6話:友の心配
研究室へ向かうつもりで外套に手を伸ばしたとき、控えめに扉を叩く音が静かに差し込んだ。
訪ねてくる相手が限られていることは理解していたが、すぐに応じる気にはなれず、指先で布の縁を整えるという無意味な動作を挟んでから、ようやく扉を開いた。
そこに立っていたのは、予想どおり本を抱えたアルフレッドだった。
「今から研究室か?」
軽い調子で投げられた問いに反して、その視線はまっすぐにレンを捉えている。
「ああ、そのつもりだった」
短く応じて外へ出ようとするが、アルフレッドは動かない。逆に一歩だけ踏み込み、距離を詰めるようにしてレンの顔を覗き込んだ。
「顔色が悪い。昨日、無理をしすぎたんじゃないか?」
「別に問題ない」
即座に返したものの、わずかに逸れた視線が、自分の内側の状態を裏切っていることには気づいていた。胃の奥に残る鈍い重さや、浅い眠りの断片が頭のどこかに引っかかっている。
「今日は、やめとこう」
不意に差し出されたその言葉に、レンは外套を持ったまま足を止める。
「なぜだ」
「お前が、疲れた顔をしているからだ。具合、悪いんだろ」
問い返す言葉は喉元で途切れた。研究を優先する理由ならいくらでも並べられるはずなのに、それらは口にする前から重みを失っていた。
「反応式が、まだ途中なんだ……」
それでも絞り出すと、アルフレッドはあっさり頷く。
「それは明日やらないと消えるものでもない。でも、お前の身体は削れるだろ」
そう言いながら、ためらいなく部屋へ入り、椅子を引いて腰を下ろす。その仕草には遠慮がないが、何かを求める圧もない。
レンはしばらく立ち尽くしていたが、やがて外套を机に戻し、向かいの椅子に腰を下ろした。本来進むはずだった動線は霧のように消え、代わりに部屋の中の静けさがゆるやかに満ちていく。
窓の外では風が木々を揺らし、葉擦れの音が規則正しく続いている。アルフレッドは肘をつき、その揺れを眺めていた。
「研究しなくていいのか」
レンがそう問うと、アルフレッドは視線を外へ向けたまま、答えた。
「今日はいい」
その声音には特別な色がなく、ただ事実を置いただけの軽さがあった。進捗も議論も求めないままそこにいる理由が、それだけで完結していると知ったとき、レンは机に視線を落とし、インク瓶の蓋に触れたまま動けなくなる。
「お前はあまりにも、損得がないだろう」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「俺が休めば研究は止まる。お前に利益はない。なのに、どうしてだ?」
アルフレッドはわずかに眉を寄せ、考える仕草を見せてから、肩をすくめる。
「なんでだろうな。ただ、気になった」
飾りも補足もない答えは、あまりに簡単で、それ以上踏み込む余地を奪ってしまう。レンは背もたれに身を預け、天井を一度仰いでから、ゆっくりと息を吐いた。
やがてアルフレッドは立ち上がり、本を抱えたまま扉の前で振り返る。
「飯、ちゃんと食えよ」
それだけを残し、何事もなかったかのように去っていく。足音は廊下の奥へ溶けていき、部屋には再び静寂が戻った。
机の上には手つかずの羊皮紙と閉じられたままのインク瓶がある。
今日はそれでいいのだと、理由を言葉にするまでもなく理解していた。窓の外では風が変わらず木々を揺らし、その単調な音の中で、研究より先に守るべきものがあるのかもしれないという感覚が、静かに根を張り始める。
残された静けさの中に、先ほどの声だけが微かに漂っている気がした。レンはその余韻を振り払わず、ただ窓の外へ視線を向け続ける。
損得がない人間などいない。そう結論づけかけた思考が途切れた。アルフレッドにも研究という接点がある以上、利害がないわけではない。そう整理してもなお、説明しきれない何かが残る。
彼の言葉には、嘘の匂いがなかった。日常的に虚偽を重ねている自分だからこそ、それだけは確信できる。
レンは研究ノートを開き、新しい頁に一行だけ書き足した。
“友情は……制御できない変数だ”
ペン先はわずかに震えていた。その震えが寒さによるものか、別の何かなのか、自分でも判断がつかない。正しいかどうかもわからない言葉を記すのは、これが初めてだった。
魔力がゼロであること。化学反応で魔術を偽装していること。前世の記憶を持つこと。そのどれも、アルフレッドは知らない。
(俺が全てを話したら、あいつはどうする?)
問いは答えを持たないまま、静かに沈んでいく。秘密を抱えたまま進むことはできると、これまで疑わなかったが、今はその歩みが誰かを傷つける可能性を帯びていることに、わずかな実感が伴い始めている。
机上の魔術灯だけが、変わらず淡い光を落としていた。
その下でレンは迷いを押し込めるように、再びペンを握り直した。




