5話:役割を演じる者
その夜は、眠れなかった。
ベッドに横たわったものの、眠気は訪れない。天井を見上げたまま、昼間の廊下を反芻していた。令嬢たちの声が、まだ耳の奥に残っている。血統、遺伝子、義務。そしてリディアの面影。
——なぜ、あんなに怒ったのだろう。
いつもなら、冷静に断るだけだったはずだ。感情を表に出すことは、この学院では得策ではない。それはわかっていた。わかっていたのに。
答えは出ない。出ないまま、時間だけが過ぎていく。
やがてレンは身を起こし、上着を羽織って部屋を出た。
深夜の廊下は静まり返り、魔術灯の淡い光が石床に細長い影を落としている。足音を殺して歩くと、自分の息の音だけが妙にはっきり聞こえた。血統という言葉の重さが、昼間よりもはっきりと輪郭を持って胸に残っていた。
角を曲がった先の窓辺に、白い礼拝衣を纏った少女が立っている。
エリシア・ルミナスだった。
夜の庭を見つめていた彼女は、気配に気づくとゆっくり振り返る。その一瞬、整えられる前の素の表情がわずかに覗いた。目元に疲れがあり、唇は何かを言いかけたまま止まっていた。すぐに穏やかな面差しへと戻ったが、レンはその刹那を見ていた。
「……こんな時間に」
静かな声が、夜の廊下に落ちた。
「なんだか、眠れなくて」
レンはそう答えながら、窓辺に立つ白い礼拝衣へ視線を向ける。
「そちらこそ、こんな夜中に一体どうしたんですか」
問い返すと、エリシアはわずかに首を傾け、それから窓の外へ目を戻した。
「礼拝の後に、少し……一人になりたかったの」
柔らかな声音だったが、そのあとでふと付け足す。
「あなた、レン……だったよね? そんなにかしこまらなくていいよ、今は」
その言い方は命令というより、お互いに一歩距離を近づけるための提案のように聞こえた。聖女の声ではなく、一人の少女の声だった。
レンはわずかにためらったが、そのまま立ち止まる。窓辺の壁に背を預け、エリシアと並んで夜の庭を見下ろした。魔術灯の光が揺れ、二人の影が壁に淡く伸びた。
しばらく、何も言わなかった。
沈黙が苦ではなかった。それが少し、不思議だった。
「この学院では、みんな何かを演じているのか」
自分でも意図しないまま、言葉が口をついて出る。
エリシアはまっすぐにレンを見た。その視線は値踏みでも警戒でもなく、ただ静かに向けられている。
「演じていない人間がいると思う?」
問いは静かで、責める色はない。ただ事実を確認するような、それでいてどこか諦めに似た響きがあった。
レンは答えなかった。答えられなかったというより、答えを出す必要がないと感じた。
「今日、怒っていたでしょう」
「……聞いていたのか」
「声が響いていたから」
エリシアは淡々と言う。責めるわけでも、同情するわけでもなく、ただ聞こえたという事実だけを置いた。
「私も、あのような言葉を向けられることがあるの」
わずかに息を置いてから続けた。
「聖女というだけで価値があるから、中身は関係ないって」
レンは横顔を見た。夜の光の中で、エリシアの表情は穏やかだった。穏やかすぎて、その奥に何があるのか読めない。
「エリシアはそれで、怒らないのか」
「……もう慣れた」
短い言葉だったが、その背後にある時間の長さが滲む。何年分の、何度分の、積み重ねた慣れだろうか。
「俺には、慣れられない」
我ながら子供じみた言い方だと思った。だが、嘘をつく気にはなれなかった。
エリシアはレンを見つめ、ほんのわずかに目元を和らげた。
「慣れない方が、いいと思う」
その言葉は予想外だった。慰めでも、諭しでもない。ただ、そのままでいい、と言っているようだった。
「どうしてだ?」
問い返すと、エリシアはまた窓の外へ視線を戻した。
「慣れてしまうと、おかしいと思わなくなるから」
静かな声だった。
「私は……もうずいぶん慣れてしまったから」
それ以上は続かなかった。レンも続きを求めなかった。二人の間に沈黙が戻り、夜の庭だけが、変わらず暗い。
しばらくして、エリシアが礼拝衣の裾を揺らした。
「おやすみなさい」
「……ああ」
角を曲がり、白い影が夜の廊下に消えていく。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
一人残されたレンは窓の外を見上げる。雲間に星が瞬き、冷たい光を落としていた。
——演じていない人間がいると思う?
エリシアの問いが耳に残る。
俺が演じているのは、「魔術師」だ。
——では、彼女が演じているのは?
「聖女」だろう。
ならば、演じるのをやめた時、俺たちに何が残る。
セラフィナの声が、不意によみがえる。
——あなたは誰かのことを、ちゃんと見ることができるの?
魔術じゃなくて。その人自身を。
エリシアが今夜見せた、整えられる前の一瞬の表情。あれは「聖女」として磨き上げられた仮面ではなく、ただの少女の顔だった。
――俺は、それを見た。見てしまった。
胸の奥に小さな波紋が広がる。崇められる存在の裏側に触れてしまったという感覚と、誰にも見せるはずのない脆さを共有してしまったという事実。そのどちらもが、静かに心を揺らしていた。
部屋へ戻り、再びベッドに横になる。さきほどまでのざわめきは薄れ、静かな夜だけが残っている。目を閉じると、今度は自然に眠りが訪れた。
エリシアとは、夜の廊下で交わした言葉について、その後一度も触れなかった。昼間の彼女はいつも通り穏やかで、聖女の顔をしていた。レンもいつも通り、淡々と接した。
それでいい、と思っていた。
——秋が深まる頃、シルヴァン・ディートリヒは初めてレンを「観察対象」として記録簿に記した。
第五章:充実と疑念 ――完――




