52話「絶望に次ぐ絶望」
アルストフィアとユーダンクの間に広がる森の中。
ヴィーレ達が昼食をとっていた開けた空間に、その男は一人座り込んでいた。
元々黒かった肌はさらに黒く、火傷で焼け爛れ、服から露出している部分には氷礫をぶつけられた殴打痕がいくつも見受けられる。
「クックックッ……。フハハハハ……。ハァーハッハッハッハ!!」
右腕はあり得ない方向に曲がり、肋骨も数本折れている状態で、それでも彼、時計の魔物は笑っていた。
血まみれの顔で俯きながら、口の端が裂けんばかりに叫び散らす。
「勝ったッ! 生き延びた! 俺の勝利だァーッ!! やはりローファイ・タイムズは全勝不敗の能力だった!」
記憶の能力でドゥリカ・ブラウンの姿を復元する魔物。
無傷の身体に戻った彼はゆらりと立ち上がり、顔を片手で覆いながら、自らの生を実感していた。
ありふれた草木の香りや鳥の囀りが驚くほど心地よく感じられる。とても清々しい気分だ。
これも死地を乗り越えられた故なのだろう。
勝者のみに与えられる、絶頂にも似た生の悦び。魔物へ授けられたのはつまりそれだった。
(マジに死ぬかと思わされたぞ。半殺しにされたのは生まれて初めての経験だった……。だが、寸でのところで発動が間に合ったぜ……!)
先までの戦いを回想する。
イズからの怒濤の攻撃は魔物をひどく苦しめた。それこそ、能力を発現させる一瞬の隙すら掴めないほどに。
しかし、それでも彼は死の直前で、ローファイ・タイムズを発動させることができたのだ。
否、魔物が行ったことを正確に表現するならば、『発動』ではなく『解除』かもしれない。
だからこそ間に合った。
彼はある一部分に限って記憶の能力を解いてみせたのだ。
(イズとネメスを架空の世界に残したまま、俺だけが現実へと脱出した! 今も奴らは存在しないユーダンクの中にいるッ!)
それは最終手段だった。
己の力で任務を遂行することが不可能と判断した場合にのみ決行すると決めていた、究極の奥の手。
けれども、その手が残っていたからこそ、時計の魔物は架空のユーダンクで終始余裕を保っていることができた。
彼が宣っていたことは真実だったのだ。
黒時計に触れた瞬間、記憶の世界に引きずり込まれた時点で、イズとネメスの敗北は既に決していた。
能力が解除されない限り、二人は現実世界へと干渉できないのだから。
(このままローファイ・タイムズを解かずに魔王のところまで戻ることができれば、確実に奴らを仕留めることができるって寸法よォーッ!)
彼は正直、魔物の王のことを毛ほども信頼していなかったが、その絶対的な力にだけは唯一信用を置いていた。
人間以外の全ての生物を己の支配下に置く能力。
魔王の能力と呼ばれるその力によって送り込まれたのが黒時計と大蜘蛛だ。
他にも同等の実力を備えた刺客達が控えている。寄せ集めの強者同士、団結力は最悪だが、それでもイズやネメスを倒すには十分だろう。
魔物の任務は失敗した。
けれども、勝負に打ち勝つことはできる。
(魔力消費で死ぬほど疲れる上に、他の仲間からボロクソに貶されるだろうが、背に腹は代えられねえ……。くだらねえ自尊心なんぞ捨ててやる! イズ・ローウェルとネメス・ストリンガーに無上の苦痛を与えられるならなァ~ッ!)
魔物は空を仰ぎ見る。
晴れ間の見え始めた空から降り注ぐ薄明光線は、まるで彼を祝福しているようだった。
「俺は何としてでも帰還してみせるぜ。イズ、ネメス、テメェらが勝ち誇っている間によォ……!」
勝利の余韻を胸に抱いたまま、彼はゲラゲラと笑い転げる。
「フッハッハッハッ! ざまあみろ! 馬鹿め! 馬鹿めッ! あの馬鹿どもめェ~ッ!」
「馬鹿はお前だ」
魔物の笑い声を止めたのは、背後から聞こえた声と、砂利を踏みしめる音だった。
木々の間からぬらりと現れた人影。
赤い瞳が特徴的なその男は、大樹の幹に手をついて己の身体を支えながら、ひどく息を切らしている。
魔物は身体を硬直させたまま瞳だけで後ろを振り返ろうとするが、わざわざ目視せずとも、背後の存在が何者かはおおよそ見当がついていた。
「見つけたぞ……。時計の魔物ッ!」
二代目勇者ヴィーレ・キャンベルだ。
激しく呼吸が乱れているのは、イズとネメスを探して森を駆け回ったからだろう。服は大蜘蛛との戦闘によって数ヶ所だけ破れていた。
「ヴィーレ……キャンベル……!?」
黒と朱の視線が交錯する。
魔物は慌てて振り返り、臨戦態勢に入りながら相手の姿を爪指した。
「テメェ、何故生きているッ! 大蜘蛛に始末されたはずじゃあ……!」
「返り討ちにしてやったよ、黒時計。ちょうどお前と同じようにな……」
「チィッ! 《ローファイ・タイムズ》!」
空中に銃を出現させ、掴み取るなり構える魔物。
間合いは十分に離れている。剣が武器の相手にとっては射程外だ。
魔物は相手の胴体へ即座に照準を合わせた。
撃鉄が鳴る。火花が散る。爆ぜる音と共に魔弾が飛んだ。
弾丸は目にも留まらぬ速度で吸い込まれるように標的へと向かっていく。命中は必至。
「無駄だ」
だが、ヴィーレはそれを、まるで飛んできた蝿でも捕まえるかのように、素手で易々と受け止めた。
「なっ……!」
あり得ない光景に言葉を失う魔物。
彼は咄嗟に息を止め、銃を構えなおすと、今度は連続で高速の銃撃を行った。
しかし結果は先と同じ。ヴィーレは飛んでくる銃弾から隠れもせず、避けもせず、全てを手のひらで受け止めてみせる。
硝煙の香りが濃くなるほどに、時計の魔物の恐怖は深くなっていった。
(何だ!? 話が違うぞッ! ヴィーレ・キャンベルはただの農夫じゃあねえのかよ!?)
彼の焦りが照準の精度と弾丸の装填速度に表れ始める。勇者が只者でないことは最早明白だった。
やがて魔物が息を切らし、再び呼吸を開始したところで、ヴィーレは不意に口を開く。
「『生き延びた』だと? 『帰還する』だと? ユーモアとしては満点だ。だが……」
一歩。
ヴィーレ・キャンベルは重々しく、己の右足を踏み出した。
「笑えねえな。お前は既に――――」
二歩、三歩、四歩と進む。見開かれた朱色の瞳は、烈火の怒りを灯しているようであった。
「俺の仲間に手を出したッ!」
瞬間、彼は握りこまれた拳を大きく振り上げる。
魔物の身体にいくつもの穴が開いたのは、それとほぼ同時の出来事だった。傷口から勢いよく血が吹き出る。
「ガハァ……ッ!?」
予想外のダメージに魔物はその場で立ちくらむ。
自身の傷口を見下ろすと、その形はまさに銃創のそれだった。
(アイツ……まさか……!)
彼はすぐさま直感する。ヴィーレはただ手を振り上げたのではない、と。
勇者は手のひらで受け止めた弾丸を、超人的な膂力をもって投げ返してきたのだ。
銃弾並みの速度で、呪文も使わずに、である。
魔物は自身に何が起きたかを理解した後、一瞬で悟った。己とヴィーレとの間には超えられない実力差があることを。
(化け物だ……ッ! 敵うわけがねえ! この場から……に、逃げなければ……!)
特殊な能力も無しに弾丸を銃並みの速度で投擲するなど人間業ではない。
桁違いの魔力量だ。
死の予感。能力を発動させる素振りでも見せようものなら、確実に始末されるだろうという確信。
時計の魔物は半ば本能的に命乞いの言葉を叫んでいた。
「ゆ、許してくれ……ッ! すまなかった! 謝るよ! イズ・ローウェルもネメス・ストリンガーも解放する! だから……後生だから命だけは……ッ!」
銃を投げ捨てて跪き、両手を挙げて降伏の意思を示す。奥歯をガチガチと鳴らして、まるで蛇に睨まれた蛙だった。
彼が記憶している中で最もみじめな行為である。
「ほう、そうか。本当に後悔しているのならまだ更正の余地はあるかもしれないな……」
「そ、そうだろ!? なら――――」
「しかし、だ」
弁明を始めようとした魔物のもとへヴィーレは悠然と歩み寄っていく。
「許されるために謝っている時点で、そこに誠意はねえよなァ~ッ?」
そう言って勇者が背中の大剣を引き抜くと、魔物はいよいよ涙目になった。
「そ、そんなァ……ッ!」
彼が次の言葉を紡ぐことは無かった。
刹那の肉薄。左手で魔物の首に下げられていた懐中時計を握り、引き寄せる。
一刀両断。二分された魔物の身体を峰で殴り上げ、細切れに。
原型を残したまま空中に浮いた魔物を怒りに任せて切り刻む。
「クソ野郎が。肥料にもならねえんじゃあ、まったく使いようがない存在だ」
ヴィーレは低い声で吐き捨てるようにそう告げると、血飛沫を散らしながら宙を舞う魔物へと背を向けた。
剣筋が速すぎたらしく魔物の肉体は未だに分解を始めていない。
勇者が大剣を振り払った直後、ドゥリカ・ブラウンに扮した身体は地面へと叩きつけられ、砂のように崩れて消えてしまう。
今度は能力を使う暇さえなかったようだ。
「死後は慎めよ」
ヴィーレが左手に残った黒時計を握り潰すと、それもまた雲散霧消する。
どうやらドゥリカ・ブラウンの身体は能力で作り出した操り人形、つまり魔物の隠れ簑であり、本体は時計部分であったらしい。
魔物が死亡したことにより記憶の能力は解除された。
人知れず、迷いの森の中央で行われた戦い。
二十七分間に及ぶ刺客達との激闘は、こうしてようやく幕を閉じたのである。




