6話:露呈
翌週の午後、実技訓練場に足を踏み入れた時、緊張に満ちた空気が敷き詰められていた。石造りの広場には訓練用の的が整然と並んでいる。
藁で作られた人型、木製の盾、石の壁――それらが無言で生徒たちを待ち構えていた。生徒たちは列を作り、順番を待ちながら互いに小声で話し合っている。
理論魔術学部でも、週に一度は実技訓練があるのだ。
「次、レン・アステリア」
教官が名前を呼ぶ。屈強な体格の男性で、戦闘魔術学部の教官が兼任しているらしい。その声には、有無を言わさぬ威圧感があった。レンは前へ歩き出す。的の前に立つと、距離は10メートルほどだった。訓練場の石畳が冷たく、足音が乾いた音を立てる。
「課題は火炎弾だ」
教官が告げる。
「的を狙って、発射しろ」
(今回は、火炎弾か……再現しようにも限界がある……)
レンは懐に小瓶を忍ばせていた。燃焼剤の粉末が入っているそれを取り出そうとして、手を止めた。
「待て」
教官が手を上げる。鋭い視線が、レンの手元に注がれていた。
「何だ、それは」
「……触媒です」
レンが答える。
「魔術を使うのに……」
「触媒?」
教官が眉をひそめる。
「火炎弾に触媒は不要だ。基礎中の基礎だぞ」
周囲の生徒たちがざわつき始める。
「アステリア家の息子なのに、まだ触媒が必要なのか?」
「まさか……」
「この前の術は、まやかしだったのか?」
ひそひそ声が耳に刺さる。レンの額に、汗が浮かんだ。心臓が激しく打ち、喉が乾いていく。教官が腕を組む。
「触媒なしで、やってみろ」
「あ、あの……俺はまだ、魔力が不安定で……」
「できないのか? アステリア家の名を背負っていても?」
とっさに出た言い訳も効かず、教官の声が厳しくなる。レンには選択肢がない。できないと認めるか、それとも無理やり何か別の方法を試すか。化学反応なしで、どうやって火を起こせばいい? レンの脳が高速回転する。
(摩擦熱? いや、間に合わない)
(静電気? それも無理だ)
「……やってみます」
レンが手をかざす。詠唱を始めた。
「炎の精霊よ……」
何も起きない。空気だけが冷たい。――当然だ。レンの内側には、燃えるべき魔力そのものが存在しない。
「我が呼びかけに応えよ……」
手のひらには何も起きない。ただ冷たい空気があるだけだ。生徒たちのざわめきが大きくなる。
「何も出ないぞ……?」
「なんだ、名ばかりで大したことないな」
「やっぱり、まやかしだったんだ」
レンの心臓が激しく打つ。このままでは――公爵の命令に背くことになる。「平凡に」という命令すら守れない。失敗作として、また処分されるかもしれない。
その時、声がした。
「待った!」
アルフレッドだった。列から飛び出してくる。
「教官!」
「何だ?」
「火炎弾は高度な術です。魔力が安定しないと再現が難しすぎます。まずは基礎の発火術から実践するべきではないでしょうか?」
アルフレッドが、レンを庇う。教官がアルフレッドを見た。
「……お前は?」
「アルフレッド・エルヴァールです」
「確かに火炎弾は難易度が高い術だが……」
教官が考え込む。やがて、小さく頷いた。
「……まあ、いい。では、発火術でいい。的の足元に、火を灯せ」
レンは安堵する。胸の奥で固まっていた何かが、ほどけていく。発火術なら――燃焼剤を地面に撒けばいい。小瓶を取り出した。
「触媒を使うのか?」
教官が再び問う。
「はい……すみません。まだ、慣れていないので」
レンが答える。教官がため息をつく。
「仕方ない。だが、早く触媒なしでできるようになれ」
「……はい」
レンは小瓶の蓋をわずかに緩め、中の粉末を的の足元へと静かに散らした。白い粒子が砂に紛れ、足元の空気をわずかに焦がす匂いを孕む。誰にも気づかれていないことを確かめると、彼はゆっくりと息を整え、手をかざした。
訓練場には張り詰めた空気が漂っている。周囲の視線が、無言の圧力となって背中に刺さった。
「炎よ、灯れ」
低く紡いだ詠唱に合わせ、レンの指先がわずかに動く。その刹那――
的の足元から橙の火が立ち上がった。小さな炎だが、確かにそこに"生まれた"火だった。
熱が揺らめき、乾いた匂いが鼻をかすめる。
しばしの沈黙のあと、教官がゆっくりと頷いた。
「火属性の初級式か。威力はないが、制御は悪くない…。合格だ」
レンは安堵のため息をつき、列に戻る。アルフレッドが小声で話しかけてきた。
「大丈夫だったか?」
「……ああ、ありがとう」
レンが小さく答える。
「助かった」
アルフレッドが笑う。
「いいって。友達だろ? 困ったときは助け合うもんだ」
友達――その言葉に、レンの胸が温かくなる。そう言ってくれる人がいる。それは思っていたより、心強いことだった。
訓練が続く。他の生徒たちが次々と術を披露し、中には見事な火炎弾を放つ者もいる。オレンジ色の炎が的に命中し、藁が燃え上がる。歓声が上がり、拍手が響く。レンは自分の無力さを改めて感じた。魔力がない。化学反応に頼るしかない。
それでも――この世界では、「魔術師」として生き延びなければ。
訓練が終わり、生徒たちが散っていく。レンとアルフレッドは並んで歩き出した。光が石畳を赤く染め始め、長い影が二人の足元から伸びていた。
「なあ、レン」
アルフレッドが真剣な顔をする。
「お前、本当に魔力が平凡なのか?」
レンの足が止まる。
「……どういう意味だ?」
「いや」
アルフレッドが首を振る。
「平凡というより……もしかして、すごく少ないんじゃないか?」
レンは答えに詰まる。鋭い。この少年は鋭すぎる。
「……まあ、な」
正直に認める。
「魔力量は……少ない方だ。だから、触媒に頼ってる」
嘘だ。触媒ではなく、化学反応だ。だが、それを言うわけにはいかない。アルフレッドがレンの肩を叩く。
「一緒に、頑張ろうな」
そう言って、アルフレッドは先に歩き出した。
ふと、その歩みがわずかに緩む。肩がほんの少しだけ揺れ、振り返ろうとする気配が生まれる。だが、それは形になる前に消えた。視線は前を向いたまま、何事もなかったかのように再び歩幅を整える。
レンは、アルフレッドの歩みが一瞬止まったことにも、その背がわずかに迷ったことにも、気づくことはなかった。
◇
その夜、レンは自室で一人、研究ノートを開いていた。
今日の失敗を、記録する。
"実技訓練、火炎弾の課題"
"触媒なしでは、何も起こせなかった"
"当然だ。魔力がないのだから"
"アルフレッドに庇われた"
"……情けない"
ペンを置く。窓の外では、星々が雲の間から顔を覗かせていた。静かな夜だ。
コン、コン。
扉をノックする音がした。
「誰だ?」
「俺だ、アルフレッド」
(こんな時間に……?)
レンは扉を開ける。そこには、アルフレッドが立っていた。手には、本を数冊抱えている。
「図書館で見つけたんだ」
アルフレッドが本を差し出した。『魔力増幅の理論』という題名だ。
「魔力が少ない術者でも、効率よく魔術を使う方法が書いてある。一緒に、研究しないか?」
レンは本を受け取り、表紙を見つめた。
魔力増幅。それは、レンには無関係だ。そもそも、魔力がゼロなのだから。ゼロに何をかけても、ゼロだ。でも――アルフレッドには、役立つかもしれない。
「……ああ。一緒に、やろう」
アルフレッドが笑顔を見せる。
「よし、じゃあ明日から、放課後、研究しよう」
「ああ」
アルフレッドが帰った後、レンは再び窓の外を見つめた。星々が雲に隠れ、闇が深くなっていく。
(友人のことは裏切りたくない……嘘も本当はつきたくない……)
でも、嘘をつき続けなければならない。その矛盾は、まだ小さな亀裂にすぎない。だがいずれ、彼自身を内側から砕く刃になる。
机の上の魔術灯だけが、淡い光を落としていた。




