第13話 発つ
不穏な日常は終わりを告げることなく、グレンは今日もリディアの近くにいない。一体、どこにいるのだろうと俯きリディアは部屋に戻るところだった。
ここのところ外へは行けず、王宮内ですら行けていたところに行けなくなった。移動距離は格段に減り、私室周りでしか生活していない。
いわゆる息が詰まるという生活だ。
それは言うまでもなく、外に出られない、自由に動き回れないということばかりが理由ではない。
会う人は元々限られていたが、もっと限られてきた。増量された護衛の顔もどことなく見慣れてきた。ただし、親しみやすい雰囲気は皆無であるので話したことはただの一度もない。グレンは特別だったのだろう、とはじめて気がついたようになった。
およそ二分という時間で部屋に戻ると、侍女がお茶の用意をはじめてくれる。このお茶の用意もテーブルにつくまで色々行程が増えた、と感覚的にだけだが思う。
お茶が冷めるような時間はかからないのであまり気にはすることないはずだけれど、今はどうしてか細かいことが気になって仕方がなくなっていた。他にはたとえば、おおらかな笑顔が特徴の侍女が無理にそうしようとしていることが、わずかなぎこちなさに感じること。宰相もここのところ多忙でリディアの教師をしている暇が欠片もなくなったということ。
しかしそれ以外は、リディアの日常の流れは違和感を覚えるほど変わらなかった。勉強をすることが大半を占める、それは変わらなかったから。
ただ、周りに触発されるように以前とは違った意味で気分は沈みがちになっていた。
一番気にかかることはグレンがいないこと。いつも、護衛についてからはほぼ毎日側にいた彼がいないことに慣れそうになっているほどだった。
どこにいるのか、ミーシュに聞いてみたことがあったが彼女は困った顔をするだけだった。そういえば、普段彼はリディアの側にいないときはどこで何をしているのだろう。と考えて、全く知らないことに気がつくはめになった。
ぽつん、と一人ぼっちになった気分。小さな妖精はいない。「お伽噺の世界」に行けばいるだろう。でも行ける雰囲気ではないことは明らか。
違う。きっとリディアは今、とても安心がほしくてたまらないのだ。この空気に押し潰されそうで、不思議な温かさをもつグレンに会いたくてたまらない。
側にいてくれると言ったのに。「妖精」は側にいて悩みを聞くのだと言ったのに。
「殿下?」
思考に入り込み、俯いて真っ白なテーブルクロスを見つめたまま衣服を握りしめていると、その声は聞こえた。
耳に滑らかに入ってくる穏やかな声。
「グレン!」
「お久しぶりですね、殿下。お元気そうで安心しました」
知らない間に部屋に入ってきておりすぐ側にまで到ろうとしながら、久しぶり会った挨拶をするのは紛れもなくグレンである。
久方ぶりにその名前を紡いだリディアは顔を弾けあげると共に椅子からおりた。
今までどこにいたのかと文句が頭の中にはいくつも浮かぶ反面安堵と嬉しさがない交ぜになった感情ほ方が大きかった。それにより、普段はしない駆け寄るなんていう行為に及ぶべく自然と足が前に出かけていた。
出かけて。
その行動は現実とはならなかった。
足が凍りついたように動かず、代わりに二言目にも名前を呼ぶ。
「グレン……」
「はい」
「その格好……なに?」
久しぶりに目にしたグレンは、見慣れない格好をしていた。
彼の姿自体は容易に部屋に馴染むのに、身につけているものは部屋に馴染まない。鎧。武骨な、厳めしい軍服が視界に並んでいるよりも遥かに物々しさを感じさせるものにグレンは身を包んでいた。
リディアは顔を強張らせ、自分でも分からないが唇が一度震えた。
理解をしようともしたくなかったのかもしれない。
「どこかに行くの……?」
「少し遠くにね、行ってきます」
「どういう、こと?」
嫌な予感しかしない。
いつもいた距離にきたグレンは見上げる先で、迷う素振りなくそう答えた。ひどく漠然とした答えだとさすがに思う。
「何をしに行くの?」
明確な答えをくれない彼に新たに尋ねる。
「あなたを傷つけようとする人たちと話をしに行くんですよ」
「私を?」
「そうです」
「それって、誰なの」
「言えません」
「……どうして」
言えないはずはない。取り巻く空気が変わった日、リディアとても混乱していたけれど宰相が口にしようとしていたことを覚えている。あのとき、聞いていたら良かったのだろうか。
「俺が教えたくないから」
この護衛は教えてくれそうにもない。
簡単にこんな理由を口にするのだから。
「教えられないほうが不安って言ったら?」
「その不安を今から取り除いてきますから問題ないです」
口許には変わらない微笑み。
この部屋で、もしかするとこの王宮でただ一人彼だけが微笑んでいる。さっきから侍女も不安そうな顔をしているから。
「グレン、嘘ついてる。そんな格好して話をしに行くだけなんて嘘」
「本当ですよ、話をしに行くのは。こじれたら、少し穏便では済まされないので一応です。それに、俺はこれでも強いんですよ?」
「……でも、なんでグレンが行くの。グレンは」
リディアの護衛だったはずだ。
やっと姿を見れたと思ったらどこかに行こうとしている。
グレンがここに、リディアから離れることを言いにきたことはこの時点で疑いようもないのだから。
「一緒にいるって言ったのに……」
せめてぶつける言葉を作る声が萎み、小さく震える。
どうして、一番不安なときにいようとしてくれないのだ。
敢えて尋ね、答えてもらう方法をとるのはきっと否定の言葉が欲しかったからなのに、彼はその言葉をくれそうにない。くれない。
「そうですね……」
前に立ち、ずっと見上げ続けているリディアと視線を合わせるためかすっと膝を折り、今度はグレンが見上げる側になり下から覗き込むようにして目を合わせられる。
「俺はたぶん怒っているんだ。あなたを奪おうとした者がいることにね」
いつぶりかに間近に見る瞳。直に目を合わせてその変化にリディアの息が一瞬止まった。
一方、はめていたゴツゴツした手袋を片方外したグレンはリディアの手をそっととる。リディアは自らの手を恭しくその眼前まで持っていって見上げてくる緑の美しい彼の目が、優しく穏やかなだけではないことを知ってしまった。たった今。
「――グレン」
「大丈夫、すぐに帰ってくる。約束します」
そうじゃない。
その目は、胸騒ぎがしてならない。
彼の目は、妖精の証であるような不思議な穏やかさを持っていたはずだ。そうでなくとも、おそらく彼は元の性格が穏やかなのだともう分かっていた。
だが、今。今は目だけでなく声にも違う何かが混じっている。それは決して穏やかなものではなくむしろ正反対のものだ、と感づく。
「怒っている」。そう彼は言った。穏やかで優しい彼にまるで似つかわしくない言葉。それがこの瞳を変えているものの正体なのか。
リディアは困惑する。困惑させられる。
「そうだ、殿下彼らをお願いできますか」
そのとき、はじめて気がついた。鎧姿をしているグレンにばかり気をとられ、その周りを漂う小さな光たちがあったことに気がついていなかった。
グレンが言うと同時に光は彼の周りからふわふわとリディアの方へやってくる。
妖精だ。
これもまた久しぶりに見る淡い光に目を奪われる。
「これから行く場所は、妖精が好まないところになってしまうから」
はっとその言葉に周りに向けていた顔を戻すと、もう一度、言わずにはいられない。このままでは彼は行ってしまう。
「グレン……行かないで」
「そんな顔しないでください」
それなら、側に――誰よりも安心を与えてくれるグレンが側にいてくれればいいのに。
リディアが「今」望んでいるのはそれだけだ。それだけだというのに。
「ねぇ殿下、俺は言ったかな」
「なにを」
「あなたの側にいられるのなら、俺は妖精でいいのだと思うと」
言った。
「でもね、あなたを不安にさせる元を取り除きに行けるのなら、俺は人で良かったのだと思う」
親指の腹で手の甲を撫でたグレンは優しくその唇を触れさせる。緑の瞳が、隠しきれないほどに不安そうな顔をしているリディアを映す。
「……良くない」
ふわりふわり、とリディアの近くにいる小さな妖精。妖精が好まない場所に行こうとしているグレン。
「それなら妖精でいてよ」
それならいっそ彼が妖精であればいいのに。
心の底から湧き出てきたことを言えば、グレンは微笑んだ。
「ごめんね、殿下」
「グレン」
「俺がいない間に、俺が驚くような淑女になっていて」
「ね?」とここにきて卑怯なほど柔らかな声とかしげられる首。手を包む温もりが離れようとしていたのが分かったから、捕まえようとしたけれど無情にもするりと大きな手は離れていく。
背の高いグレンが立ち上がったから、その分離れる。
「また外で遊べるようになるから、そうしたら外で遊びましょう」
背が向けられ、グレンが振り向くことはなかった。
ドアが閉まりきらないうちに手にあった温もりなんてすぐに消えて、リディアは立ち尽くしていた。