開いた。

「俺だって、今、すっげー辛いんだ。でもさ、こう思わないか? こんなのいつまでも続くわけねぇって。こんな日がいつか、懐かしいって思える日が来るって」

「アナタ」

「な? だから、早まるなよ」

 自分でも何を言っているかわからなかった。ただ、必死だった。どうしてこんなに必死になったのかもわからない。でも、でも、やっぱり同じ年くらいの子が自殺だなんて……。

 女の子の体がゆっくりこちらにむいた。

 顔はまだ青白いけど、その瞳には多少の冷静さと初対面の気恥ずかしさが浮かんでいて、正気を取り戻したのを教えていた。

 俺はほっとして歩み寄ろうとしたとき、その子は口を開いた。

「違うよ」

「え?」

「別に、そんなんじゃないよ」

「だって……」

「アレ」

 その子はそういうと、柵越しに向き合った俺に何かを指差して見せた。

 それは建物の端にある、何かの赤い印だった。工事か何かのときのマーカーの名残のようにも見える。いつついた物かわからないが、随分古いもののようだ。

「アレが何?」

「アレに触ったら、未来にいけるらしいの」

「はぁ?」

 なんだそれ?

 俺はあきれてその子の顔を見たが、その子は全くふざけた様子はなく、真剣な眼差しでじっとその赤い印を見つめていた。

 それはまるで嵐の中、灯台の火を見失わんと必死に目を凝らす遭難者のようで、俺は口からこぼれそうになっていた軽口を慌てて飲み込んだ。


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