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11話:マナの光に揺れる心

 かつてなら次の訓練を思い描きながら歩いたはずの帰路は今や別の気配に導かれ、理由を問えば途切れそうな衝動のまま、足だけが静かに進んでいた。


 彼がいる研究室の前に立つと、扉がわずかに開いていることに気づく。隙間から漏れる光は細い帯となって床を撫で、その奥から声が糸のように流れ出ていた。


「ここじゃなくて、もう少し奥まで」


 それは紛れもなく、レンの声だった。


「え……そんなに奥まで、ですか」


 あとから戸惑いを含んだ少女の声が重なり、その震えが空気をわずかに揺らしていた。セラフィナの足が止まり、遅れてそれを自覚する頃には、胸の鼓動がわずかに速さを増していた。


「ああ。力を抜いて。そう、そのくらいだ」


「こ、こうですか……」


「大丈夫だ、そんなに不安がらなくていい」


 言葉はやわらかく重なり合いながら、耳の奥へと沈んでいく。動けないまま、遠くを通り過ぎる足音が消えてもなお、その声だけが妙に鮮明に残り続けていた。


「……最初は誰でもうまくいかない」


「す、すみません……」


「もう少し俺の方を向いてくれ」


 胸の奥がきゅっと細く締まる。名前のつかない感覚が思考よりも先に指先を動かしていた。


「力を抜け。もっと、そうだ」


「……あの、レン。ちょっと近くないですか」


「少し我慢してくれ」


「は、はぁ……」


「そのまま、動くな」


 把手を掴む冷たい感触が遅れて意識に浮かび上がる。金属の硬さを握りしめたまま、セラフィナは息を吸い込み、衝動のまま扉を押し開いた。


「レン! こんなところでいったい何をやって――」


 言葉は途中で途切れた。


 机の上には羊皮紙が整然と広げられ、緻密な数式が静かに並び、レンはミラベルの手元を指し示しながら詠唱の角度とマナの流れを確認していた。掌の上で揺れる小さな炎が、二人の間を淡く照らしている。そこには、余計な影など一切存在しなかった。


 アルフレッドが一度だけ顔を上げ、セラフィナへ視線を向ける。しかしすぐに視線を戻し、その肩が小さく震え、こらえきれない笑いが静かに滲んでいた。


 熱が一気に顔へと押し寄せる。耳の先から頬へ、首筋へと広がる熱は、抑えようとするほどに赤みを増していった。


 振り返ったレンが、セラフィナの顔を不思議そうにほんの少しだけ見つめていた。


「……お前は一体、何を想像したんだ?」


「う、うるさいっ!」


「答えになっていないぞ」


「なんでもないわよ! レンの馬鹿!」


 声がわずかに上擦り、それを自覚した瞬間、さらに熱が深くなる。


「何をそんなに怒っているんだ……?」


 ミラベルはセラフィナを見てから、扉、レン、そして自分たちの距離へと順に視線を滑らせる。


「あの、私たちは、その――」


 震える声が空気に滲む。


「マナの流れを確認していただけなんです。詠唱の角度が合っているか、近くで見た方がわかりやすいかな、と」


「言われなくても別に、わかっているわよ!」


 セラフィナは言葉を遮る。理解しているからこそ、引かない熱を際立たせていた。


「セラフィナ、とりあえずこっちに来たらどうだ」


 レンに促され、気を立て直すように一歩踏み入れる。


「今日は体調、大丈夫なのか?」


 問いかけながら、レンは無意識に彼女の顔色を探る。額に残る汗の名残、呼吸の深さ、そのどれもを確かめるように。


「ええ、この前より幾分落ち着いているわ」


 セラフィナは軽く頷く。言葉は平静を装っているが、指先はまだわずかに力が含んだままだった。


「ところで、あなたがミラベル? 話は聞いているわ。レンと一緒に研究しているって」


 呼びかけられたミラベルは、肩をわずかに揺らした。


「は、はい……。でも、何か誤解があるようなら――」


「その話はもういいわよ……。私はセラフィナ。よろしくね」


 差し出された言葉に合わせるように、ミラベルの肩の力も少しだけ抜けた。


「セラフィナさん、ですね。よろしくお願いします」


 ミラベルは小さく息を整えるようにしてから、丁寧に頭を下げる。その仕草はどこまでも律儀で、慎ましかった。


「そんなにかしこまらなくて大丈夫よ。私のことはセラって呼んで」


 肩の力をそっと解くように紡がれたその声は、先ほどよりもわずかにやわらぎ、空気のあいだに横たわっていた距離をひとつ静かに縮めていく。


「お前もそう呼ばせてもらったらどうだ」


 アルフレッドの声音には、くぐもった笑いの余韻が滲み、わざと波紋を広げるように場へ落とされる。


「おい、アルフレッド。からかうのはよせ……」


 レンはわずかに眉を寄せ、言葉を選ぶように応じる。その表情には露骨な拒絶はなく、ただ扱いかねる何かを前にしたような、曖昧な困惑が影を落としていた。


 アルフレッドは顔を上げないまま、肩を小刻みに揺らし続けている。その様子は明らかに笑いを噛み殺しているもので、場の空気にひそやかな揺らぎを生んでいた。


 ミラベルは術を消し、両手を膝に置いた。指先がわずかに強張り、袖口をそっと引き下ろす仕草がかすかに震えている。


 セラフィナは一度だけ顔を背け、石壁の冷たい色を視界に収めながら深く息を吸い込む。ようやく熱はわずかに引き、残滓のように胸の奥へ沈んでいった。


 椅子を引く音が響き、そのまま腰を下ろす。羊皮紙の数式が目に入るが、意味は形を結ばず、意識はまだ別の場所に漂っていた。


 ミラベルが小さく咳払いをし、視線の置き場を探すように資料へ戻る。指先には、ほんのりと赤みが残っている。


 窓の外では風が木々を揺らし、葉擦れの音が遠くからさざめくように届いてくる。レンは何事もなかったかのように視線を落とした。


「続けよう」


 その一言とともにペンが走り、紙を擦る音が室内に戻る。アルフレッドの肩の揺れも、やがて静かに収まっていった。


 セラフィナは机の端に手を置き、窓の外へ視線を向ける。夕刻の光が石壁を橙に染め、その先に広がる訓練場の残像が、まだかすかに胸の奥で燻っている。


 それでも、胸の奥に残る締まりは完全には消えず、名残のように静かに居座り続けていた。


 しばらくして、ミラベルが声を落とす。レンとアルフレッドの会話は続いており、その気配はまだこちらへ届いていない。


「……あの」


 セラフィナは視線を向ける。そこにあるのは心配でも分析でもなく、ただ確かめるような静かなまなざしだった。


「ちょっと聞いても良いですか」


 ミラベルはわずかな間を置き、言葉を選ぶように静かに重ねてから、そっとセラフィナへ視線を向ける。その瞳は揺らぎながらも、何かを確かめようとする微かな意志を宿していた。


「体が自分のものじゃない気がすることって、ありますか?」


 その問いは、水面に落ちる一滴のように静かでありながら、確かな波紋を広げる。セラフィナの指先が、机の上でわずかに力を帯びていた。


「私の体、ずっと何かのために使われていたみたいで。自分のものじゃない感覚が、最近はっきりしてきているんです」


 ミラベルの告白は頼りなくも真っ直ぐで、触れれば崩れそうな均衡を抱えながら差し出される。セラフィナはその横顔を見つめ、異なるはずの軌跡がどこかで静かに重なっていることを感じ取っていた。


「……私と少し、似ているかもね」


 セラフィナの声が、ほんのわずかに低く沈む。胸の奥に沈殿していた記憶が、かすかに揺れ動く。


「私はね、刻まれた術式の痕跡が体の中に残っていて、意志とは関係なく体が動くことがあるの」


 言葉は静かに落とされるが、その裏にある重みは隠しきれず、じわりと空気へ滲んでいく。ミラベルは何も言わずに聞き、その視線は逸れることなく、ただ受け止め続けていた。


「あなたのその体質とは関連があるのかもしれないけれど……似ているようで、違う気もするわね」


 ミラベルはゆっくりと資料へ視線を戻し、口元がかすかに動く。その仕草は、言葉にならない思考が内側で揺れていることを静かに物語っていた。


 セラフィナもまた窓の外へ視線を戻す。橙色に染まっていた光は次第に深みを増し、やがて夜の気配へと溶けていく。


 胸の奥にあった締まりは、ほどけきらないまま、それでも先ほどよりほんのわずかに緩んでいた。


 そして翌日も、その翌日もまた、セラフィナの足は自然と研究棟の方角へ向いていく。確かにそこへ続く道を選び取るように歩みを重ねていった。

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