第1話 過保護と鳥籠
(……ここは刑務所でしょうか。いいえ、愛の巣です)
私は心の中で自問自答を繰り返し、ふぅ、と重たい溜め息をついた。
窓の外には、抜けるような青空が広がっている。
絶好のお散歩日和だ。
私が丹精込めて育てたハーブ園では、ラベンダーが見頃を迎えているはずだ。
それなのに。
「ミズキ様、どちらへ?」
私がバルコニーへ続く窓に手をかけた瞬間、背後から鋭い声が飛んできた。
振り返ると、侍女長のマリアが立っている。
その背後には、屈強な近衛騎士が二人、扉を塞ぐように控えていた。
「少し、お庭へ出ようかと。風が気持ちよさそうですし」
「なりませぬ」
マリアは即答した。
にっこりと微笑んでいるが、その目は笑っていない。
「本日は北風が吹いております。お腹の赤ちゃんに障ります」
「そよ風程度ですよ?」
「万が一、風邪でも召されたら一大事です。殿下に顔向けできません」
「……では、温室ならどうですか? あそこなら風もありませんし」
「温室への道のりに、三センチほどの段差がございます。転倒の危険があります」
三センチ。
私は自分の足元を見た。
ヒールのない、ふかふかのルームシューズを履いている。
これで三センチの段差につまずくようなら、私は人間として何かが終わっていると思う。
「マリア、過保護すぎませんか」
「殿下のご命令です。『妃が歩く先にある小石は全て除去しろ。さもなくば貴様らを排除する』と仰せつかっております」
排除。
物騒な単語が出た。
しかも、あの旦那様なら冗談ではなく本気でやりかねないのが恐ろしい。
妊娠が判明してから一ヶ月。
私の生活は激変した。
かつては「放置」と「丸投げ」が基本だった契約結婚。
好きなだけ寝て、好きな時に起き、気が向けば庭いじりをする。
そんな最高のスローライフは、あの日を境に消滅した。
今の私は、最高級の綿に包まれた宝石のように扱われている。
触れることすら躊躇われ、移動する時は常に誰かの手や輿が用意される。
ありがたいことだ。
愛されている証拠だ。
分かっている。
でも、息が詰まる。
「……分かりました。部屋で本を読みます」
私は諦めて窓から手を離した。
マリアたちが安堵の息を漏らすのが聞こえる。
私はソファーに座り込み、読みかけの本を開いた。
文字が上滑りして、ちっとも頭に入ってこない。
私はただ、ハーブの香りを嗅ぎたかっただけなのに。
***
夜になり、クラウス様が公務から戻ってきた。
即位式を控え、彼の忙しさは殺人的だ。
それでも、必ず夕食の時間には離宮へ戻ってくる。
「ただいま、ミズキ。……変わりはないか?」
寝室に入ってきた彼は、開口一番そう言った。
美しい銀髪は少し乱れ、目の下には薄っすらと隈がある。
疲れているのだ。
それなのに、真っ先に私のお腹に視線を向け、無事を確かめるように安堵の息を吐く。
「おかえりなさいませ。ええ、何もありませんよ。部屋から一歩も出ていませんから」
少しだけ、棘のある言い方をしてしまったかもしれない。
けれど、クラウス様は気にする様子もなく、私の隣に座り込んで抱きついてきた。
「そうか。いい子だ」
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
彼の体温を感じると、苛立ちがしゅわしゅわと溶けていくのを感じる。
やっぱり、この人のことは好きだ。
だからこそ、今の状況がもどかしい。
「……クラウス様。少し、相談があるのですが」
「なんだ? 欲しいものでもあるのか? 新しいドレスか? それとも果物か?」
彼は私の顔を覗き込み、子供をあやすような口調で言う。
違う。
私が欲しいのは、物ではない。
「お散歩の許可をいただきたいのです。お医者様も、適度な運動は必要だと仰っていましたし」
「駄目だ」
即答だった。
先ほどの甘い雰囲気は消え、その瞳には冷徹な王太子の光が宿っている。
「外は危険だ。何が起きるか分からない」
「ここは離宮ですよ? あなたの結界と、精鋭の騎士たちが守っています。これ以上ないほど安全な場所です」
「それでもだ。もし君がつまずいたら? 蜂に刺されたら? ……もし、私がいない間に君に何かあったら、私は生きていけない」
クラウス様の手が震えている。
彼は私のお腹に額を押し当て、祈るように呟いた。
「お願いだ、ミズキ。私の目の届かないところに行かないでくれ。君たちを失う恐怖で、気が狂いそうなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私が用意していた反論は喉の奥に引っ込んでしまった。
彼の過保護は、単なる支配欲ではない。
深い愛情と、それを失うことへの恐怖から来ている。
かつて孤独だった彼にとって、私とこの子は、ようやく手に入れた「家族」なのだ。
それを守ろうと必死になる彼を、どうして責められるだろう。
(……私が我慢すればいいだけです)
私が大人しくしていれば、彼は安心する。
彼が安心して眠れるなら、それが一番だ。
私は「鎮静」の魔力を持つ妻なのだから。
「……分かりました。無理を言ってすみません」
私は彼の頭を優しく撫でた。
クラウス様は安心したように目を閉じ、私の掌に頬を擦り寄せる。
「分かってくれて嬉しいよ。君は私の全てだ」
愛の言葉。
甘く、重く、絡みつくような響き。
以前なら、ただ嬉しかったはずのその言葉が、今は少しだけ鎖のように感じられた。
対等なパートナーになりたいと誓ったはずなのに。
今の私は、彼にとって「守るべき弱者」でしかない。
籠の中に閉じ込められ、餌を与えられ、愛でられるだけの鳥。
それが幸せなことなのかもしれない。
多くの女性が望む、溺愛の形なのかもしれない。
でも、私の心の中にある「何か」が、違うと叫んでいる。
私は元社畜で、悪役令嬢で、自分の足で立って生きてきた女だ。
ただ守られるだけの存在になることに、本能が警鐘を鳴らしている。
「今日はもう寝よう。君も疲れただろう」
クラウス様が私を抱き上げ、ベッドへと運ぶ。
抵抗はしない。
されるがままに布団に包まれ、彼に抱きしめられる。
温かい。
心地よい。
けれど、心の一部だけが冷たく覚醒していた。
***
翌朝。
クラウス様が出勤した後、マリアが一通の手紙を盆に乗せて持ってきた。
「ミズキ様、お客様より招待状が届いております」
「招待状?」
珍しい。
私の妊娠はまだ公表していないし、そもそも私は社交界から距離を置いている。
個人的に手紙を送ってくるような友人はいないはずだ。
私はベッドの上で身を起こし、その封筒を受け取った。
上質な紙だ。
封蝋には、雪の結晶を模した紋章が押されている。
これは、北の隣国――氷雪の国スノーランドの王家の紋章だ。
「差出人は?」
「ソフィア・フォン・スノーランド王女殿下。……先日、外交使節団として来訪された方です」
ソフィア王女。
名前だけは聞いたことがある。
確か、「氷の王女」という異名を持つ、非常に聡明で冷徹な方だと。
なぜ、そんな他国の王女様が、引きこもりの私に?
嫌な予感がした。
平和な鳥籠の中に、冷たい隙間風が吹き込んできたような感覚。
私はペーパーナイフを手に取り、封を切った。
その手紙が、私の「守られるだけの生活」を終わらせるきっかけになるとは知らずに。




