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虚数の魔術師 ―魔力ゼロで転生した化学者、魔術を解明する―  作者: kuron
第3章:揺らぎはじめる均衡
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6話:露呈

翌週の午後、実技訓練場に足を踏み入れた時、緊張に満ちた空気が敷き詰められていた。石造りの広場には訓練用の的が整然と並んでいる。


藁で作られた人型、木製の盾、石の壁――それらが無言で生徒たちを待ち構えていた。生徒たちは列を作り、順番を待ちながら互いに小声で話し合っている。


理論魔術学部でも、週に一度は実技訓練があるのだ。


「次、レン・アステリア」


教官が名前を呼ぶ。屈強な体格の男性で、戦闘魔術学部の教官が兼任しているらしい。その声には、有無を言わさぬ威圧感があった。レンは前へ歩き出す。的の前に立つと、距離は10メートルほどだった。訓練場の石畳が冷たく、足音が乾いた音を立てる。


「課題は火炎弾だ」


教官が告げる。


「的を狙って、発射しろ」


(今回は、火炎弾か……再現しようにも限界がある……)


レンは懐に小瓶を忍ばせていた。燃焼剤の粉末が入っているそれを取り出そうとして、手を止めた。


「待て」


教官が手を上げる。鋭い視線が、レンの手元に注がれていた。


「何だ、それは」


「……触媒です」


レンが答える。


「魔術を使うのに……」


「触媒?」


教官が眉をひそめる。


「火炎弾に触媒は不要だ。基礎中の基礎だぞ」


周囲の生徒たちがざわつき始める。


「アステリア家の息子なのに、まだ触媒が必要なのか?」


「まさか……」


「この前の術は、まやかしだったのか?」


ひそひそ声が耳に刺さる。レンの額に、汗が浮かんだ。心臓が激しく打ち、喉が乾いていく。教官が腕を組む。


「触媒なしで、やってみろ」


「あ、あの……俺はまだ、魔力が不安定で……」


「できないのか? アステリア家の名を背負っていても?」


とっさに出た言い訳も効かず、教官の声が厳しくなる。レンには選択肢がない。できないと認めるか、それとも無理やり何か別の方法を試すか。化学反応なしで、どうやって火を起こせばいい? レンの脳が高速回転する。


(摩擦熱? いや、間に合わない)

(静電気? それも無理だ)


「……やってみます」


レンが手をかざす。詠唱を始めた。


「炎の精霊よ……」


何も起きない。空気だけが冷たい。――当然だ。レンの内側には、燃えるべき魔力そのものが存在しない。


「我が呼びかけに応えよ……」


手のひらには何も起きない。ただ冷たい空気があるだけだ。生徒たちのざわめきが大きくなる。


「何も出ないぞ……?」


「なんだ、名ばかりで大したことないな」


「やっぱり、まやかしだったんだ」


レンの心臓が激しく打つ。このままでは――公爵の命令に背くことになる。「平凡に」という命令すら守れない。失敗作として、また処分されるかもしれない。


その時、声がした。


「待った!」


アルフレッドだった。列から飛び出してくる。


「教官!」


「何だ?」


「火炎弾は高度な術です。魔力が安定しないと再現が難しすぎます。まずは基礎の発火術から実践するべきではないでしょうか?」


アルフレッドが、レンを庇う。教官がアルフレッドを見た。


「……お前は?」


「アルフレッド・エルヴァールです」


「確かに火炎弾は難易度が高い術だが……」


教官が考え込む。やがて、小さく頷いた。


「……まあ、いい。では、発火術でいい。的の足元に、火を灯せ」


レンは安堵する。胸の奥で固まっていた何かが、ほどけていく。発火術なら――燃焼剤を地面に撒けばいい。小瓶を取り出した。


「触媒を使うのか?」


教官が再び問う。


「はい……すみません。まだ、慣れていないので」


レンが答える。教官がため息をつく。


「仕方ない。だが、早く触媒なしでできるようになれ」


「……はい」


レンは小瓶の蓋をわずかに緩め、中の粉末を的の足元へと静かに散らした。白い粒子が砂に紛れ、足元の空気をわずかに焦がす匂いを孕む。誰にも気づかれていないことを確かめると、彼はゆっくりと息を整え、手をかざした。


訓練場には張り詰めた空気が漂っている。周囲の視線が、無言の圧力となって背中に刺さった。


「炎よ、灯れ」


低く紡いだ詠唱に合わせ、レンの指先がわずかに動く。その刹那――


的の足元から橙の火が立ち上がった。小さな炎だが、確かにそこに"生まれた"火だった。


熱が揺らめき、乾いた匂いが鼻をかすめる。


しばしの沈黙のあと、教官がゆっくりと頷いた。


「火属性の初級式か。威力はないが、制御は悪くない…。合格だ」


レンは安堵のため息をつき、列に戻る。アルフレッドが小声で話しかけてきた。


「大丈夫だったか?」


「……ああ、ありがとう」


レンが小さく答える。


「助かった」


アルフレッドが笑う。


「いいって。友達だろ? 困ったときは助け合うもんだ」


友達――その言葉に、レンの胸が温かくなる。そう言ってくれる人がいる。それは思っていたより、心強いことだった。


訓練が続く。他の生徒たちが次々と術を披露し、中には見事な火炎弾を放つ者もいる。オレンジ色の炎が的に命中し、藁が燃え上がる。歓声が上がり、拍手が響く。レンは自分の無力さを改めて感じた。魔力がない。化学反応に頼るしかない。


それでも――この世界では、「魔術師」として生き延びなければ。


訓練が終わり、生徒たちが散っていく。レンとアルフレッドは並んで歩き出した。光が石畳を赤く染め始め、長い影が二人の足元から伸びていた。


「なあ、レン」


アルフレッドが真剣な顔をする。


「お前、本当に魔力が平凡なのか?」


レンの足が止まる。


「……どういう意味だ?」


「いや」


アルフレッドが首を振る。


「平凡というより……もしかして、すごく少ないんじゃないか?」


レンは答えに詰まる。鋭い。この少年は鋭すぎる。


「……まあ、な」


正直に認める。


「魔力量は……少ない方だ。だから、触媒に頼ってる」


嘘だ。触媒ではなく、化学反応だ。だが、それを言うわけにはいかない。アルフレッドがレンの肩を叩く。


「一緒に、頑張ろうな」


そう言って、アルフレッドは先に歩き出した。


ふと、その歩みがわずかに緩む。肩がほんの少しだけ揺れ、振り返ろうとする気配が生まれる。だが、それは形になる前に消えた。視線は前を向いたまま、何事もなかったかのように再び歩幅を整える。


レンは、アルフレッドの歩みが一瞬止まったことにも、その背がわずかに迷ったことにも、気づくことはなかった。



その夜、レンは自室で一人、研究ノートを開いていた。


今日の失敗を、記録する。


"実技訓練、火炎弾の課題"

"触媒なしでは、何も起こせなかった"

"当然だ。魔力がないのだから"

"アルフレッドに庇われた"

"……情けない"


ペンを置く。窓の外では、星々が雲の間から顔を覗かせていた。静かな夜だ。


コン、コン。


扉をノックする音がした。


「誰だ?」


「俺だ、アルフレッド」


(こんな時間に……?)


レンは扉を開ける。そこには、アルフレッドが立っていた。手には、本を数冊抱えている。


「図書館で見つけたんだ」


アルフレッドが本を差し出した。『魔力増幅の理論』という題名だ。


「魔力が少ない術者でも、効率よく魔術を使う方法が書いてある。一緒に、研究しないか?」


レンは本を受け取り、表紙を見つめた。


魔力増幅。それは、レンには無関係だ。そもそも、魔力がゼロなのだから。ゼロに何をかけても、ゼロだ。でも――アルフレッドには、役立つかもしれない。


「……ああ。一緒に、やろう」


アルフレッドが笑顔を見せる。


「よし、じゃあ明日から、放課後、研究しよう」


「ああ」


アルフレッドが帰った後、レンは再び窓の外を見つめた。星々が雲に隠れ、闇が深くなっていく。


(友人のことは裏切りたくない……嘘も本当はつきたくない……)


でも、嘘をつき続けなければならない。その矛盾は、まだ小さな亀裂にすぎない。だがいずれ、彼自身を内側から砕く刃になる。


机の上の魔術灯だけが、淡い光を落としていた。

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