3話:愛より毒を呑む
学院の中庭は、残酷なほど穏やかな光に満たされていた。
若葉の隙間から零れる陽光が談笑する兄弟を縁取っている。その笑顔は教会のステンドグラス越しに見る聖人のように透き通り、あまりに無垢だった。
「兄さんが……結婚?」
オズワルドの声は、やわらかな風に溶けるほど穏やかだった。
「そうだ。家柄は平民の出だが、彼女ほど僕を正しく理解してくれる女性はいないんだ」
ルーカスが歩み寄り、オズワルドの肩にそっと手を置いた。その手の温もりさえ、今のオズワルドにはどこか遠い世界の出来事のように感じられる。ルーカスの瞳に宿るのは一点の曇りもない慈愛だ。
「……オズワルド。お前もいつか、自分の意志で愛せる人を見つけてほしい。それが僕の、兄としての願いだ」
以前のオズワルドであれば、この眩しさに身を焼かれ、自らの不出来を呪っていただろう。しかし、今の彼の胸に去来するのは、震えではなく、静かであまりに深い失笑だった。
(……ああ、なんて。なんて愚かなんだ、兄さんは)
オズワルドは、心の中で密かに、決定的な断罪を下した。
ラトクリフの長男という重責。幾代にもわたって積み上げられた家門の血脈。それを「愛」などという、実体のない安っぽい感情のために投げ捨てようというのか。
父と母が、その「愛」とやらに流された結果、自分という「欠陥品」を産み落としたように。
「心から祝福するよ。兄さんならきっと、理想通りの幸せを掴み取れる」
唇から滑り落ちたのは、自分でも驚くほど滑らかで、甘やかな祝福の言葉だった。
オズワルドは今、生まれて初めて、絶対的な庇護者であったはずの兄を見下していた。
世界の真実を見通している者としての優越感。光に守られ、汚れを何ひとつ知らずに育った無垢な兄を、大人が子供を眺めるような目で見つめた。
その憐れみは、毒のように心地よく、オズワルドの心に暗い歓喜をもたらしていた。
兄たちとの眩い語らいを終え、一人静かな回廊へと足を踏み入れる。
窓から差し込む陽光は、ここでは埃を照らすだけの無機質な光に過ぎない。先ほどまで胸を満たしていた兄への嘲笑が、心地よい余韻となってオズワルドの口元をわずかに歪ませていた。
その時、前方の曲がり角から現れた初老の使用人が、よろめくようにしてバケツをひっくり返した。
バシャリ、という不快な音と共に、濁った汚水がオズワルドの磨き上げられた靴を汚していく。
「ああっ、申し訳ございません! なんということを……!」
老人は震える声で叫び、床に膝をついて平伏した。懐から取り出した布で、必死に靴を拭い始める。その卑屈な姿は、どこにでもいる無能な下働きの老人そのものだった。
しかし、靴を拭う老人の指先が、布越しにオズワルドの足首を捉えた。その力は、老いさらばえた体躯からは想像もつかないほど強く、鋭く、まるで獲物の急所を確かめるような正確さで圧迫した。
「……北の貯蔵庫、三番目の棚。ヴィクター様がお待ちです」
耳元で響いたのは、先ほどまでの卑屈な謝罪ではない。感情を徹底的に削ぎ落とし、ただ冷徹な事実のみを運ぶ、戦士のそれにも似た掠れ声だった。
老人が顔を上げた。瞬間、その濁った瞳の奥に、オズワルドは見た。
あの男――ヴィクターと同じ、光を撥ね付け、暗闇に同化した底知れぬ影を。
「……構わない。気をつけて行け」
オズワルドは短く告げると、老人を捨て置いて歩き出した。
今の今まで、オズワルドはあの男の名前すら知らなかったが、名前という記号など、瑣末なことに過ぎなかった。
歩を進めるごとに、背筋を熱い震えが駆け抜けていく。
(俺だけだ。この美しい学院が、この城が、すでに根元から浸食されていることを知っているのは)
掃除人、庭師、下働き。学院という巨大な機構を支える、名前も持たない透明な歯車たち。その歯車の中に、ヴィクターの目が潜んでいる。誰もが平和を信じて疑わないこの空間で。
自分もまた、ただ翻弄されるだけの「無価値な子供」ではない。
社会という巨大なうねりに呑み込まれる側ではなく、それを裏側から動かそうとする「意志」の一部になれたのだ。
その確信に、胃の奥が焼けるようにじわりと高揚感がこみ上げていた。
深夜の静寂は、罪を犯す者にとって最高の舞台装置だった。
学院を覆う精緻な結界。その綻びを潜り抜け、オズワルドは地下貯蔵庫の最奥へと辿り着いた。湿った空気と古い魔力の残滓が混じり合う、光の届かない揺り籠。
三番目の棚。そこには、夜空の断片を無理やり切り取って閉じ込めたような、巨大な魔法原石が鎮座していた。深淵のような黒の中に、星々が明滅するようにマナの奔流が渦巻いている。
(……これを盗み出す必要なんてない。俺自身が『器』になればいいんだ)
オズワルドは躊躇なく、冷徹な石の表面に両手を這わせた。
同時に、脳内の空間を極限まで全開にする。あのとき研究室から盗み、自分なりに昇華させた理論だった。物質そのものを収めるのではない。そこに刻まれた世界の理、魔力の構造そのものを読み取り、自らの記憶という名の檻に強制的に閉じ込める。
オズワルドは魔力をその魂の限界まで叩き出し『増幅』させた。
「ぐ、あ、あぁ……っ!!」
瞬間、脳を直接、灼熱で抉られるような激痛が走った。
強引に繋ぎ合わせた理論の継ぎ目から、逃げ場を失った魔力が火花を吹いて弾け飛ぶ。
数万、数億という呪文の断片が、神経を逆流して脳髄へと突き刺さる。血管が沸騰し、眼球が裏返るほどの衝撃。視界は溶けだし黒に明滅し、鼻腔からは鉄錆の匂いを伴った熱い血が溢れ、床を汚した。
――その激痛の中で、オズワルドは狂おしいほどに笑っていた。
(最高だ。兄さんたちのあの反吐が出るような温い愛を享受し続けるより、ずっと、ずっといい……!)
誰かの慈悲ではなく、自らの意志で、自らを壊しながら手に入れた力。脳を焼き切るようなこの苦痛こそが、自分が生きている証だった。
視界の端で、自分の指先が変色していくのが見えた。
溢れ出す強大なマナに浸食され、白かった皮膚が壊死したように黒ずんでいく。それは取り返しのつかない身体の汚染であり、魔術師としての破滅を意味するかもしれない。
だが、今のオズワルドにとっては、これこそがラトクリフ家という虚飾の檻を自ら食い破った、何よりも誇り高き「自由」の焼印だった。
焼けるような脳の熱を抱えたまま、彼は夜の帳が下りた学院を這い出した。
指定された合流地点――学院の境界を越えた先にある、人気のない裏通りの街灯の下。そこには、闇に溶け込むような漆黒の外套を纏った男が、微動だにせず佇んでいた。
ヴィクターの瞳が射抜くような鋭さと、獲物を愛でるような湿り気を帯びてオズワルドを捉えた。
「……素晴らしい。これほどまでに精密か。原石の核、その最深部にある『理』を完璧に写し取るとは。オズワルド、君は一体どんな魔法を使ったんだ?」
驚いてみせるヴィクターに対し、オズワルドは激痛の名残で震える手を、そっと背後に隠した。黒ずみ、壊死しかけた指先が、犯した禁忌の深さを物語っている。だが、その痛みさえ今の彼には心地よい。
「……『収納魔術』だ。学院では、荷物運びや給仕にしか使えないと……そう笑われてきた術だ。俺はずっと、これしかまともに使えなかったんだ」
「哀れなのは、君の真の価値に気づかぬ愚か者どもだ」
ヴィクターがゆっくりとオズワルドの手をとる。そして、その醜く変色した指先に顔を近づけ、その冷たい吐息が痛む皮膚を撫でた。
「君は『荷物運び』などではない。世界の真実そのものを飲み込み、保管するための『聖櫃』だ。……私を助けてくれてありがとう」
脳の髄までが蕩けるような感覚が、オズワルドを襲った。
兄たちは、いつも慈愛に満ちた顔で「お前の幸せを願っている」と口にした。それはどこまでも潔癖で、今の自分にはあまりに無責任な、空虚な祈りに聞こえた。
しかし、この男は違う。
この男は、自分を「必要だ」と言い、オズワルドの存在に明確な役割を与えた。
「……俺は平凡な魔力しか持てなかった。でも、俺が盗んだ『理』が力をくれたんだ。……既存の魔導書にはない、やり方で」
「ほう、興味深いな。その理論について詳しく聞かせてもらえないか? 君と同じように、持たざる者として社会から迫害されてきた同胞たちを、私は救いたいんだ」
ヴィクターの言葉は、オズワルドの孤独に深く、優しく根を張っていく。
兄たちが与えてくれたのは、身分に守られた「温い愛」だったが、ヴィクターが差し出したのは、泥の中でもがく者同士が手にする「剥き出しの希望」だ。
オズワルドは自分の中に眠る、世界の根幹を揺るがしかねない理論のすべてを、この男のためなら迷わず差し出せると確信していた。




