2話
その子は唇を結んだまま、しばらくそれをじっと見つめていた。口にすべき言葉を捜しているようにも見えたし、それとは逆にもう俺の存在を忘れ再び一歩宙へ踏み出す誘惑に揺れているようにも見える。
俺はとにかく、彼女の体のどこかを支えなくてはいけないと思い、そっと刺激しないように足音を潜め、慎重に柵を乗り越えた。
一方の手で柵を握り締めたまま、彼女の細い腕にそっと手を伸ばす。下は見なかった。いや、見ることなんかできなかった。ここは六階建ての病院の屋上。そして風も吹いている。横断歩道の白線の上を選んで歩くのとは違うのだ。
「未来にちゃんといるか、確認してって頼まれたの」
彼女に触れる直前、急に聞こえた声に、一瞬驚き手を止める。
彼女はそんな僕を振り返り、寂しそうな笑みを浮かべると、こう続けた。僕らを無邪気に天へ誘う強風なんか意にも介さないというような、自然な笑みだ。
「同じ病室の子でね、同じ年の三山由利って子がいるの。その子、病気でずっと入院してるんだって。学校にもいけなくて、友人もいなくて、思い出も夢もないって、いつも嘆いてた。で、その時、看護師さんからこのうわさを聞いたの。彼女、初めて私に目を輝かせてこういったわ。「私には何もない。でも、せめて未来くらい自分にはあるよね?」って。「確かめてきて」って頼むのよ。だから……」
「だから、君はこんな危険なマネを?」
そんなのおかしい! ただ病室が同じだけの子のために、噂を命がけで立証するなんて! しかも、こんな噂、眉唾もいいとこじゃないか!
俺は彼女の腕を掴むと、離さないように握り締めた。
長い間風に晒されていたのか、随分と冷たい。
「馬鹿げてる。いいから、戻ろう」
「駄目」
「どうして?」
見た目の割りに頑として動こうとしない彼女に、俺は苛立ちともどかしさを感じ、唇を軽くかんだ。しかし、彼女は目を伏せ、再びあの赤い印を見つめる。
「生きて行くには、希望が必要だから」
その時だった。
俺の背中を何かが思いっきり押した。
体に電流が駆け抜け、汗が吹き出るのを感じた時、俺の体は宙に浮いていた。
言葉を発する間もない。
彼女の髪が大きくうねっているのが見えた。
周囲の木々が怒りと悲鳴を上げるようにざわめいているのが聞こえた。
突風が俺を浚ったのだ。
彼女の目が見開かれる。
俺が彼女を道連れにする格好で、彼女の体も大きく傾いた。
彼女も何か声を上げている。
彼女の体も完全に地上とのつながりを切ってしまった。
彼女は体をひねる。
手を伸ばす。その指先が、あの赤い印に向かって伸ばされ、俺はそこで意識を失った。
ごうごうと耳に轟く風の音が、もう去っていったはずの夏の日差しの中泣き叫ぶ蝉の声に聞こえた。
冷たい。
柔らかい。
涼しい。
眩しい。
感覚が交互に去来し、俺は総じて心地よいその感覚に、まだまどろんでいたかった。
瞼の裏に感じる光と影、耳に時折届く葉擦れの音に、自分は木陰で横になっていると推測する。
誰かの手が、俺の額に触れた。前髪を寄せてあらわになった額に、冷たい布を当てている。
しっとりとした冷たさに、俺はほっとして体を弛緩させた。
「大丈夫ですか?」
「ん?」
声が上から降ってきて、俺はうっすらと目を開けた。
真っ先に見えたのは、つぶらな瞳だった。愛らしく、まつげの長い瞳。まるで、誰かの……そう、そうだ、まるであの屋上であった女の子の……って、ええ!?
頭が急速に冷えて行く。同時に視界に映る映像の輪郭がハッキリしてきて、顔が一気に熱くなるのを感じた。
「わぁつ。ごめん! あの!」
起き上がろうとする俺を、あの柔らかい手がそっと制する。どういうわけかわからないが、どうやら俺は彼女に膝枕をしてもらい、介抱されていたようだ。
混乱する俺の首筋に、あの冷たい布が再びあてられた。思わず口を噤む。どうしようという思いと、どうしたんだという戸惑いを封じられたかのように、声が出ない。そんな俺に彼女は微笑みかけ、まさに自分達の上に降り注ぐ木漏れ日のような声で囁いた。
「私は大丈夫。それより、急に起きない方がいいよ。失神してたみたいだから」
「でも、誰かに見られたら……」
「それも、大丈夫」
彼女は妙に力強くそう断言すると、ふと視線を上げた。つられて俺も視線をめぐらせた。
どこかの公園のようだった。病院じゃない。
すっかり見渡せてしまうほどの大きさではあるが、滑り台やブランコ、砂場などの遊具は一通り揃えられていて、出入り口も二箇所ある。一際目立っているのは、中央の時計台だ。見上げるほどの高さで、天辺にシンプルな四角いデジタルの板がくっついている。
周囲は高いフェンスに囲まれているが、その向こうは住宅地のようだった。デザインマンションのような、少々奇抜な印象を受ける建物が見える。
空がまだ明るいので昼間のようではあるが、人の姿はなかった。
俺はこの公園の外周を囲む草むらの中にいるらしかった。
「ここは……」
一体どこだ? 俺達はたしか、病院の屋上から落ちたはずじゃ……。記憶を辿る。なんど辿っても、最後の記憶はあの危なっかしい屋上の風景だ。じゃ、ここは、一体。
俺は再び彼女の方を見た。彼女はその前から俺を眺めていたらしく、目が合い、ちょっと気恥ずかしくなる。
「私たち、成功したみたいよ」
「え?」
彼女がそう口にしたのは、時計がちょうど2時を指し、そのシンプルなデザインからは想像できなかった可愛らしくも、幾つもの音を絡み合わせた美しいメロディーが流れ出してきた時だった。
あの出入り口の双方から、ガシャンと金属音がして、その向こうのフェンスがゆっくり開かれる。
なんだ? この公園は一体……。
驚いている間に、どこからやってきたのか、子ども達がその開けられた出入り口の向こう側から一気に公園へと流れ込んできた。
時計台からアナウンスが流れる。
「ただいまより、星葉市第21公園を開園します。15歳以下のお子様、もしくはその保護者様のみ入場が可能です。入場の際はID確認が必要ですので、フェンスを超えず、必ず出入り口から入場してください。ただいまより……」
「はぁ?」
俺は今度こそゆっくり体を起こすと、異様なアナウンスの中の、異様な光景を見つめた。
よく見ると、石つくりに見える公園の門柱の側面にランプがついていて、子ども達や母親達が入場するたびに青く点滅している。
たまに赤く光ると、駅の改札よろしくゲートがしまり、止められた人間は苦笑いをしながら、金属的なものを外し、ゴミ箱にしか見えない箱のようなものに入れていた。
なんなんだ? ここは……。
俺は理解が追いつかず、彼女を振り返る。
彼女は俺にあてていたハンカチをたたみなおしながら、俺の視線に独り言のように応えた。
「未来にきちゃったのよ。私たち」
「へ?」
「ここは、未来の公園。私たちがいた、10年後の未来よ」
彼女が指差す。
その方向に俺は目をやった。
公園の規律を無機質な声で呼びかけるそのデジタル時計に浮かぶ文字。
それを見て、俺は息を飲む。
そう、そこに表示されていたのは……
2019 9 7
14:03 ハレ




