5話:重なる視点
放課後、学院の図書館に足を踏み入れた時、ずっしりとした静寂の重みを感じた。石造りの建物の中でも、ここは最も静かな場所だ。
天井まで届く書架が壁を埋め尽くし、無数の本が整然と並んでいる。空気には古い革の匂い、羊皮紙の匂い、インクの匂いが混じり合い、窓から差し込む光が埃を照らしてきらめいていた。
レンは書架の間をゆっくりと歩き、指で背表紙をなぞる。
『マナの基礎理論』
『術式構築入門』
『魔力制御の技法』
――どれも分厚く、年月を経た重厚な本ばかりだ。知識の海が、目の前に広がっている。
「レン!」
振り返ると、アルフレッドが手を振っていた。奥の閲覧席、窓際の静かな場所に彼は座っている。既に数冊の本を積み上げていた。
「早いな」
「ああ、授業が終わったらすぐ来た」
アルフレッドが笑顔を見せる。
「早く勉強したくてさ」
レンも席に座り、革鞄から研究ノートを取り出した。今朝の授業で取ったメモが、そこには記されている。マナの流動、術式の概念、詠唱の役割――すべてが、まだ断片的だ。だが、これから少しずつ繋がっていくのだろう。
「なあ、レン」
アルフレッドが本を開く。
『マナの基礎理論』と題された古い本で、ページが黄ばんでいる。
「マナって、どこから来るんだと思う?」
良い着眼点だな、とレンは内心で呟いた。
彼は前世の知識と照らし合わせながら考える。
「……わからない」
正直に答える。
「でも、エネルギーだとしたら、何かから変換されているはずだ。エネルギー保存則があるなら…」
アルフレッドが目を輝かせる。
「エネルギー保存則?」
「ああ」
レンがノートに図を描き始める。
「エネルギーは形を変えるだけで、総量は変わらない。熱エネルギー、運動エネルギー、位置エネルギー……すべて変換できる」
アルフレッドが身を乗り出す。
「それって……マナにも当てはまるのか?」
「たぶん」
レンが頷く。
「マナも何かから変換されている。空気中の……何か。それとも生命エネルギーか。もしくは……」
レンの脳裏に、前世の研究が蘇る。虚数態物質、負のエネルギー密度――もし、この世界にそれが存在するなら、マナは虚数態物質から生成されているのかもしれない。
だが、それを今口にするわけにはいかない。
「もしくは?」
アルフレッドが促す。
「……いや、まだ仮説だ」
レンが言葉を濁す。
アルフレッドがしばらく考え込んでから、ページの端を指でつまんだ。
「なあ、一つ思ったんだけど」
「何だ?」
「術式って、呪文の形が決まっているだろ。あれって、マナが特定の『経路』しか通れないからじゃないか? 川に溝を掘って、そこに水を流す感じで……」
レンの手が止まった。
(それは……正確ではないが、間違ってもいない)
「つまり、術式は流れる道を決めている、ということか?」
「そう! だから詠唱で意識しないといけないんじゃないかな。溝を頭の中で描いてる、みたいな」
単純な比喩だ。だがこの方向で考えれば、術式の「形」が反応の制御に対応するという仮説が成り立つ。化学反応における触媒の構造が反応経路を規定するのと、同じ論理だ。
(俺が考えていたより、こいつは……)
「面白い視点だな」
レンは珍しく素直に認めた。アルフレッドが少し照れたように笑う。
「でも、証明なんてできないよな。この世界に、証明する方法があるかどうかもわからないし」
「……それは、これから考えることにしよう」
アルフレッドが本のページをめくる。
「ここに書いてあるのは……"マナは世界に遍在する。術者は、それを集め、制御する"。でも、どうやって集めるのかは書いてない」
レンも別の本を開いた。『術式構築入門』と題された本には、複雑な幾何学模様が描かれている。円、三角形、線、記号――それらが絡み合い、まるで化学式のようだ。いや、回路図にも似ている。エネルギーの流れを規定するパターンだ。
アルフレッドの言葉が、その図と重なった。
「これが、術式か……」
レンが呟く。
二人はしばらく黙々と本を読み続け、時々意見を交わし合った。
「ここ、どういう意味だと思う?」
「たぶん、こういうことじゃないか?」
「なるほど……」
そんなやりとりを繰り返しながら、時間が静かに流れていく。
窓の外の光が徐々に傾き、やがて光の色が赤みを帯び始め、書架を照らしていた。
レンは不思議な感覚を覚えていた。前世では、一人で研究していた。誰とも知識を共有せず、孤独だった。それが当たり前だと思っていた。
だが今は違う。隣にアルフレッドがいる。共に学び、意見を交わす。これが――こんなにも楽しいものだとは。
「レン」
アルフレッドがレンを見る。
「お前って、本当にすごいな」
「え?」
「物事の考え方が、独特だ。そういう視点、俺にはなかった」
アルフレッドが真剣な目をする。
「お前と一緒に勉強できて、良かった」
レンは言葉に詰まる。
胸の奥が温かくなる、この感覚がどこかくすぐったい。
「……俺も」
ようやく答える。
「お前と勉強できて……良かったよ」
小さく、そう言った。アルフレッドが笑顔を見せる。
「よし、じゃあこれからも一緒にやろうぜ。魔術の原理、解明してやろう」
「……ああ」
レンが頷く。
二人は再び本に向かい、図書館の静寂の中で、ページをめくる音だけが響いていた。やがて――鐘が鳴る。夕食の時間を告げる鐘だ。
「もうこんな時間か」
アルフレッドが本を閉じる。
「飯、食いに行こう」
「ああ」
二人は本を片付け、元の場所に戻し、図書館を出た。
こんなふうに他愛のないことまで共有できる相手がいるという事実を、レンは廊下を歩きながらゆっくりと噛みしめていたが、その感触は想像していたよりも軽やかで、胸の奥に小さな灯がともるような余韻を残していた。
傾いた光に引き延ばされた自分の影を踏み越えるようにして、レンは歩幅を変えぬまま廊下の奥へと進んでいった。




