第15話 妖精公爵は眠りにつく
リディアは息を切らせて、広がった「お伽噺の世界」を駆けた。
辺りは数度来たときのように春のように花咲き誇り、しかし走っているせいなのか一筋冷たい空気がよぎった気がした。
走りに走ってようやくたどり着いたのは「お伽噺の世界の家」で、早く早くとそれだけしか考えず飛び込んだのは妖精公爵のいる部屋だった。
「こんにちは、小さな陛下」
春の気候のような穏やかな声がリディアを出迎えた。
ドアを開け放したときのまま、肩で息をしているリディアは灯りがないのに明るい室内、光を纏っている妖精を目にして荒く息を吐いて吸う。
「本日は珍しく泣きそうなお顔をなされておりますね」
透き通る翠、優しいふんわりとした笑顔。
その美しい手が向けられ伸ばされ、リディアは一時的に止まっていたらしい涙がぽろぽろとどんどん目から流れ落ちることを感じる。
よろりと誘われ引き寄せられるように一歩足を前に出せば、ベッドにまで止まらず着く。寄りかかる。
「いらっしゃってくださったことを感じて開けさせていただきましたよ」
この妖精が「扉」を開けてくれたのか。
何か言おうとはしているのに、声は喉よりももっと奥で塊になっているみたいに出ずリディアは真っ白な毛布を握りしめ見上げるだけ。
妖精公爵がその手で涙を流しっぱなしにするリディアの頬を羽が触れるように撫で、頭を撫でる。
翠の瞳は温かい色。
もっと近づきたくてたまらず手を伸ばすと、それが分かったように脇に手を差し入れられてベッドに上がることになり、リディアはそのまま妖精に抱きついた。不思議な温かさがじわりと伝わってきて涙が止まらない。
「私もこうなっていなければ陛下の元へ参りたいのですが……」
ぽんぽんと背を宥める手つきで触れられ、首を横に振る。
「……セオフィラス…………グレンが」
「ええ、そうですね。あの子は行ってしまいました」
肯定の言葉に妖精の衣服を握りしめる。触ったことのないような、絹でもないさらさらとした感触。とらえどころのないそれを掴む。
「ですがあの子は帰ってきますよ。小さな陛下、あなたの元に」
「……私のところに?」
「ええ、必ず。グレンはそう言いませんでしたか?」
顔を少しだけ離して見上げると、こちらを見下ろす妖精の微笑みと翠の輝きに出会う。
――「すぐに帰ってくる。約束します」
彼は、そう言った。
「……言っ、た」
呟くと、妖精はひとつ頷いた。
「……帰ってくる?」
「帰ってきますよ。グレンはそういう子ですからね」
「いつ」
「それは分かりませんが、時はじっとしていても過ぎていくものですから待っていれば帰ってきますよ」
染み渡る響きをもつ声は、リディアにじわりじわりと安心感を与えてくれる。小さな子どもをあやすように抱いて不思議な温もりで包み、優しい目で見つめ、全てを拭い去ってくれる。
リディアは自分の意思でどうにもできなかった涙が止まっていることに気がついた。小さな妖精が筋の跡に集まり、涙の通った感覚を消してゆく。
「小さな陛下、ご不安だったのでしょう」
誰に言われても不安でしかなかった。
きっと帰ってくると。待っていれば帰ってくると。同じようなことを言われたこともあったのに、今ほど心の中にはびこる不安を拭い去ってくれるものがあったろうか。
震えるほどに布を握りしめていた手にやんわり触れられると力が抜ける。そのまま、大きく広い手で包み込まれる。
かつて、彼の「息子」がそうしてくれたと同じく。しかし、少し異なる温もりで。
「陛下、お願いしたいことがあるのです」
「なに?」
「グレンのことです」
「グレンの……?」
「グレンは人間でもありますが、妖精であると言ったことを覚えていらっしゃるでしょうか?」
「うん」
妖精が「お願いしたいこと」と言うので落ち着いたリディアは首を傾げる。
「あの子は、私も止めようとしましたが行ってしまいました」
グレンはここに来ていたのだ。おそらく、リディアに会うより先に。
だから、見慣れない格好をしてリディアの前に現れた彼は小さな妖精を周りに連れていたのだ。
「妖精は繊細です。
昔はもっと妖精は多くいたのですが、時代と共に減りました。
時が過ぎるにつれ血なまぐさい争いが増え、そのたびに妖精は消えていきました。私たちが結びつく大地にそれが染み込み、存在できる場所も限られました。
妖精にとって血というものは穢れと言うべきもので、穢れに妖精は弱いのです。今も、小さな妖精が彼らだけでここを出ていけば存在できない世界となってしまったくらいなのです」
「そんなに……?」
妖精は深く頷いた。
「あなたの父君である陛下はお妃様が亡くなられたおり、妖精も衰退し王家の血筋が途絶える運命だとおっしゃられていました。新たにお妃を迎えることもせず……あなたのことはお知りではなかったのでしょうね。私も、妖精の意思はもう受け継げないと諦めていました」
「どうして? 妖精はいるのに」
「この地に強い繋がりをもつ妖精はもう生まれないのです」
「でも、グレンは……」
「彼が幼き赤子だった頃、無垢な赤子はすぐにその身に私たちの力を受け入れ人間と妖精の間の存在となりました。特によく抱いていた私の力を……それが明らかになったとき、私はある可能性を見いだしたのです」
優しく、優しくリディアに微笑み続ける妖精はリディアの頭を髪を撫でて目を合わせて語り続ける。
「これから妖精なき世が近い将来にやって来るでしょう。妖精が必要ない世が、くるのですよ」
変わらず穏やかな声。
しかしそのとき、リディアは肌寒さを感じた。寒い。
ここで、そんなこと感じたことないのに。
妖精公爵にばかり向けていた目をはじめて部屋内に巡らせてみて、息を飲む。
部屋が薄暗くなっている……なぜかぞっとして急いで妖精公爵に目を戻すとさっきは分からなかった、変化に気がつく。纏う輝きが翳っている。ずっと見ていたから、分からなかったのか。
宥められていた不安が芽を出し、妖精の衣服を捕まえる。
だが、妖精公爵自体は変わらない様子で話し続けている。
「私もまだあり続けますが、消える日が来るでしょう」
「うそ」
「もしかするとグレンは妖精の意思を受け継ぐことができるかもしれない。妖精の少なくなった世にあのような子が私たちの前に現れたのはそのためだったのかもしれない。
――結果、グレンは妖精の意思を引き継ぐことができ妖精が消える準備はできました」
「そんなこと言わないで。セオフィラス」
手が温い。わずかに温かさが薄れてきている。
どうして。
リディアは反対に手を包み返した。
「グレンは変わりました。陛下に会って」
「セオフィラス、手が、」
「妖精は王が傷つくことを悲しみます。しかし守ることはできません。妖精は戦うことはしません。できません。
グレンは元々妖精ではなく歳を重ねる人として生きようとし、軍にまで入ってしまいました。
しかし妖精の意思を継ぎ、陛下に会って変わりました。もちろん良い方に。妖精の部分を持っているということは軍に向いていない面が少なからずあるということでしたから。
けれど今、グレンは人である部分に生まれた人しか持ち得ない感情に従っているのでしょう」
「――セオフィラス?」
「妖精は、あのように熱い目はできませんからね」
妖精に血は大敵。戦いが続いたために妖精は滅んだ。
自ら殺生など言語道断。グレンは妖精に比べれば「鈍い」が穢れと呼ぶべき血が多く流れる場に赴けば、その身を置けば、血を浴びれば、空気に晒されれば――
「ああ、遠い大地で争いが起きています」
「セオフィラス」
「少し眠ります、陛下」
「眠るって、駄目、いかないで」
「争いが終わるのを待たせていただくだけです。私たちには良くないものしかもたらさないものですからね……」
妖精公爵は今や後ろにもたれ掛かりきり、瞼で瞳を覆ってしまいかけている。
元々儚げだった妖精は今、本当に消えてしまいそうに思えた。
リディアが懸命に声をかけても手を握ってもちっとも彼も周りも元の通りにならない。焦りと恐怖が出てくる。
それなのに、未だに妖精は少しだけ申し訳なさそうなものを滲ませるが、微笑み続けている。
「申し訳ありません、陛下。一緒に待つことができず……」
「セオフィラス!」
「グレンは人です。ですが、また確かに妖精なのです、陛下……あの子のことをよろしくお願いします」
「待って、ねえ、私はどうすればいいの?」
駄目だ。待って。
小さな妖精がセオフィラスの周りに集まり、宝石みたいな目を閉じてしまっている。まるで、眠りについたようだ。皆。最後の小さな妖精が、シーツの上に降り立ち羽の動きを止めて、横たわる。動かなくなる。淡い光が、ろうそくに灯された火が吹き消されるように、ふっと消える。
ひとつ、またひとつ。
「小さな陛下、また、お会いしましょう」
きっと――と吐息をつくようにして最後、妖精公爵は目を閉じた。
宝石よりも貴い翠の瞳が見えなくなって、リディアは手を伸ばし、名前を呼ぼうとする。
お願い。起きて欲しい。どうか。
「セ――」
名前をもう一度紡ぐ途中、ふっと一気に辺りが暗くなり、息が詰まった。
◇
瞬き、目を開けるとそこには妖精公爵はいなかった。それどころか、「お伽噺の世界」でもなかった。
「…………え」
気がつけば、リディアは王宮の庭に立っていた。「お伽噺の世界」に繋がる生け垣が前にあるが花は咲いておらず、冷気が身を包むだけ。
「扉」が閉じた。
妖精公爵は――
「殿下!」
呆然としていると、後ろから誰かに声をかけられ抱き締められる。ふくよかな女性の身体。
ぎこちなく確かめると、侍女だった。そういえば、「お伽噺の世界」にいったとき一人だった。リディアが通ったあとすぐに閉じてしまったのだろうか。
けれど、今そんなことはどうでも良かった。
妖精公爵は眠ってしまった。
「お伽噺の世界」で感じた異変。
妖精公爵が言ったこと。
ああどうしよう、とリディアは瞳を揺らして侍女にしがみつく。グレンは大丈夫だろうか。