第3話 情報の遮断
私はティーカップをソーサーに置く際、わざと少しだけ大きな音を立てた。
カチャリ、と硬質な音がサロンに響く。
その瞬間、給仕をしていた侍女の肩がビクリと跳ねた。
彼女は私の視線に気づくと、慌てて目を逸らし、逃げるようにワゴンを整理し始める。
(……やっぱり、おかしい)
ソフィア王女との遭遇から数日が経っていた。
あれ以来、離宮の空気が変わった。
表面上は穏やかで、静かで、平和そのものだ。
けれど、その静けさは、腫れ物に触るような緊張感を含んでいる。
「マリア、今日の新聞はまだ?」
「も、申し訳ございません。配達が遅れているようでして……」
侍女長のマリアが、困ったように眉を下げる。
嘘だ。
王族の離宮に新聞が届かないなんてあり得ない。
昨日も、その前も、新聞は「紛失した」か「インクで汚れた」と言い訳されて、私の手元には届かなかった。
届いたとしても、政治面や社交界のゴシップ欄が綺麗に切り抜かれた、抜け殻のような紙面だけだ。
「そう。……では、実家からの手紙は?」
「あいにく、どなたからも届いておりません」
これも嘘だ。
実家の公爵家は取り潰されたが、かつて私が育成し、今は王宮で働いている文官たちとは、定期的に近況報告の手紙をやり取りしていたはずだ。
彼らが急に筆不精になるはずがない。
誰かが止めている。
私の目と耳を塞ごうとしている。
その命令を下せる人物など、この国に一人しかいない。
「……分かりました。下がっていいわ」
私が告げると、マリアたちは逃げるように退室していった。
広いサロンに、私だけが取り残される。
ソフィア王女は、私に言った。
『あなたは、彼のために何ができますの?』と。
あの言葉が、呪いのように耳にこびりついている。
彼女は今頃、社交界で何をしているのだろう。
私のことを何と言っているのだろう。
それを知ることさえ、今の私には許されていない。
守られている。
大切にされている。
頭では分かっているのに、胸の奥で黒い感情が渦を巻く。
これは「保護」ではない。「隔離」だ。
私は信頼されていない。
ただの妊婦として、壊れやすいガラス細工として、棚の奥にしまわれているだけだ。
***
夜、クラウス様が帰宅した。
私は今日こそ、彼に問い詰めようと決めていた。
何を隠しているのか。
外で何が起きているのか。
私にも聞く権利があるはずだと。
「ただいま、ミズキ。……ああ、君の顔を見ると生き返るよ」
寝室に入ってきた彼は、私を見るなり安堵の表情を浮かべ、吸い寄せられるように抱きついてきた。
その体は、以前よりもひと回り小さくなったように感じるほど痩せていた。
即位式の準備と、ソフィア王女への対応。
その激務が、彼の精神と肉体を削り取っている。
「おかえりなさいませ、クラウス様。……とてもお疲れのようですね」
「少しな。だが、君とこうしていれば回復する。君は私の特効薬だからな」
彼は私の首筋に顔を埋め、深呼吸をする。
その声には、縋るような響きがあった。
「……ねえ、クラウス様。最近、新聞が届かないのですが」
「ん? ああ、配送の手違いだろう。気にしなくていい」
「侍女たちの様子も変です。まるで私に何かを隠しているような」
「気のせいだよ。君が妊娠中で敏感になっているだけだ」
彼は顔を上げず、さらりと受け流した。
その口調は優しかったけれど、明確な「拒絶」が含まれていた。
これ以上踏み込むな。
知らなくていい。
君はただ、ここで大人しく寝ていればいい。
そう言われている気がした。
「でも……」
「ミズキ」
クラウス様が私の言葉を遮り、強い力で抱きしめた。
「お願いだ。余計なことは考えないでくれ。君とお腹の子が無事でいてくれること。それだけが私の望みなんだ。外の雑音なんて、君の耳に入れる価値もない」
耳元で囁かれる愛の言葉。
それは甘い麻薬のようで、同時に冷たい鎖のようでもあった。
彼の腕の中で、私は口をつぐんだ。
反論できなかった。
彼のこの疲労困憊した姿を見て、さらに追い詰めるようなことは言えなかった。
彼は彼なりに、必死で私を守ろうとしているのだ。
その善意を否定することは、今の私にはあまりに残酷に思えた。
やがて、彼の呼吸が規則正しくなり、寝息へと変わった。
私の「鎮静」の魔力が、彼の不眠を癒やしているのだ。
私は彼を眠らせることはできる。
でも、彼の隣で共に戦うことは許されない。
(……このままでは、駄目です)
私は眠る夫の背中を見つめながら、拳を握りしめた。
このまま「守られるだけの妻」でいれば、私は一生、鳥籠の中だ。
ソフィア王女の言う通り、彼の足手まといになり続けるだけだ。
悔しさが、熱となって体中を駆け巡る。
私は元社畜だ。
理不尽な状況には慣れているし、それを打破する方法も知っている。
正規のルートが塞がれているなら、裏道を使えばいい。
私はベッドからそっと抜け出し、サイドテーブルの引き出しを開けた。
そこには、刺繍の練習用という名目で取り寄せた、便箋とペンが入っている。
宛先は、エルヴィン。
かつて私が実家の領地経営を裏で回していた時、手足となって動いてくれた優秀な部下だ。
今は王宮の財務省で働いているはずだ。
彼なら、今の状況を正確に把握しているだろうし、私の手紙を検閲官の目を盗んで受け取る知恵もあるはずだ。
ペンを走らせる。
震える指を叱咤し、簡潔に、しかし切実に要件を記す。
『現状を教えてほしい。私は何も知らないまま、ここで腐りたくない』と。
書き終えた手紙を小さく折り畳み、私はそれを翌日の洗濯物のカゴの底、シーツの結び目の中に隠した。
この離宮の洗濯係には、エルヴィンの親戚がいると以前聞いたことがある。
薄い可能性だが、賭けるしかない。
ベッドに戻り、再びクラウス様の隣に横たわる。
彼の温もりは心地よい。
けれど今夜は、その温もりに甘えるわけにはいかない気がした。
私は初めて、夫に隠し事をした。
その背徳感と、自分の意思で動いたという高揚感が、私の眠気を遠ざけていた。
私はもう、ただの抱き枕ではいられない。




