第2話 隣国の王女
「あら、本当にここには誰もいないのね。まるで忘れ去られた鳥籠みたい」
数日後。
私は離宮の庭園で、予期せぬ人物と対峙していた。
その女性は、冬の湖のような冷ややかさと美しさを纏っていた。
プラチナブロンドの髪は一糸乱れぬまとめ髪にされ、身につけたドレスは装飾こそ少ないものの、最高級の織物であることが一目で分かる深い藍色。
背筋を伸ばして立つ姿は、一本の氷柱のように研ぎ澄まされていた。
隣国スノーランドの第二王女、ソフィア殿下。
今回の外交使節団の代表であり、かつて私の夫であるクラウス様の婚約者候補だった女性だ。
なぜ、彼女がここにいるのか。
私は体調を理由に、公式の歓迎式典や面会を全て免除されていたはずだ。
だからこそ、こうして気晴らしに庭へ出ていたのに。
「ソフィア殿下……どうしてこちらへ?」
私が尋ねると、彼女は氷のような薄い青色の瞳で私を見下ろした。
敵意というよりも、値踏みするような視線だ。
「散策していたら迷い込んでしまったの。この国の警備は随分とザルなのかしら? それとも、王族の顔パスが効きすぎたのかしらね」
彼女は優雅に扇子を揺らした。
嘘だ。
ここは離宮の奥深く、一般人が迷い込める場所ではない。
明らかに意図してここまで来たのだ。
私の背後で、護衛の近衛騎士たちが剣の柄に手をかけて緊張している。
しかし、抜くことはできない。
相手は同盟国の王女。
無礼な振る舞いをすれば、即座に国際問題に発展する。
「下がりなさい」
ソフィア王女が、私の護衛たちに向けて短く命じた。
その声には、有無を言わせぬ絶対的な響きがあった。
生まれながらにして人の上に立つ者の声だ。
「し、しかし殿下、我々は王太子妃殿下の警護を……」
「女同士の話よ。野暮な男は耳を塞いで遠くにいなさい。……それとも、スノーランド王家への侮辱と受け取ってよろしいのかしら?」
騎士たちがたじろぐ。
彼らは私を見た。
私は小さく頷いた。
ここで騒ぎを起こしては、クラウス様の顔に泥を塗ることになる。
それに、彼女が私に物理的な危害を加えるとは思えなかった。彼女は合理的だという噂だ。そんなリスクを犯すメリットがない。
騎士たちが渋々といった様子で、聞こえない距離まで後退していく。
風の音だけが残った。
「初めまして、ミズキ様」
二人きりになると、ソフィア王女は完璧なカーテシーを披露した。
その動作一つにも、洗練された教育と自信が滲み出ている。
「お噂はかねがね。……『眠り姫』と伺っておりますわ」
「眠り姫、ですか?」
「ええ。一日中ベッドに臥せって、何もなさらないとか。公務も、社交も、外交も。ただ王太子殿下に愛され、守られているだけの、幸せなお姫様」
彼女の口調は丁寧だったが、そこに含まれる刺は鋭かった。
心臓の奥を、細い針で突かれたような痛みが走る。
「今は……少し体調が優れないものですから、殿下のご配慮で休ませていただいているのです」
「妊娠されているそうですわね。おめでとうございます」
彼女は私の腹部に視線を落とした。
祝いの言葉に、温度はない。
「でも、世継ぎを産むことだけが王妃の仕事ではありませんわ。あなたの夫、クラウス殿下は次期国王。その隣に立つ者は、共に国を背負い、導く者でなければなりません」
ソフィア王女が一歩、私に近づく。
冷たい香水の匂いがした。
「わたくしがクラウス殿下の婚約者候補だった頃、彼とは何度も議論を交わしました。貿易のこと、魔道具の技術開発のこと、国境の警備体制のこと……。彼は優秀ですが、一人で全てを抱え込むきらいがある。だからこそ、対等に渡り合えるパートナーが必要なのです」
彼女の言う通りだ。
クラウス様は激務に追われている。
私がマニュアルを作って効率化しても、次から次へと新しい仕事が降ってくる。
彼はそれを一人で処理し、私には「寝ていていい」と言う。
「あなたは、彼のために何ができますの? ただ彼の重荷になり、過保護に守られ、鳥籠の中でさえずるだけ?」
「私は……」
言い返そうとした。
私は無能ではない。
実家の領地経営を立て直し、王太子妃になってからも事務処理の改善案を出してきた。
私の「鎮静」の魔力だって、彼の不眠を治し、国益に貢献しているはずだ。
けれど、言葉が出てこなかった。
今の私が「何もしていない」のは事実だからだ。
ここ一ヶ月、私は離宮から一歩も出ず、書類の一枚も見ていない。
ただ食べて、寝て、庭を眺めているだけ。
それは私が望んだスローライフだったはずだ。
でも、それを他国の王女に「気楽なご身分」と断じられた時、私は反論できなかった。
彼女の言う「対等なパートナー」という言葉が、あまりに眩しく、今の私には遠く感じられたからだ。
「……随分と、厳しいことを仰るのですね」
「事実を申し上げたまでです。この国のためを思うなら、ご自分の在り方を考え直した方がよろしいのではなくて?」
ソフィア王女は扇子を閉じ、くるりと背を向けた。
「長話をしましたわね。お体、大切になさって。……これ以上、彼の手足を縛らないためにも」
彼女は一度も振り返ることなく、去っていった。
遠くで待機していた騎士たちが、慌てて私の元へ駆け寄ってくる。
「ミズキ様! ご無事ですか!?」
「何か無礼なことを言われませんでしたか!?」
騎士たちの心配そうな顔。
私は力なく笑って首を振った。
「ええ、大丈夫よ。……ただのご挨拶でしたから」
大丈夫なわけがない。
私の心は、冷たい氷水を浴びせられたように冷え切っていた。
***
その日の夜。
クラウス様が帰ってきた。
「ただいま、ミズキ。今日はいい子にしていたか?」
いつものように、彼は私を抱きしめる。
その温もりは変わらない。
けれど、私は彼の腕の中で、どうしてもソフィア王女の言葉を振り払うことができなかった。
『あなたは、彼のために何ができますの?』
私はクラウス様の背中に回した手に力を込めた。
言いたいことは山ほどある。
ソフィア王女が来たこと。
悔しかったこと。
私がただの飾り物だと思われていること。
でも、言えなかった。
言えば、彼は激怒するだろう。
ソフィア王女に抗議し、外交問題に発展するかもしれない。
私の警備をもっと厳重にし、二度と誰とも会わせないようにするかもしれない。
それは、私の望む解決ではない。
彼に守られることで、私のプライドが守られるわけではないのだ。
「……ミズキ? どうした、顔色が悪いぞ」
クラウス様が私の顔を覗き込む。
心配そうな、優しい瞳。
その優しさが、今は少しだけ痛い。
「いえ、なんでもありません。少し、お昼寝が足りなかったのかもしれません」
私は嘘をついた。
こんな些細なことで彼を煩わせてはいけない。
私は「鎮静」の妻なのだから。
彼を癒やすのが仕事で、悩ませるのは仕事ではない。
「そうか。なら、すぐに寝よう。私も今日は疲れた」
クラウス様は私をベッドへ誘う。
最高級の寝具に包まれ、愛する夫の隣で目を閉じる。
いつもなら、数分で意識が途切れる至福の時間。
けれど今夜は、ちっとも眠気が訪れなかった。
瞼の裏に、凛と立つソフィア王女の姿が焼き付いている。
彼女の隣に並ぶなら、きっとクラウス様はお似合いだっただろう。
有能で、美しく、対等な二人。
それに比べて、私は。
(……悔しい)
胸の奥で、小さな火種が燻っているのを感じた。
それは嫉妬なのか、それとも元社畜としての意地なのか。
まだ正体は分からないけれど、確かな熱を持って私を焦がしていた。
私は寝返りを打ち、すやすやと眠るクラウス様の背中を見つめた。
この安眠を守りたい。
でも、ただ守られているだけの自分ではいたくない。
矛盾する思いを抱えたまま、私は長く眠れない夜を過ごした。
そして、私の知らないところで、ソフィア王女は着々と次の手を打っていたのだ。




