36話「託す先は人事か天命か」
苦戦するかに思われていた包囲網は、ヴィーレにいざ攻略させてみると、障害にすらなり得なかった。
糸を潜り、飛び越え、時には断ち切って強引に突破していく。
カズヤを抱えてそうしているのだから、速度は多少落ちてしまっているが、それでも鈍重の呪文を解除された子蜘蛛の疾走に匹敵するほどの速さはあった。
しかし、事はそう順調に運ばれない。
すかさず次の問題が現れる。
二人の目的は、敵から離れ、安全圏まで逃れた後、魔物の大群を爆発の呪文で消し去ること。
だのに、せっかく十分に距離を離したところで、もう一つの問題が露見してきた。
「あぁ、もう! 木が邪魔だッ!」
苛立ったように声をあげるのは、ヴィーレに横抱きされながら、蜘蛛達との間合いを測っているカズヤだ。
「僕らがさっきまでいた場所でも足りない……! もっと死角が少なくて、できるだけ広さのある所へ行かないと、爆発を起こすのは無茶だよ! 視認できない空間には呪文が使えないんだ!」
「承知しているさ! だが、この森の中にあそこより開けた場所は無い! 少なくとも、俺の記憶している範囲ではな」
「なら、森の外まで走り抜けよう!」
「言われずともッ! さっきから直進している!」
斜面を下り、後方から飛ばされる糸を避けつつも、足場の悪い獣道を駆けていくヴィーレ。
その息はかなり乱れていた。
追跡者は、人の頭ほどのサイズをした蜘蛛に、魔力による身体能力強化が上乗せされている化け物。
そのような連中が全力で追跡してきている状況で、隠れもせずに間合いをあけるのは、ただでさえ大変な仕事なのだ。
いくら体力のあるヴィーレでも全速力に近い速度で走り続けていれば、スタミナ切れが訪れるのは蜘蛛よりも先になってしまうだろう。
一方で、カズヤはヴィーレとは対照に、進行方向へは目を向けていなかった。
彼が注目しているのは後方の魔物どもだ。
追いつかれそうになったら、鈍重の呪文で相手のスピードに制限をかけ、互いの距離を適切なところまで調整する。
後々のことを考えると、魔力の無駄遣いはあまりできないけれども、目的の地へ到着する前に接触されたら本末転倒だろう。
かくして、二人は協力して森の外へと魔物を誘き寄せていた。
呼気を途切れ途切れにさせながら、ヴィーレは腕の中のカズヤへ問う。
「奴らを飲み込むほどの爆発は……お前の魔力量だと、あとどのくらい撃てそうだ……!?」
「全快状態で精々一発……。今の魔力量なら、敵の群れの中心へ狙いを定めないと厳しいかもしれない」
「中心に撃ち込めなければ、単純に考えても半数しか減らせないな……!」
「……絶望的だ」
「そうでもない……! まだ、望みはある!」
悲観的なカズヤに対して、ヴィーレは鼓舞するように強い否定を返した。
勾配のきつい坂を上り、目前を横切る小川を飛び越え、前方に現れた狼の魔物を無視して全力で疾走する。
彼らを追う子蜘蛛の群れは、障害の悉くを避けずに、飲み込み、押し潰すことで、乗り越えてきていた。
その姿に戦慄するカズヤに、頭上からヴィーレの声が投げられる。
「魔物の扱う『能力』には、人間の『呪文』と似通った箇所がいくつもある……。使い手の意識を絶てば効果は消えるという点もその一つだ」
ヴィーレは一切迷わずに道を切り開いていく。
正確には迷っている暇すら無いのだろうが、いずれにせよ、カズヤには彼の行く末に己の命運を委ねるほかなかった。
「俺達に『幻想の能力』をかけている個体……! ソイツらさえ殺すことができれば、この幻覚は消滅するッ!」
「ちょっとちょっと、馬鹿言わないでよ! 僕らがどれだけの魔物に噛まれたと思っているのさ! 能力をかけている個体が、何体いるかも覚えていないんだよ!? そんなギャンブルに命を賭けろって!?」
「賭ける必要は無い……! 『勝利』は俺が連れてきてやる! お前はただ、それを掴めばいいんだ」
カズヤの反論を受けてもなお信念を曲げないヴィーレ。
しかしながら、頑ななのはカズヤだって同じだった。彼には彼なりに、見過ごせない不確定要素を心配していたのだ。
「そうは言うけどさァ~……ッ!」
汗をダラダラと流しているヴィーレの顔から、後方に再び視線を戻すカズヤ。
「追いつかれるのは時間の問題だよ! 君の体力も、とっくに限界を迎えているだろう!」
焦燥混じりの口調と声量によって、彼は徐々に縮まっている敵との距離を、頭上の仲間に伝えてやった。
カズヤの指摘は、何も適当な推測などではない。
確かに、走り始めた当初に比べて、ヴィーレの速度は著しくダウンしていた。カズヤのサポートしなければならない場面も、時を経る毎に増えてきている。
このままでは、魔物に追いつかれる前に、勇者のスタミナが底を尽きてしまうだろう。
最悪の場合、魔物の眼前でカズヤごと転倒してしまう恐れもあった。
「……ヴィーレ、僕を下ろしてくれ! ここからは自分で走る!」
想定が現実になることを危惧したカズヤは、我慢ならないといった様子でそう頼んだ。
ヴィーレの服を引っ張り、両足をバタつかせる。
お姫様抱っこをされている姿勢のため、凄まれたところで絶妙に様にならない構図なのだが、彼にそのような事を気にしている余裕は無いようだ。
「魔力は惜しいけど、仕方がないッ! 鈍重の呪文を使って森の外まで逃げ切るよ!」
即興で考えついた策を早口に叫ぶ。
が、カズヤが応急のプランを用意しても尚、ヴィーレは走り続けていた。
聞こえていないのだろうか。
そう考えたカズヤが再度口を開こうとしたところで、勇者はようやく、数分間も休み無しに駆けさせていた足を止めた。
「……分かった。お前を放そう。だが、良かったな。もう走る必要は無いみたいだぞ」
短く息を切らせながら、カズヤの体を地面に下ろしてあげるヴィーレ。
彼にそれを命じたカズヤはと言えば、素直に停止してくれた勇者にわずかばかり困惑した様子を見せていた。
自分からの指示は無視されるだろうと、半ば諦めていただけに、ヴィーレの行動は意外だったようだ。
しかし、立ち上がってから前方へと視線をやった時、カズヤは遅れて得心することになる。
そして同時に、愕然と放心した。
(こ、この場所は……)
緩んだカズヤの右手からナイフがポロッと滑り落ちた。
黒の瞳は瞬きを繰り返している。
目の前の非情な現実を、幻覚の一種だと信じることに、虚しくも懸命な様子である。
そう、『非情な現実』だ。
森を抜けて、外界へと脱出した先にあったのは、目一杯に広がる曇天の天空と、二十メートル四方の草原であった。
周囲は見渡せるものの、行き着く先は全て断崖。下に広がるは大海のみ。
音がする。険しく切り立った岩壁に、荒々しい波のぶつかる音が。
濃密な土壌の匂いに潮の香りが混じりだした。
カズヤ達が死に物狂いでようやく辿り着いたのは、森林から伸びるように突き出た、正真正銘の『崖っぷち』だったのだ。
「行き止まりだ」
胸を上下させ、息を整えながら、ヴィーレはその現実を口にする。
崖の際まで行ったとしても、爆発の安全圏にはまだまだ程遠い。
かと言って、複数回に分けて小規模な爆発を放っていては、群れの表面にいる蜘蛛しか削れず、中心か最後尾付近に固まっている可能性の高い『本体』へ命中させられないだろう。
やはり、戻る以外に道は無い。
しかしながら、二人には察知できていた。背後から這い寄る無数の殺意が、段々と迫ってきているということを。
そして、もう決して後戻りはできないのだということもまた、彼らは認めなければならなかった。
(引き返すか? いいや、駄目だ。魔物の群れに自ら突っ込むことになる。奴らの間を抜ける前に、噛みつかれるか絡みつかれるかして死ぬのがオチだ)
皮肉にも、追い込まれたおかげか、カズヤの思考はここに至って最もよく冴え渡ってきた。
(海に飛び込む? ……あり得ない。蜘蛛達が水の中まで追ってきたら為す術も無く敗北だ)
ジリジリと、まるで待ちに待った御馳走を前に品定めをするように、魔物達はゆっくりと近付いてくる。
その足音はカズヤへ更なる圧力を加えていった。
(もし仮に、彼らを撒く方法があったとしても、『逃げ切る』という行動は絶対にしちゃいけない。立て直せるような形勢は僕らに無いし、『黒時計』のもとへ『子蜘蛛』を寄越してしまったら、イズさん達が助かる見込みは本当にゼロになるんだから)
だが、どれだけ頭の回転が良くなろうとも、依然として打開策は見えてこない。
(一巻の終わりだ……。僕はここで生きたまま、魔物の餌になるしかない……!)
膝から地面に崩れ落ちるカズヤ。
自身の死が避けられないものであるという現実。
志半ばでこの世を去るほかないという、齢十七の少年にはあまりにも酷すぎる結論。
彼に想定できる未来は、ただそれだけだった。




