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1話:帰路を持たない足

 その日、オズワルドはベッドの上に仰向けで横たわり、染みひとつない天井を見上げていた。

 視界はそこにあるのに、瞼の裏側ではまるで違うものが燃え続けている。


 アルフレッドの手のひらの上で揺れていた、頼りないほど小さな蝋燭の火。風があれば消えてしまいそうな、誰にも顧みられない程度の灯。それが石壁に触れた瞬間、重厚な岩塊が音もなく白い砂へと崩れ落ちた。


 オズワルドは右手を持ち上げ、自分の手のひらを天井にかざした。指先から手首にかけて、自分の魔力を流してみる。そこにある熱は、確かに学院の同期たちの中央値あたりに位置する程度のものだ。

 アルフレッドのそれと、どれほどの差があったか。記憶の中で、あの蝋燭の光は決してオズワルドのものより大きくはなかった。むしろ小さかったかもしれない。


 胸の上で組んだ手の指が、シーツを掴むほどでもなく、ただ布の縫い目をなぞっている。世界というものは、定規のように引かれた線の上で、誰がどれだけの長さを持っているかで配分が決まる――オズワルドはそう教えられて育ってきた。


 線が短ければ、配られるものも短い。配られるものが短ければ、立てる場所も狭くなる。それだけのことのはずだった。


 なのに、あの男は線の長さを問題にしなかった。

 短い線で、世界の理に届く鍵を握っていた。


 仰向けの体の下で、ベッドが小さく軋む。

 オズワルドは目を閉じたが、あの白い砂は消えないまま、居座り続けた。


 体を起こしたのは、おそらく無意識の動作だった。長椅子の上に放り出していた制服の上着を引き寄せ、椅子を引く。木の脚が床の石を擦る音が、思っていたよりも大きく部屋に響いた。


 机の隅には、一通の手紙が置かれている。寮の管理人が午後のうちに差し入れていったものだろう。封は薄く上等な蝋で留められ、ラトクリフ家の紋章が、几帳面に中央へ押されていた。


 兄からだ。

 封を切る前から、それは指先の感触でわかった。


 ペーパーナイフを手に取り、封蝋の縁にあてがうとパリ、と乾いた音とともに、紋章が二つに割れた。中から現れた便箋は高級紙で、兄の指が確かにそこを撫でた跡まで残っているような厚みがある。


 広げると、真っ直ぐな筆跡が一行目から目に飛び込んできた。曲がる必要を一度も感じたことのない人間にしか書けない線だった。


 学院での生活を案じる言葉。父からの伝言。母が庭の薔薇を今年もよく咲かせているという報告。文の連なりは、どこにも淀みがない。読み進めるオズワルドの呼吸も、自然とそれに合わせて整っていく。


 そして、最後の一節に行き当たった。


『お前には俺たちがいる。それを忘れるな』


 指が、その一節を強く押しつぶした。

 高級な便箋に乾いた皺が斜めに走る。オズワルドは自分の指がそうしたことに少し遅れて気づいた。慌てて指を持ち上げ、皺を伸ばそうとしてやめた。一度ついた折り目は撫でた程度では戻らない。


 便箋の繊維のすみずみまで探しても、ここには兄の善意以外のものは含まれていない。それを、オズワルドは知っている。知っているからこそ、胸の奥のどこかで古い歯車が噛み合わずに軋むような音がしていた。


 引き出しの奥には、これまでに届いた兄からの手紙が何通も几帳面に重ねられ、捨てる理由のないものが増え続けていくばかりだった。


 その翌日、オズワルドは課題で借りていた書物を返しに、応用魔術学部の棟へ足を運んでいた。誰とも目を合わせず、廊下の端を歩く癖は、学院に入った最初の年に身についたものだった。すれ違う上級生の靴音が遠ざかると、廊下にはまた、自分の足音だけが残る。


 曲がり角の手前で、足が止まった。


 扉の隙間から漏れ出してくる、少し低めの落ち着いた声。あの日、演習室の扉の向こうで、オズワルドの世界を粉砕した、あの声の持ち主だった。


 心臓が、肋骨を内側から叩き始める。


 オズワルドは無意識に書物を抱え直し、廊下の壁に背を預けた。冷たい石壁が制服の布越しに肩甲骨を刺す。喉の奥が、何かを飲み込もうとするたびに焼け付くように熱い。呼吸を浅く保ったまま、視線だけを扉の方角へ向ける。隙間から漏れてくる声は、断片的で、文脈の外にあった。


 紡がれた言葉の意味の半分は、オズワルドの理解を超えていた。応用魔術学部の5年生として知っているはずの語彙のその先で組み立てられている話だった。


 オズワルドは壁から背を離せなくなった。


 書物を抱えたまま、ただ耳だけを澄ましている自分の姿を、もし誰かに見られたら――その想像が一瞬よぎって、すぐに溶けた。


 扉の向こうの会話は、淀みなく続いていた。


 廊下の反対側の端から誰かの靴音がコツコツと近づいてくる。その足音はためらいなく研究室の扉の前で止まり、性急にそれを叩いた。


「アルフレッド、レン! グレイ教授がお呼びです。先日の発表の件で、できれば今すぐにと」


 使いの学生の声が、廊下の壁に少し跳ねて返った。


 オズワルドは反射的に書物を抱え直した。曲がり角の陰へ、半歩だけ体を引く。完全に身を隠したわけではない。誰かが角を曲がってこちらへ来れば、すぐに見つかる位置だった。それでも、今のオズワルドに保てるぎりぎりの距離感だった。


 彼らは使いの学生に何か短く返事をしながら、足早にこちらとは反対側の廊下を歩き去っていった。やがて、廊下には夕方の薄い光と、オズワルドの呼吸だけが残された。


 曲がり角の陰から、扉の方角へ視線が引きずられていく。指3本ほどの幅で開いた隙間から、室内の机の角が見えた。木目の整った大きな机の上に、革で装われた1冊の帳の角が、ちょうど光を受けて浮かんでいる。


 足が一歩。書物を抱え直す動作に紛れて、もう一歩。廊下の真ん中まで進んだとき、オズワルドはやっと、自分が研究室の扉に向かって歩いていることに気づいた。


 手のひらが、扉に触れていた。

 錆びた蝶番が小さく鳴くと、扉がほんの少し奥へ押され、室内の空気が廊下の空気と入れ替わった。


 インクの匂い、紙束の匂い、何か薬品の匂いが、混じって流れ出してくる。オズワルドは扉の隙間に体を滑り込ませた。書物を抱えていた腕の力がいつの間にか抜けていた。書物が足元の床に静かに置かれる。その動作の主体すら曖昧だった。


 近づきながら、オズワルドはその帳を見ていた。装丁は質素でただ使い込まれた革の艶だけがあった。それは、アルフレッドたちの血と才能の結晶だった。


 震える指を、帳の表紙にかざす。

 触れるか、触れないかの距離で、指先が止まった。革の冷たさが、わずかに指の腹に伝わってくる。口の端が、自分でもわからないうちに歪に吊り上がっていた。


「……誰も、見向きもしなかったな。この術には」


 声は自分の喉から出たのに、自分のものではないように低く響いた。


 収納魔術に分類されている、誰も評価しなかった術式だった。情報の持ち出しに使えば足がつき、戦闘の役には立たず、ただ写経の代わりにしかならないと笑われ続けてきた術。


 他者から「お前にはお似合いだ」だと言われ、「劣等の魔法」と揶揄されてきた。オズワルド自身、自分の魔力の少なさをこの術式の中に押し込めて、外から見えないようにしてきたのだ。


 唱える必要はなく、瞼の裏側で魔力の構造を組み上げる。指先からその構造を、表紙へ、紙へ、紙の繊維へ、繊維の隙間に染み込んだインクの一滴一滴へと展開していく。展開した先で、そのすべてを、自分の脳の内側へ写し取る。帳の最初の頁から、最後の頁まで。


 文字のひとつひとつ、走り書きの癖、思考の途中で止められた矢印、欄外に書き込まれた小さな式、インクが少し滲んだ箇所、紙の繊維がわずかに毛羽立っている箇所――そのすべてが、濁流となってオズワルドの脳内に流れ込んでいく。流れ込みながら整列されたものが、消えない場所に収納されていく。


 目を開けると帳は、机の上で最初に見たときと寸分違わぬ位置にある。表紙に、指紋ひとつ残っていない。革の艶は、誰にも撫でられなかったかのように静かだった。


 オズワルドはゆっくりと一歩、後ろへ下がった。


 達成感はなく、そこにあったのは自分の喉が乾いているという感覚と、廊下の方角からまだ誰の足音も聞こえてこないという事実だけだった。


 学院の門を抜ける頃には、日はすっかり落ちていた。


 オズワルドは外套の襟を立てて、石畳の街路を歩いていた。手のひらの中にはまだ、感触が残っている。あの帳に触れたかのように指が錯覚していた。


 薬品店の前で、一度立ち止まる。


 扉のガラスに映った顔は、どこから見ても模範的な学生の顔だった。襟の留め金まで整っている。その顔が店の奥の灯りに照らされて、わずかに青ざめていた。


 店主に頭を下げ、いくつかの試薬の名を挙げる。学院の課題で必要だと説明した。店主は何の疑いもなく試薬を量り、紙袋に詰めた。


 2軒目の店では、別の試薬を買った。3軒目では、ガラス器を2つ。


 4軒目の店を出たとき、代金を払い終えた自分の指が一度も震えていなかったことに気づいた。気づいてから、それが当然のことのように思えた。震える理由など、もうどこにもないような気がしていた。


 瓶が触れ合うカチリという硬質な音が、これまで聞いてきたどんな祝詞よりも心地よく耳の奥に響く。自分の輪郭が、学院の制服という型から溶け出し、夜の街の湿った闇と混ざり合っていく感覚があった。


 街灯の光が届かない、湿った石畳。腐った何かと、古い鉄錆の匂いが、足元から立ち上ってくる。空気の質が違った。表通りの空気が広く薄く流れているのに対し、この辺りの空気は狭い場所に淀んで、ゆっくりとしか動かない。


 オズワルドは一度も振り返らなかった。

 兄たちが一生踏み込まないであろう種類の路地を、自分の足は迷わずに進んでいた。


 その路地は、突き当たりで袋小路になっていた。

 行き止まりの石壁の手前に、雨ざらしになって朽ちかけた木箱がいくつか積み上げられている。その上に一人の男が腰掛けていた。


 オズワルドの足が、そこで初めて止まった。


 男の年齢はわからない。明かりが届かない位置に座っているせいで、輪郭の方が先に視界に入る。仕立ての良い外套。それは確かなのに、立ち居振る舞いには、貴族の客間のあの種の硬さがまるでなかった。


 木箱の上で膝を組み、両手は外套の内側に収まり、背筋は楽に丸められている。長く同じ姿勢を保つことに慣れた人間の、暗がりに潜む獣のような静かさだった。


 男の視線は、最初にオズワルドの学院の制服の襟元を一撫でした。次に、外套の内側でわずかに膨らんでいる紙袋のあたりを撫で、最後にようやく顔の方へ戻ってきた。


「……ほう」


 その男の声は、場違いなほど穏やかだった。


「こんな薄汚れた場所に、迷子の若様か」


 口調に侮りはなかった。哀れみもなかった。ただ、目の前にあるものを正確に名指しただけの淡々とした声だった。


「お探しの『毒』でもあるのかな?」


 外套の内側で紙袋の角がわずかに胸に当たり、心臓がその角の位置を打ち返している。


 オズワルドの足は止まらなかった。

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