13話:伸ばしかけた手
演習場の入り口に足を踏み入れた瞬間、レンの指先を微かな震動が打った。爆音ではない。大気が小刻みに震え、肌にまとわりつく湿った熱気が漏れ出している。
「セラフィナ?」
声をかけながら踏み込むと、演習場の隅、影の落ちる場所に彼女は立っていた。
いつもなら背筋を伸ばし、凛とした構えを見せている彼女が、今は壁に片手をつき、俯いている。
「……レン? 来ないで。今は、少し……集中したいの」
声は平静を装っているが、彼女の肩がわずかに震えているのをレンは見逃さなかった。
足元を見ると、石畳の上に小さいが、深く抉れた箇所がある。熱が一点に集中して岩を噛み砕いたような、不自然な破壊の痕跡だった。
「具合が悪いのか? 今の音は……」
「大丈夫よ。少し、出力を間違えただけよ」
強気な言葉とは裏腹に、彼女の視線がふらりと彷徨う。
レンはたまらず歩み寄り、彼女の肘に手を添えた。
「顔色が悪い。休んだ方が……」
「だめ! 触らないで!」
弾かれたように彼女が腕を振る。その拍子に、彼女の指先がレンの掌を掠めた瞬間、レンの脳を突き抜けたのは、鋭い刺激と、暴力的なまでの熱の奔流だった。
ほんの一瞬、指先が触れただけなのに、レンの腕を熱い何かが駆け上がり、彼の中にある「空の器」へと吸い込まれていく。
火傷を負うほどの熱だったはずなのに、皮膚には赤み一つ残っていない。ただ、内側から心臓を直接掴まれたような、気味の悪い動悸だけが残っている。ドクン、ドクンと、自分の血流が耳の奥で騒ぎ立てる。
(今の熱は、なんだ……?)
彼女の体内で暴れようとしていた「何か」が、自分の中に流れ込んできたような感覚があった。
途端、鼓膜の奥で粘りつくようなイザベラの声が蘇った。
『一度でもあなたの空虚に、その地獄を逃がしてしまったら――』
レンは振り払おうとするが、指先には彼女の吸い付くような質感がこびりついている。
『彼女はもう、あなたなしでは形を保てなくなる』
しかし、自分という毒に依存し、縋り付かなければ呼吸さえままならない。そんな未来の彼女の姿が脳裏に過って離れず、レンは唇を噛み、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろした。
セラフィナは困惑したように息を整え、乱れた前髪を震える指で押さえた。
「……もう、大丈夫よ。少し疲れて、眩暈がしただけ」
彼女は頑なに視線を合わせようとせず、レンの手を拒むようにして背を向けた。
「本当に大丈夫。お願い、今はひとりになりたいの」
突き放すようで、縋るようにも聞こえる震えた声を絞り出した。
「……わかった。無理はしないでくれ」
レンが背を向け、出口へと歩き出したその時だった。
背後から、衣擦れの音と共に、消え入りそうな声が届いた。
「ごめんね、レン。ありがとう」
セラフィナは小さく、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
その後、研究室の机には、複雑な数式が書き殴られた羊皮紙が山を成していた。
「……これでも、ないのか」
レンの掠れた声に、アルフレッドが重い溜息で応える。ミラベルのペンを走らせる音だけが、虚しく室内に響いていた。
既存の魔法体系、熱力学の応用、既存の呪詛解体法。そのどれを当てはめても、セラフィナの刻印という「未知」には届かない。
ミラベルが眼鏡の縁を押し上げ、伏せ目がちに呟いた。
「……これは、体系化された魔法とは根源が違います。特定の家系が血の中にだけ閉じ込めてきた……秘術の類かもしれません。私の体質がそうだったみたいに」
積み上げられた知識の壁。
その高さに、レンはペンを握りしめたまま、出口のない暗闇を睨みつけた。




